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人との関係を大切にしながら、人を支え、支えられ、人に恵まれてきたからこそ、今の私がいる!
意外と周りの人の方が私のことを知っている気がします。
自分のことって自分では本当にわからないものです。
最近では、よく「カウンセラーに向いてる」とか「会社勤めであれば2番手がいい」とか「起業に向いてる」とか言われてきました。
当の私は「ほんとかー!?」って思っていました。
時系列で私の人生の棚卸しをしてみました。いわゆる自分史です。
書ているうちに、見たくないパンドラの箱をいくつも開けてしまって、かなりの体力を使い消耗しました(笑)
感情のジェットコースターが上がったり下がったりして忙しかったです。
事実と感情をセットにして観察をするのは、多少の痛みの発生しました。
なにか、皆さんの気づきになって頂けると幸いです。
◆【幼少期】好奇心旺盛な活発女子
【0歳】埼玉の田舎で育つ!
幼少期は、曾祖母、祖父母、父、母、私、年子の弟の7人という大家族の中で育ちました。
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父は、私が生まれる前までは、祖父母と一緒に自営業【うどん屋さん】をしていました。一番の人気メニューは★カレーうどん★だったそうです!父が調理して、祖母がうどんを打っていました。祖父は経営かな?
当時は、パートさんを3人雇っているほど、繁盛していたそうです。
お客さんは地元の方や東武東上線の駅員さんたちが来てくれていたそうです。現在の駅員さんで嘱託になった方は、覚えていらっしゃいました。
父が言うには、配達が一番売り上げが良かったそうです。
まとめて注文してくれるので、ありがたいと言っていました。
残念ながら、祖母の体調不良で閉店してしまいました。
私が生まれてからは、父は日産の子会社の自動車部品の会社に勤めていました。係長まで昇格しましたが、祖父の急死を機に早期退職をして自営業【農家と駐車場経営】を引き継ぎました。
母は、結婚する前まで、歯科衛生士をしていました。
結婚を機に、群馬から埼玉に出てきたので、専業主婦になりました。
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私はというと父方の方では初めての女の子ということで、アイドルのように可愛がられていました。(女王様の誕生です笑)
近所にいとこがいたのですが、2人男兄弟だったので、私は妹のように可愛がられていました。
実は、私の前に姉が居ました。妊娠8か月目におなかの中でへその緒が絡み合って亡くなったそうです。だから、私が元気に産まれて来たときは、安堵と嬉しさでいっぱいだったそうです。
母は、いつも「女の子が2人いてもよっかたわ~」って言うくらい私の誕生を喜んでくれていました。
私は手のかかる赤ちゃんで、たくさんの手を必要とさせた問題児でした。
夜も床に着けたら泣いてしまうので、母が車で運転して寝つけていたそうです。しかし、車が止まると泣いてしまったりして、大変だったそうです。
玄関先で乳母車の車輪の間に木を挟んで、ガタンゴトンと押したり引いたりするとようやく寝て静かになったと話していました。(もう、わがままさが爆発!!)
【1歳】一升餅背負えなくて号泣
一升餅を背負って歩こうとしたが、持てなくて号泣していたそうです。
なんでも自分でやりたい気持ちも多かった時期。
【2歳】弟が誕生!一気に私がアイドルではなく平民に転落した↓
1歳8ヵ月違いの年子の弟の存在は、私にとって邪魔な存在でした。
両親に取ったら待望の跡取りで、やっとの思いで授かった男の子。
しかし、私はお母さんに可愛がられて、甘えていて許せない!!
その怒りの感情が喧嘩や暴力に変わっていったのを覚えています。
どこかで、弟に対して「お前なんて消えてしまえ!」ってどこかで憎んでいて、邪悪な嫉妬心がメラメラです。お母さんを弟に奪われたと心の中では思っていました。
両親に言われていたのは、弟が生まれたことで私は赤ちゃん返りをしていたことです。
まず、1つ目がもう哺乳瓶で飲まなくても自分でご飯が食べれるのに、哺乳瓶でミルクを飲んでいたことです。しゃぶる部分がちぎれるくらい吸っていたそうです。両親は、見かねて上段の戸棚に隠して哺乳瓶は無くなったととぼけたそうです。
2つ目は、母が弟を抱っこして寝ているときに、「弟は寝てるんだから下に置いて」と私を母の足のところで抱っこしてよとせがんだそうです。
3つ目は、「お父さんと一緒に会社に行く!」と大泣きしたこと。
物理的に無理なのに、どうしても一緒に居たかったそうです。
母が私におもちゃで気をそらせているうちに、父は出勤しました。
どうしても、両親にお世話してもらいたかったのでしょう。
お世話してもらうことで両親の愛情を感じられると注目してもらえると思ったのでしょう。なんだか、自分だけ蚊帳の外にいる感覚があって、すごく寂しかったです。
【3歳】お転婆な私
部屋の中を乗り物玩具で動き回り、玄関先の段差で落ちることもしばしば。あれ、見ないなぁと思ったら、縁側から落ちているか、外に遊びに行っているような子どもだったようです。
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でも、自宅に来客が来ると玄関で「どうじょ、どうじょ」と人を招き入れる仕草を姉弟でしていたそうです。母はかわいいなと思っていたようです。
スイミングを始める
内気な性格もあって、人に慣れるさせるためにスイミングに通わせたそうです。
初日は、大泣きだったようで先生から「どうされますか?」と聞かれて、母は、「入れておいてください!」と答えたそうです。(メンタル激強の母です。)
記憶にはありませんが、母に見放されたと勘違いして怒りや悲しさがいっぱいだったと思います。
それからスイミングに通うにつれてだんだん慣れていって、1人で楽しんでスイミングに通うようにりました。そのうち、小学生になると弟を連れてスイミングのスクールバスに乗って通うようになりました。
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母が、女の子だからピンク、男の子だから青って洋服を着せても間違われたそうです。
そこでも、なぜか弟との喧嘩が絶えませんでした。内容は覚えていませんが、私が弟の種目の級がなかなか合格できず、馬鹿にしたか、偉そうに指示したかそんなことだと思います。私ができることをなぜ弟はできないのかっていう人の気持ちが全く分からないお姉さんでした。弟からしたら、メンタルはズタボロだったことに申し訳なく思います。(ごめんよ。弟よ。)
私は順調にクロールから最後はバタフライまで泳げるようになりました。
いつも母に言われていた言葉で嫌いな言葉がありました。
「お姉ちゃんなんだから、自分でやりなさい!!」
この言葉を言われるたびに怒りの感情が込み上げていました。
「弟は言われないのに、なんで私だけ言われなきゃいけないの!?」って心の中で恨んでいました。3歳でまだまだ甘えたい時期だったのに、弟だけずるいって思っていました。今思えば、赤ちゃんのような世話をする時期は終わっていて、自分でできるのに、できないふりをしていたから母は叱ったんだと頭では理解できます。でも、あの頃は自分でできるいようになってしまったら、お母さんに手伝ってもらえなくなってしまう恐怖がありました。子どもながらにお母さんの手から離れる=死だと勘違いしてるところもありました。子どもに取ったらお母さんは神です。
だから、自立が悪いことのように感じていたのかもしれません。
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ちょっかい出してますねー(笑)
いろんなことを言われるから左耳が聞こえなくなる
テレビを見ていた私を母が呼んだときに振り向かなかったそうです。
おかしいと思って、病院に連れて行ったら、左耳が聞こえなくなっていたそうです。1つ目の病院ではもう聞こえなくなると処置がないと言われ、諦めきれずに2つ目に行った病院で、「治りますよ」と言われて、必死の思いで1年間通院しました。
私は、全く記憶にありませんが、躾されるその言葉をもう聞くことにうんざりしていたんだと思います。親は成長にため、自立のために言っているのに、私はそこまで自分の気持ちが追い付いていなかったと思います。
◆【幼稚園】初めての集団行動での学び
【5歳】慎重な幼稚園児
待ちに待った幼稚園の入学式。
なんと、水疱瘡で欠席。でも母だけ出席。私不在。集合写真は左上が私(笑)
楽しみにしていた幼稚園生活は暗黙のスタート。
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母が言うには、みんなの輪に入る時も、隅っこからまずは全体を観察して、安全かどうか確認してから輪の中に入るような子だったそうです。
アトピーで病院通い
足裏が裂けるアトピーで痛痒く、いつも靴下を履いていました。夜寝ているときに体温が上がると足の裏をよく掻いており、ボリボリ掻きむしる音がしていたそうです。かかりつけ医が「通学するようになって歩けば治るよ!」といったとおり、足腰が鍛えられたのかいつしか足裏が裂けることも出なくなりました。
迷子で場内放送連発!
この頃、デパートや競艇場でよく迷子になっていました。
好奇心旺盛だから、あらゆるものが目に入ってじっとしていられなくて動きまわってしまうので、いつの間にかいなくなってしまう。
母に「ここで待ってなさい!」と言われても大体待ってられず動いてしまって迷子になり、よく泣いていました。
そして、ある日、家族内で会議が行われました。
母はバレエを習わせたかったようですが、私はピアノが習いたいと言ったそうです。祖父から「やるのか?」と聞かれて、「やる!」と答えたそうです。(私はまったく記憶にない。)こんな小さな子どもがこれからどうなるかわからないのに練習用のピアノを買ってくれました。(値段は軽トラ1台分だそうです。)まだ、手が小さいという理由で6歳から習い始めました。
【6歳】大事件!弟を階段の一番上から突き落とす!!
弟に対して、なんかの弾みで(記憶にはない)恨みと憎しみが増して、自宅の階段の一番上から突き落とすという大事件が勃発!弟の体が柔らかかったせいか、ケガはなく鼻血が出ただけでした。私は大事を起こした感覚はなく、両親に叱られました。
母を取られた、母に甘えてる姿を見て弟に対してムカついていた、怒りの感情です。
一歩間違えれば殺人級の話です。
人の痛みが分かっていない大バカ野郎です!
母には「2人しかいない姉弟なんだから仲良くしなさい!!」といつも怒られていました。
子どもだからという理由で済ませることのできないことをしてしまって、この大事件の罪悪感をすごく感じていました。
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今思うと、こんなわがままで自分勝手で暴力的な姉でもいつも後ろをくっついてきて、かまってほしくて私にちょっかい出してくるような弟でした。
私が思っている以上に弟はこんな私でも大好きだったんですよね。
どんな時も一番の味方でいてくれたんですよ。分かってあげられなかった。
この弟の気持ちを理解できるまでにすごく時間がかかりました。
弟がトラックに轢かれて生死を彷徨う重症を負う
私が帰宅したら幼稚園の園長先生が祖父と居間で話をしていたんです。
子どもながらにドキッとしました。
弟が友人の家に行く途中にトラックに轢かれたんです。
自転車ごと吹き飛ばされたけれど、ちょうど草がクッションなって少し衝撃が吸収されたと事故現場の住人の方が手当てをしてくれて助けてくれたそうです。
なぜか、私が、いつもいじめてしまったせいだって自分のせいだって罪悪感とショックを受けてしまって、なかなか病院のお見舞いにも行けなかったんですよね。
祖母が野良着で幼稚園のバスの停留所に来てしまい大号泣
祖母が、畑仕事をしていて、そのまま幼稚園のバスの停留所に来てしまってので、私はすごくは恥ずかしくて大号泣。どうやら、クラスメイトの前で野良着ではなく普段着で来てほしかったようです。野良着=汚いというイメージが子どもながらにあって、その姿をクラスメイトに見られたことが恥ずかしかったようです。祖母は、仕事をしていたので悪気はないのですが、私はそんなことお構いなく、ただ、きれいな格好で来てほしかったのを覚えています。陰で、祖父が祖母に注意をしていたようです。
その後は、祖父が、もともとおしゃれだったので、お迎えの時に母がこれない時は祖父が停留所まで迎えに来てくれるようになりました。祖父母参観とかもあって、祖母に「きれいな格好で来てね!」と子どもながらにいっちょ前に言っていたそうです。
◆【小学生】活発女子は健在
【7歳】小学校に入学しても活発女子
小学校まで片道3㎞、約1時間かかりましたし、校門の手前が坂道で大変でした。校庭からボールが転がると取ってくるのが本当に至難の業でした。
幼少期はたくさん病気をしたのですが、長距離を毎日歩いたことで、すこぶる健康になりました。
この頃の私の趣味は寄り道!!
今日はどこの道を通て帰ろうかな~って考えるのがめちゃくちゃ好きでわくわくしてました。片道3㎞もあれば、裏道や畑道を通ったり、途中におじいちゃんが住んでいる平屋の家があって、立ち寄るとヤクルトをもらったり水を飲んだりしていました。他にも町工場の水道水を飲める給水ポイントがありました。そこの工場は祖父の友人だったのでご好意で水道を使わせていただいていました。夏は、みんなでがぶ飲みしていました。
いつもみんなで話したり寄り道が楽しくなってしまって、町内の校内放送「よい子のみなさんは早く帰りましょう~」と音楽が流れるのですが、この音楽で「あっ!?やばい!早く帰らなくては!!」と焦ってダッシュで帰宅していたのを覚えています。
帰宅すると祖父に「今日はどの道を通って帰ってきたんだ!?」と聞かれてよく話をしていました。
最適なルートをどうやって選んで動いていくのかを学んだと思います。
両親はあまり門限を作ったこともなかったけれど、事前申告(何時には帰るよ~とか)しておけば大丈夫でした。この頃から、自分で決めて管理する習慣は積み上げてきたのかもしれません。
そして、習字を習い始めます。
書くことは好きだったので、集中して書き上げていしました。(1時間くらい)いろんな学生が出入りしていました。その中でも、気にならずに、どんどん書き上げて楽しかったです。
小学生では、埼玉県独自の硬筆という国語の授業があります。
埼玉県では毎年春に硬筆展覧会が開催され、埼玉県の全公立小中学校の児童生徒が参加しています。 クラスで上手に書けた2〜3名の作品が学校代表として市展に出品され、各地域で特に優秀だった作品が埼玉県展に進み、埼玉NO.1を決めるという、硬筆のオリンピックのような大会があります。
そして、毎年冬には書初め展覧会もありました。内容は硬筆展覧会と同様です。
私は、クラス代表に毎年選出されて、校内にも貼りだされることもありました。この頃は、学校に残って練習するくらい力を入れていたのを覚えています。字を書くのが好きだったことで、練習してもひたすら集中できたのであっという間に時間が過ぎました。上達したのも早かったと思います。
【8歳】家のお手伝いが増える。
上野家【本家】は農家と駐車場経営(自営業)をしていました。祖父は第一子長男ということもあり、祖父母ともに7人兄弟の親戚も多く、そして、交友関係が広く、町内の議員、町長、他長の小学校校長、町内の園長等毎日たくさんのお偉いさんが出入りしていました。それに加えて、お盆と正月も親戚が集まると30人近くが集まり大騒ぎ。そして、駐車場の支払いは月末払なので、月末になると来客も増えていました。
母からは「勉強ができなくても挨拶しなさい!」「靴をそろえなさい!」「誰か来たら名前を聞いておきなさい!」「電話を取ったら名前を名乗って、相手の名前を聞きなさい!」とデフォルトのように躾けられました。
でも、本当は、やりたくなかったです。心の中は、「なんで私だけやるの?弟はなんでやらないの?」って怒りの感情はありました。
友達とも遊びたいし、テレビ見たいし、ゲームもしたい。
お手伝い面倒くさいって思って嫌々やってました。
子どもながらに、「家にいても休まらないな~、一人になりたいな~、つらいな~、ゆっくりしたいな~」って知らない大人が出入りすることに精神的に疲弊していました。だから、家庭は落ち着きのないところ、自分の居場所がないところって思っていました。だから、押し入れの中に入ってよく寝てしまって両親が探していました。なぜか、クラスメイトの核家族にも憧れを持っていました。
いつも知っている親戚の叔父叔母や祖父の友人だと顔見知りで人柄も知っていたので、私から「どーもー!こんにちはー!」って挨拶していました。居間のこたつで一緒に話したり祖父と一緒にテレビの相撲を観たりしても安心して居られました。
【9歳】母が入院し、スイミングを強制的に退会
私にとっては、大事件でした。
母が入院したことも大変でしたが、3歳から始めたスイミングを辞めてしまうことも大事件でした。その後も父に「スイミングのスクールバスで通うし、弟も一緒に連れて行くから通わせてほしい!」と懇願しました。
しかし、父も仕事と家庭と祖父母もいたので面倒を見切れなかったこともあり、スイミングを退会してしまいました。
(しかし、父が調理師免許を持っているので、お弁当もウサギのリンゴやたこさんウィンナーが入っていて、比べるのは良くないのですが、母よりもご飯がおいしいかったです。)
子どもながらに自分がやりたいことを辞めてしまうのは本当につらかったです。もっとやっていたかったなっていう思いから、近所の市民プ―ルや町内のプールなど行きまくっていました。
母も「水の中にいると本当に静かに遊んでいるのよね。」と言っていました。
小学校期間、夏休みには家族で海水浴
父が毎年、新潟の柏崎の海に連れて行ってくれていました。
海なし県に住んでいるので、海を見れるだけでもテンションが上がっていました。魚料理もおいしくて、日中は海に入りっぱなしでしたが、疲れるまでめいっぱい遊んでいました。
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夏休みは母方の実家の群馬に帰省
母方の実家が群馬だったので、夏に行くと標高が高いせいか涼しくて避暑地でした。その中で、一面畑のところも多く、車の通りも少ないので、砂利道でも遊びたい放題!!一輪車の荷台に弟を乗せて全力ダッシュして遊ぶというわけのわからない遊びをしていました。
祖母からよく「怪我したら危ないからやめなさい!」と温厚な祖母によく注意されていました。
埼玉でも田舎だと思っていましたが、群馬に行くともっと畑ばっかりでこんにゃくやほうれんそうやとうもろこしと高原野菜がたくさんあって自然豊かだなと思い、ご近所さんも優しくのんびりと過ごしている印象がありました。
そろばんを習い始めます。
そろばんは自分が練習すればするほど級が上がっていきました。
周りにいる学生や同級生と一緒に頑張って競技大会や商工会議所主催の珠算と暗算の検定を受験して結果を残してきました。
級が上がるのは嬉しかったけど、結局、母に褒めてほしくてやっていました。自分の実力や能力が上がるためにやってなかったんです。
だから、いつも人の目が気になっていました。人からどう思われるのか。
苦しくて、どこか満たされた感覚はずっとなかったです。
ここでも、弟と喧嘩してたと思います。
だから、両親はそろばん塾を別々にしたんです。喧嘩しないようにと。
ピアノの発表会
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6歳からピアノを習い始めて、1年に1回ピアノ発表会がありました。
練習の時にはよく間違えたりしていたのですが、本番になると一つも間違えずに弾けていてホッとしていました。
音符は読めていたし、練習もよくしていました。
夜自宅で練習していると、祖父に「夜、ピアノを弾くと蛇が出てくるからやめろ!」と言われていました。意味はよくわからなかったけれど、こういう迷信を言われていたのを覚えています。話は違うけど、金の霊柩車が通ったら親指隠せとか!?
【10歳】地元のスポーツ少年団【サッカー部】に入部
小学校4年生から3年間、サッカーをしていました。ポジションは中村俊輔選手(元プロサッカー選手。元日本代表)と同じサイドハーフで、攻めも守りもしていました。
入部したきっかけは、友達が「サッカー部とバレー部の部員を募集しているから見に来ない?」と誘われたことです。
子どもながらに、「サッカー部とバレー部をやりたい。見学に行って決めたい!」と両親に懇願しました。
それで、両部の練習してるところを見学しに行きました。
私の感想は「バレー部は盛り上がっていないな~、サッカー部はたくさんいてめっちゃ盛り上がってるな~!!」と雰囲気だけで判断しました。
サッカー部に入ろう!!と入部を決めました。
当時は、女子サッカーもそんなにメジャーではなかったのですが、みんなと一緒(チームワーク)に勝ち抜いていく楽しさを知った時期でした。
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【11歳】サッカーに夢中になる
本格的にサッカーの練習を始めました。なかなかうまくならずに苦戦しましたね。特に、リフティングが苦手でした。足首をうまく使えなかったのと練習不足です。子どもってすぐやってすぐできるような漠然とした自信がなぜかあったりします。伸び悩んだ理由は、今思えばおっきなプライドが邪魔をしていたと思います。
でも、みんなと練習するから、苦手を克服するために練習したり、得意を伸ばして行けたのだと思います。
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高学年になった頃いじめられていた
小学校の高学年の頃に、太っていていじめられたことがありました。
その悔しさは計り知れませんでした。
しかし、サッカーも始めたこともあって、「太ってても、動けるよね。」と特に男子からは見る目が変わって、いつしかいじめられこともなくなりました。(卒業文集にも男子からはスポーツが得意と書かれていました!)むしろ、体育の授業中でもサッカーを教えることも多くなっていきました。
母も保護者同士で「尚ちゃんは、太っているけど俊敏だよね!」とよく言われていたそうです。(嫌味っぽく感じるけど笑)私ってどんなイメージを持たれていたんだろうと思ってしまいました。
やはり、自分の得意なことや強みがあると自分の不得意や弱みはカバーできるんだと実感した瞬間でした。
【12歳】サッカー部で副キャプテンになる
投票制で、副キャプテンになりました。キャプテンやりたかったな【1番になりたかった】という思いもありました。しかし、副キャプテンの役割を調べたら、
【副キャプテンの役割】
キャプテンの苦手なこと・できないことを引き受けてサポートする
キャプテンの判断に対し、客観的な意見を提案する
下級生からの意見をしっかり聞き入れる
チームワークを向上させ、チームを強化する
今思えば、副キャプテンの役割を全うしていたなと思います。
やっていてうれしいことも楽しいことも悔しいこともつらいこともいろんな感情がありましたが、一つの目標に向かって頑張ることの嬉しさの方が強かったです。
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特に、後輩に教えたり話を聞いたりしていました。後輩も何かあったら、私に相談を持ち掛けてくることも多かったです。時に、叱ったりもしていました。そして、わたしも後輩たちをかまったり遊んだりしていました。
1人が上手でもチームワークが取れていなければ、どこか独りよがりのプレーになってしまって点も取れずに勝つこともできない。
チーム一丸という言葉がある通り、自分のポジションの役割を全うして、いかにゴールを目指してボールを回していけるのか。チームメンバーの長所も見抜きながら、試合で練習の成果が出せるようにカバーするのを意識していました。
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私はプレーの3手先くらいをイメージしていました。空間を把握してどこにパスを出すのか、どこに相手チームがいるのか、チームメイトをどこに走らせたらいいのかプレーの間に戦術が見えてくるときもありました。
県選抜に選ばれる
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近隣小学校のクラブチームからの選抜で選出されたチームになります。
めっちゃ楽しかった。本気でやるからこそ失敗もうまくいかないことも多いけれど、得られる達成感は計り知れない。
達成感の楽しみを知ってしまったのはこの時だと思います。
小学校の卒業文集について
小学校の卒業文集を見てびっくりしました。
短所のところに【少し暴力的?】て書いてあることに驚きました。
12歳の私は、感情のコントロールができないことに気づいていたことです。制御できなくて、人間関係にも支障が出始めていたと思います。
でも、どう対処していいのか分からなくて、卒業文集に言語化していたのは誰かに助けを求めていたのかと思います。幼少期も弟への暴力行為が連発していたから、無意識に嫌だったんでしょうね。
当時の私を抱きしめてあげたいと本当に思います。
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先生:字がうまい
男子:スポーツが得意
女子:明るい、字が上手、頭がいい
って思われてたんだ(笑)
◆【中学校】人間関係に悩んだ思春期
【13歳】中学に入学して自分の実力を知る
中学校に入学して、どんどん勉強する意欲が下がってきて、(小学校の卒業文集には頭がいいと書かれていましたがあれは何だったんだろう??)中間テストや期末テストで全クラスの真ん中くらいになってしまいました。
これではまずいと思い、父に「学校でのテストの点数が上がらず、自分一人だと難しいから塾に通わせてほしい。」と言った記憶があります。
塾に通い始めて、他校の子とも仲良くなって楽しかったです。
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学校は別だったけど、高校第一志望合格の目標にに向けて頑張れた!本当にありがとう!
最初はクラス分けのテストがあって、一番下のクラスでした。
勉強をしたらいいかと前向きでした。
同年代の子と切磋琢磨できて、授業中もいつも笑いながら時に真剣に授業が受けれたので、塾選びを両親がしてくれたことに感謝です。
当時は、両親のありがたさなんてちっともわからない、「なんでやってくれないのー」って怒ってばっかりで、最悪な娘です。
授業料だって掛かっていて、タダではないのに、いつも応援してくれる両親におんぶにだっこでした。それは、うまくいかなくて当然
部活動で人間関係で悩む
中学校ではサッカー部がなかったので、友人に誘われ最初はバレー部に入部。運動部に入っていなければ、きっと力を持て余していたでしょう。
私も問題があったとは思いますが、練習を真剣に取り組めなかったです。
苦手なフォームやトスもあり、一向に練習してもうまくならなくて、いつも後ろの方にいた気がします。
教えてもらったことを体現できてなかったんだと思います。
どんどん居心地が悪くなっていきまいした。
【14歳】部活動をバレー部からバドンミトン部へ変部
自分が素直に負けを認めて、謙虚に学びさえすれば、もしかしたら上達したかもしれませんが、向き不向きも合ったと思います。
バレー部からバドンミントン部へ変部しました。
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これが、まさに転機で、顧問の先生も私の担任ということ、身近に近い友達がたくさんいたことで、バドミントンの練習をし始めてからみるみる上達してスタメンになっていました。
私は、環境に左右されやすく、人間関係が良好でないと取り組むこともスムーズにいかない。
【15歳】志望校に見事合格!!
受験勉強に精を入れた1年でした。
塾にも通い、自主勉強するために母に送り迎えしてもらい早めに行ってました。休みの日には図書館に行って勉強していました。
授業中もみんなで教え合ったり、集中して問題を解いたりして合格に向けて頑張っていました。
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埼玉県には、北辰テストという埼玉県公立高校入試を意識した形のテストがあります。北辰テストとは、埼玉の中学生の学力指針とされています。埼玉県内の国公立中学校に通う中学3年生のうち、1回でも北辰テストを受験したことのある人は全体の9割以上となっています。近隣の指定高校があって、
日曜日に定期的に開催していました。
埼玉県の私立高校では、北辰テストや通知表などで合格の約束をもらうことで何らかの優遇制度を取ってました。私も私立の併願高は事前説明会での面談で北辰の通知結果を見せて優遇してもらったと思います。
判定はABCDと書いてあって判断していました。
私は第一志望の判定がD→Bくらいまで上がった記憶があります。
めちゃくちゃ、懐かしい~!!!
塾も合格を目指すために、試験の直前は正月を返上して合宿がありました。
場所は、東京都の六本木のホテルでした。
ホテルには缶詰でひたすら試験をして順位別に机に座ります。
グループごとに担当する高校生のアドバイザーがいて、質問ができました。
この時代だから、はち巻きして、皆で掛け声をかけて必勝を祈願しました。
集団になると、なぜか大声を出して鼓舞をすることが多かった気がします。
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私は県立を第一志望にして、私立を2校併願高にしました。
県立の推薦試験は不合格だったので、一般試験での受験です。
試験当日は緊張しましたが、やってきたすべてを出し切りました。
合格発表は受験した高校に母と一緒に見に行きました。
私の番号の前後が欠番となっていて不合格だったようで、すごく悲しい気持ちと嬉しい気持ちで複雑でした。
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でも、試験の合格はぎりぎりの点数だったようです。
内申点が良かったため、当日の一般試験の点数があんまり芳しくなかったと塾の先生に言われました。だけど、合格したので結果オーライです。
祖父が草津に旅行に連れて行ってくれた
これは、上野家でも語り継がれていることです。
草津に旅行に行ったのですが、ホテル櫻井という旅館の貴賓室に泊まったんです。天皇陛下が泊まるような部屋で、室内には鹿威しや茶室があり、今まで見たことのない風情ある客室でした。
祖父の本物志向は生活にも現れていて、スーツもオーダーメードで、私服もすごくおしゃれでした。近所の方々も「おじいちゃんはいつもおしゃれだよね~」って言われていました。戦争を体験しているからなのか、髪の毛をセットするのも玄関にある鏡の前に10分位立ってビシッとセットしてから出掛けていました。いつでも、出発できるようにきちんとした格好をしていました。
◆【高校】初めての挫折
【16歳】高校入学。サッカー部に入学。
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高校は、第一志望の隣の東松山市にある公立の女子校に入学。制服がかわいかったのと、サッカー部があったので選びました。
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埼玉県は、男子校も女子高も多いです。
サッカー部に入部しました。
毎日練習の日々で、女子のかわいらしさはどっかふっ飛んでいきました(笑)
朝練して、授業が終わってから、20時くらいまで練習してました。
2時間目くらいでいつもお腹が空いていて、学食に行って、ケチャップライスを揚げたゴールデンボールという軽食があって、ポテトフライと一緒に食べていました。昼食まで我慢できなくて、教室中を揚げ物のにおいにしていました(笑)
【17歳】初めての挫折!試合中にケガで戦線離脱
練習していても、小学校の頃のようにサッカーに打ち込めなくなっていきました。練習も高度なトレーニングになってきたり、試合に勝つための個人のトレーニングも必要になったり、レギュラー争いも陰湿なものになっていって、だんだん練習していても居ずらくなっていきました。
私のドリブルやシュートも練習してもなかなか納得いくものにならなくて、自分の実力のなさを認めてくなかったんだと思います。
そんな時期に、県の大会の試合中にケガをしてしまいました。
ケガをしてから何となく、部活に復帰できずに幽霊部員になりました。
自分のケガでいろんなことを考えていたともいます。
たぶん、サッカーの経験もあったし、自分の欠点を認められずに負けを認められない、成長することよりも自分のおっきなプライドを取ってしまったんだと思います。謙虚に学ぶことができなかった。
2学期の後半に先輩が私に手紙をくれたんです。
その先輩は、プレーヤーなのにあまり激しい運動ができないから、マネージャーのお手伝いをよくしていました。
内容はなんだか忘れてしまったのですが、「また、練習に出てくるのを待っているよ!」とそんな内容だったと思います。
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それから、1月の新学期に部活に復帰したんです。
周りの目も気になりましたが、練習に参加できました。
【18歳】祖父母の金婚式
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祖父母の金婚式
結婚して50周年ということで、越生にある料亭でお祝いしました。
父の家族、叔母の家族と一緒にお祝いして盛り上がりました。
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この頃から上下逆になっていきました。
スタジオでの記念撮影は祖父母ともにものすごく喜んでいました。
高校を卒業を機にピアノを辞めました。
それは、ピアノが好きで将来は音楽の道に進みたかったからです。やはり、自分の実力も足りませんでした。よく、先生からは、「感情をこめて弾いて」と言われていましたが、感情ってどうやって音に込めるの?って表現の世界って難しいなあって思いました。今、思えば、人生の厚みからでも感情は表現できたり、音の強弱で感情を表現できたり、いろんな方法がありました。
父にも「音楽は難しい世界だからやめた方がいい!」とアドバイスされました。ここで、ピアノの他の音楽の選択肢があったら、私から懇願できましたが、知識もなかったので音楽の道は諦めました。
父からは「公務員はどうだ?」と言われました。私のいとこが国税局と消防士だったので、身近に公務員で働いている姿は見ていました。そして、物理の先生からも、「公務員はいいぞ。ちょっと見てみたらどうだ?」と勧められました。
ピアノを6歳から18歳まで習っていたので、ピアノを辞めてから心がポカンと穴が開いた感じでした。
女友達と一緒にKinki kidsのコンサート→J-FRIENDSの抽選で当たって、ジャニーズのカウントダウンコンサートへ
これは、私にとっても転機でした。
ピアノも辞めてしまって、何をしようか迷っていた時に、当時、堂本剛主演の「金田一少年の事件簿」を見たんです。ハマりましたね~!!
それから、Kinki kidsが好きになってファンクラブに入りました。
そして、同じクラスの子で、同じようにキンキファンの子がいて、J-FRIENDS【TOKIO・V6・Kinki kids】のCDについていた抽選券があり、お台場で抽選があって、ガラガラを回して、赤玉が出たら、大みそかのジャニーズカウントダウンコンサートにご招待というチャンスがありました。見事に赤玉が出て当選!!!
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Kinki kidsのアルバムのプロモーションと共に。
友達がKinki kidsのコンサートのチケットを取ってくれました。
カウントダウンコンサートの前にキンキのコンサートもあって連チャンでライブ鑑賞。会場は東京ドーム。ものすごい人混みでした。帰りは、終電もなかったので、近くの明治神宮に参拝しました。ここでも人混み。新年の祈願をして始発で帰宅しました。
デビュー曲の「硝子の少年」の8㎝CDが出てきました。聞ける機材もないのにどうしよう???
◆【専門学校】ストーカー事件!
【19歳】ストーカー事件が勃発!クラス中が大騒ぎ!
大宮市(現、さいたま市)にある大原法律公務員専門学校で2年間勉強しました。
公務員を目指す学校なのに、個性的な人しかいなかったです(笑)
年頃なので、恋愛の話を女友達と良くしていました。
夏休みにアルバイトをしたんです。ヤマトの荷物の仕分けの作業です。目的はダイエット!部活引退で消費カロリーが減ったにも関わらず、食べる量はそのままで太りだしてしまったので、夏休みや冬休みの期間、ダイエット目的で始めました。見事に夏休みの1ヶ月7㎏の減量に成功しました。めちゃくちゃ嬉しかったです。お金も貰えて、体重も減って一石三鳥くらいありました。
そして、夏休み明け、学校に行くとクラスメイトからは「病気したのか???」と心配されました(笑)しかし、今まで私に話しかけてこなかった男子がたくさん増えました。やっぱり、見た目で判断されるんだと冷静に考えてしまう自分がいました。
やたらとご飯に誘われたり、告白されるようになって不信感を抱きます。
この頃、別校舎もあって、スポーツフェスティバルという学校の体育祭があってそこで一緒だった男性がいました。なんか、わたしが物を落として拾って渡したか、チラシを渡したかで接点を持った時に何を勘違いしたのか優しくされたと思ったようです。
当時、ピッチという電話機能しかない携帯電話だったけれど、私の電話番号を聞こうと校舎の校門の前で待ち伏せされていたんです。
それで、その男性に引き止められてから、「電話番号を教えてくれないと帰さない!!」と言われて、恐怖を覚えて断わっていたのですが、本当にしつこくて1時間くらい押し問答してました。クラスメイトには冷やかされたりしてたけれど、私は半泣きそう状態。それに気づいた同じ方向でいつも帰っていた男友達が中に入ってくれて話をつけてくれてやっと帰れたのです。
その後も、スポーツフェスティバルのダンスの練習で大宮公園にある体育館に行きました。その時にも、その男性は何をアピールしたかったのか白ブーツなのに木に登って(5メートルくらいの枝木)私を見下ろしてきたんです。(その後は、白ブーツとあだ名がつきました。)クラスメイトも30人位いたんですが、みんなドン引きでした。女友達は「尚子の生命の危機を感じる!」って言われて2、3日一緒に登下校してくれていました。その後もクラス中「あいつは紙一重だな~、見た目は悪そうじゃないのにな~」ってみんな言ってました。
懐かしいけれど、恐怖です!!!
男の人ってこんな人しかいないのかって思ってしまいました。
優しい男性もいますが、私はあまり好かれませんでした。
違う男性にも1年くらいずっと「付き合ってほしい!」と告白され続けていました。同じクラスの4歳上の方でした。プラダのバッグを持っていて、羽振りがいい人だなと敬遠しているところもありました。
結局、私とはお付き合いせずに、私のお友達とお付き合いしていました。
それで、よかったのかもしれません。
祖父が車と着物を買ってくれたこと
今思えば、祖父は自分の死期が近いのが分かっていたかのように、「早く着物(成人式)を見てこい!」「うちは、マニュアル車しかないから、尚子だけ乗れない(AT限定)のはかわいそうだから車見に行くぞ!」とせかされるように言われ続けていました。車はどうしても自分で管理できる自信がなくて、「働き始めてからでいい」と断りました。
車は、日産の営業の方が良く来ていて、祖父に私は強引に連れていかれて「どの色がいいんだ?何色が好きなんだ?」「軽だと小さすぎかもな?」と選んだのは、日産のマーチでした。あれよあれよという間にどんどん話が進んでいってしまって、翌月に納車になってしまいました。嬉しかったのですが、私には重荷のように感じていたのもあります。
着物は祖母と母と私と叔母と日本橋の問屋まで見に行ってきて購入。
着物を購入してきた2か月後に祖父は急死しました。
【20歳】成人式!祖父の急死
4月の私の誕生日に成人式の前撮りをしました。
ちょうど、祖父が稲の籾ふりをしていて、親戚もいとこも来ていたのでみんなで写真を撮ろうとなりました。
祖父は、泥仕事をしてきたないと一緒に撮る気はなかったのですが、集合写真を撮りました。翌月に急死してしまうなんて誰も思っていませんでした。
祖父急死
夜中におなかが痛いといい、我慢強い祖父だったのですが、これは危ないと感じて母が救急車を呼んで病院に行きました。胃潰瘍でした。
入院していてお見舞いにも行き、あと3日で退院できると話していたのですが、容体が急変して、心筋梗塞となり心肺蘇生もしたのですが、延命処置をしないと決め、永眠しました。
数日前まで、話していたのに、あと3日で退院するって言っていたのにって、ショックが大きすぎて、1ヶ月位は心に穴が開いていました。
壮大な葬式にすると父は言っていたので、金の霊柩車を頼んで、町内やたくさんの方が花輪や参列してくださってにぎやかな葬式になりました。
遺影は金婚式の時に撮った写真なので、ほとんど変わらない姿でした。
公務員試験に向けてのテスト期間
2年間は、毎日テストがあり、成績の順位が貼り出され競い合う環境でした。公務員試験の内容ってどくどくな問題も出るんです。暗号問題とか数的とか義務教育では習ってこないような変な問題が多く出題されていました。
基礎問題は国語や社会等もありました。
公務員試験が終わり、オーストラリアへ
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父が旅行代を出してくれ、1週間、オーストラリアに母と旅行に行きました。小学校の卒業文集で書いていた「行ってみたい国:オーストラリア」は叶いました。
初めての海外だったので、自分の視野が広がっていきました。
現地のコーディネーターの方が日本人だったので、いろいろ説明してもらえて勉強になりました。
グレートバリアリーフも壮大な海で、サンゴ礁もきれいでした。
40度以上あったので、皮膚もやけどのようになってしまって、皮も向けてしまって痛かったです。
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食べ物は、味が濃く、カンガルー肉が夕食にでてきたり、おいしいものも合わないものもあり、日本食の質の高さを感じました。
卒業旅行で九州へ
9人で、九州は博多に行きました。
太宰府天満宮とかもつ煮を食べたりして博多を満喫していました。
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たまたま、みんなでホテルにいるときにラジオから「めっちゃいい曲だね。歌手はだれか知ってる?」と私が聞きましたが、誰も知りませんでした。
でも気になるなーと思って、当時はスマホもパソコンもなくて、ガラケーだったので、すぐには調べられず、結局判明するまで1ヶ月掛かりました。
それが、スキマスイッチの奏という曲でした。
私が、ラジオから聞いた個所はCメロの部分でした。
突然ふいに鳴り響くベルの音
焦る僕 解ける手 離れてく君
夢中で呼び止めて 抱き締めたんだ
君がどこに行ったって 僕の声で守るよ
夢を追って旅立つ女性を見送る男性をテーマに、離れ離れになる男女の別れと旅立ちからこれからの成長を人間の複雑な感情で表現している大好きな楽曲です。
私は、気分帰宅したのですが、最終日の夜に博多の屋台で、貝を生で食べてしまったせいで、私以外全員、食中毒になってしまって、自宅に戻ってから病院送りになっていました。
◆【新入社員】両親の期待に応えたいと思って受けた警察と農協
【警察】第一志望に合格できず。警察の道へ
就職志望先の事務職は受からず、埼玉県警察に合格しました。すごく悩みましたが、「やってみてダメなら辞めればいい」と入職を決めました。
今、思い出しても恐怖しかありません。
寮生活だったので、男女別々なのはもちろん、男性が欲情する可能性があるからと【色物の着用が禁止】でした。カラフル(赤・黄・ピンクなど)の洋服は一切着れずに、モノトーンの洋服ばかり着ていて、だんだん気持ちも滅入っていました。
警察学校に10か月入学するのですが、訓練は激務です。
私が、本当に嫌だったのは、校庭で訓練中に毎日の激務と睡眠不足が祟って脱水症状か疲労で人が倒れていく姿を見ていたことです。
(闇を感じます。)人って頭が重いから、前方向に倒れていきます。何人も見てきました。仲間を救えない私たちが市民を救えるのか本当に疑問でした。
授業の中で、教卓を教官が蹴って吹っ飛ばすのですが、「絶対に身体を動かさず、ぴくっりとも動くな!」という訓練があって、感情を押し殺すから、何をしているのかもう何も感じなくなっていました。
その後も警察訓練が厳しくて、左膝の半月板の靭帯損傷手前までのケガを……。ドクターストップがかかり、教官に相談して入職後2ヵ月程で退職しました。
めちゃくちゃホッとしたのを覚えています。
同期も内臓(大腸や胃やメンタル)を壊してしまって退職して、入院する子も多かったです。地方から出てきていた子も多かったので、ふるいにかけられるってこういうことだと思いました。社会の厳しさを痛感しました。
ケガをしていたので、両親が迎えに来ていたのですが、半径3mくらいにならないと私だって気づかないくらい、洗脳と人相が変わってしまってたそうです。両親はがっかりしたそうです。未だに辞めてよかったと言われるくらい自分の子どもの顔がわからないくらいになったことがショックだったようです。
◆充実感のなか農協で働いた11年半!
たくさんの方に支えて貰って成長できたこと
それから数ヵ月のリハビリ後、アルバイトをしながら社会復帰の準備をしました。両親が「農協で募集をしているから受けてみないか?」と、チラシを持ってきてくれたことがきっかけで、入社しました。
働き始めは、「こんな楽な仕事でいいんだ!」って、警察のしんどさに比べたら大したことない。そう思っていました。
最初の業務は実家が農業だったこともあり、農薬や肥料の購買を担当しました。職場の比企郡吉見町(きぐんよしみまち)はイチゴの栽培が盛んな地域でしたので、イチゴ農家さんの出荷の管理や、市場に出すためのトレーや箱などの販売といったイチゴに関することを中心に、お米にも関わっていました。生産者の方々に可愛がっていただいたので、直接、名指しで私に電話が来ることも増えていきました。入社してすぐお客さんから信頼してもらえていたことに、誇らしさや嬉しさも感じていました。
農協ということもあって、直売所のお手伝いで、休日出勤して野菜詰めのお手伝いやイベントの呼び込みや試食のお手伝いなどもしていました。
秋になると、農業祭もあり、各担当の出し物があって、私はよくポン菓子ややきそばとかの担当が多かったです。
ポン菓子は機械があって「ボンっ!!」って米を入れて圧をかけてその場で焼き上げます。ポン菓子を袋に詰めて無料配布していたので、大行列がいつもできていました。
次は、窓口業務で貯金を担当し、その後は、事業者共済や建物共済、生命共済など保険の販売に携わり、全ての業務を経験できました。
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中堅になると【お世話係】と言って、新入社員の教育がありました。1年くらいは一緒に教えながら窓口業務や推進業務に慣れるということです。
ゆとり教育の女子(高卒なので19歳の年)が入社してくるときで、心配はありましたが、渉外の男性も手伝ってくれていたので、基本挨拶と基本操作をすぐに教えて、窓口に立たせました。間違ったら謝る、間違えたら次ミスしないようにどう改善したらいいか方法を考える、何度も同じ間違えはしない、自分で考えて工夫するなど、できることや得意なことは自分で考えられると思ったので、できないことや間違えたときに彼女の中で考えさせられるように都度会話しながら落とし込んでいった記憶はあります。
渉外の男性は、仕事のできる方だから、むちゃくちゃ厳しい。たくさん窓口の新入社員を泣かせてきたのを知っていたので、彼ともよく話て適切に対処できるようにしていました。私も幼少期そうでしたけれど、仕事ができる人ってできない人の気持ちがわからなかったりするので、悪気はないんだけど、伝え方や言い方なんですよね。でも、私の言うことはよく聞いてくれていたんですよね(笑)
私もそうだったのですが、支店を3年くらいで異動する(金融機関なので金融庁から長期間同じ支店に置けない)ので、どこの支店に行っても通用できるように教育はしておきたいのはありました。
「前の支店で何を教わってきたんだ!!」と移動先の支店長とかにその子が詰められるようなこともあったので、気を付けていました。やっぱり、幼少期に弟と喧嘩しながらも成長してきたのは無駄ではなかったと思います。
お客様に恵まれて、人の力を借りてきた
農協での11年半を振り返ると、感謝しかありません。私は、窓口業務をしていた他にお客様回りを40〜50軒担当していました。お客様への販売、保険、貯金など、それぞれノルマがありました。私が農協を続けられたのは、お客様のおかげでしかありません。私の実力は1ミリもないなと思っているくらいです。本当に助けていただいてばかりで、自分の力だけでは到底達成できませんでした。
ある程度の数字までは自分で何とかなりますが、どうしても目標達成まで届かないようなこともありました。そんな時に、「できるからがんばれ! 応援してあげるから」「いつもお世話になっているから」と、お客様が足りない分のノルマを助けてくださることもありました。そして、上司や先輩からも足りないノルマの分を助けてくださることも何度もありました。
1人では、もうどうにもこうにもやってこれなかったです。
他にも、これは私が21歳で入社した時のエピソードです。通常は、お客様から現金をお預かりする際に、引き換えに預かり証をお渡しします。ある時、お客様から「応援してるから、がんばってね」と言われて、預かり証を渡さずにお金(しかも、100万円!現金!諭吉!)をそのまま支店に持って帰ってきてしまったのです。上司や先輩たちからは「おまえは信頼だけで預かってきたな!」と驚かれました。
そんな温かさやご縁があったからこそ、11年半、続けることができたと思います。
感謝の集いでの歌手への花束贈呈
【感謝の集い】というのは農協の毎月の購買販売において缶飲料の購入者を対象にチケットを配布して、歌手の方を招いて歌謡ショーを行います。歌手の方が歌い終わった後に、感謝の気持ちを込めて、毎年担当地区が順番に回るように決められていて、私が支店にいたときに2回も抜擢されたことがありました。
1回目は、神野美伽さん
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2回目は、小金沢昇司さんと女性演歌歌手(忘れました<m(_ _)m>)
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隣は、組合長や副組合長と常務です。
2回目の時は良く覚えているのですが、当時の支店長にお断りをしたことがありました。
理由は、「1回経験しているし、私ももう30歳近くて後輩もたくさん入ってきたから、これからの後輩たちに譲りたい。」と申し出ました。
しかし、支店長は「若いとかは関係なく、何回もやっていいことだ。上野さんにやってほしいからお願いしてるんだ!」と後押しされ承諾することにしました。とても、嬉しかったです。
本当に私でいいのか、結構悩んでいましたが、他の支店の支店長とかにも当日の花束贈呈は「よかったよ!」と言ってもらえたので一安心でした。
結婚も視野に入れた人に振られ、路頭に迷う
私は仕事はそこそこ順調でしたが、恋愛はうまくいかないことが本当に多かったです。学生の時も付きまとわれることが多かったので、男性への不信感は募るばかりでした。
その時に、他支店に向井理似のかっこいい先輩がいたんです。モテる人ではありましたが、ブス線だともっぱら男性職員にからかわれていました。
一度、私もデートをしたことがあり、お台場の観覧車に乗ったこともあったのですが、結局お付き合いには至りませんでした。
そこで、同じ支店に伊藤英明激似の先輩がいて、その人に紹介してもらったのが、先輩の同級生でした。
優しくて、いつも何かあると迎えに来てくれたりして順調だったのですが、私が彼のやさしさに甘えたばかりに、感謝ができなくなっていたんです。
やってもらって当たり前みたいになってしまって、彼の方から別れを告げられてしまいました。
その後、彼は1年後に結婚していて、私はショックを受けていました。
婚活パーティーや街コンに参加していました。カップルになるのですが、なかなか次に繋がるようないい人はいませんでした。
20代で結婚したかった私は、その夢もかなわず、30代に入り恋愛をパンドラの箱にしまい込んで見ないふり、無かったふりをし始めました。
スキューバダイビングにはまる
他支店にいる女性の先輩がスキューバダイビングのライセンスを持っていたので、「私も一緒に行きたいです。だから、ライセンス取ります!」と言って、同じ支店の伊藤英明似の先輩を誘って、スキューバダイビングのライセンスの取得へ伊豆まで行ってきました。
学科やプール講習も事前にあり、最初から海に出るわけではなく、プールで練習してから本番に望みました。
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最後は、海洋研修で海に出て潜ってきました。
初めて潜る海は、緊張したけれど、下から上の海面を見たときに自分の吐く泡がきれいできらきら光っていました。
海の神秘的な世界に魅了されてしまいました。
それからは、定期的にスキューバダイビングをしに、グアムやハワイなど旅行にもいくようになりました。
旅行に行きまくる
農協では、職場離脱という職員が1週間継続して職場を離れる制度がありました。その1週間で連絡が取れえる場所にいればよいということなので、この期間に旅行をしていました。
特に、海外旅行に行っていました。
台湾やグアムやハワイやタイにも行きました。
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タイで日本人学校の先生をしていた友達が3人いたので、通訳してもらいました。
私にとって海は欠かせないようです。
海なし県生まれの人は海を求めるようです(笑)
行く目的は、買い物をしたいとか観光したいもあるのですが、日本だけに留まらずに、海外の文化を知って日本との違い、特に教育や経済状況において何か自分の観念に取り入れるところはあるのか、日本のどこが良くて改善の余地があるのか友達ともよく話をしていました。
日本の教育に関しては、保守的なところもあるので、違和感を感じていた部分もありました。友達が小学校の先生が多くて、タイで日本人学校の先生をしていたと多彩な方が多かったので、文化の違いをよく話ていました。
国内旅行もしていました。
沖縄の石垣島や三重の伊勢神宮や京都など西日本に行くことが多かったです。
ライブに行きまくる
本当にたくさんのライブに参戦してきました。
Kinki kidsやDA PUMPやEXILEや倖田來未やBoAやMr childrenなどコンサートがあると参戦していました。
EXILEなんて、第一希望の東京ドーム公演が落選して、バンテリンドーム ナゴヤ(旧:ナゴヤドーム)まで、友達と遠征しました。
EXILEは当時大人気で、グループが増員したばかり(14人?)でした。
ライブの楽しみは、あの爆音と生で推しに会えることとファンと一緒に盛り上がれることが好きです。
◆好奇心から東京へ
一人暮らしを始める
東京に出る前に一人暮らしを埼玉県の川越で2年していました。
両親は「結婚するまで家にいたらいい」と言っていましたが、祖母の認知症が悪化していたので、家族間のけんかが増えていったので、家を出ることにしたんです。そもそも結婚できる気がしなかったのが事実です。
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テニス帰りに駆けつけてくれました。
引っ越しの最中に、連絡したら、ちらほら集まってくれて人が増えました。
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沖縄に通うようになる
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友達にも「やさぐれコアラ🐨」と言われるようになるくらい、世の中や社会に対して、他人も社会も家族もみんな敵だと思って反発していた時期です。
遅めの反抗期だったと当時を知る友達にはよく言われます。30歳くらいの年です。
友達に奥さんの実家が沖縄の人がいて定期的に通っていた縁もあって私もよく連れて行ってもらっていました。「沖縄の人に触れて考えを改め言った方がいい。思い込みも激しいから、いろんな人と触れて出逢った方がいい!」と言われたのがきっかけでした。
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大分、満喫しすぎて、私はサングラスをかけています(笑)
思い込みが激しくて、偉そうな発言をしたり、人のアドバイスは攻撃だと勘違いして跳ねのけて、全く人の言うことは聞かないから、人と会話にならない。それでいて依存的だから、察してもらおうとすることが多く、人に丸投げにして自分では何もしない。
だいぶ、情緒不安定になっていました。
そして、沖縄には、ユタが有名なくらい霊的な能力を持っている人も多いです。友達が紹介してくれた私と同じ年代の女性は家族で守護霊が見れる方でした。
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その子によく言われていたのは、「尚ちゃん、私と同じ能力持っているよね。」と初対面の時に言われたことです。私は霊なんて見たことないし、何言ってんだろうって思っていました。
しかし、「人の気持ちが分かったりするでしょ?」と言われてハッとしました。20歳くらいから人の気配や雰囲気(オーラ)で「この人いいことあったなー、悪いこと続いてんなー」とかは薄っすら気持ちが分かるようになっていました。私が調子悪いとわからないのですが。
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何年も沖縄に行くようになってから、自分の気持ちが落ち着くようになっていきました。人との出逢いやきっかけは偶然であり必然だと思っています。
本とCDを処方する診療所
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先生は5、6年前に50代でもうお亡くなりになられています。
診療所は本来は病気になる方が来訪するのですが、患者は健康な人かつ仕事の売り上げを伸ばしていきたい人など、働き盛りの人が全国各地から来ていました。
診察はオーリングテストで、指で作った輪が開きやすいかどうかを調べる検査法。ここの診察は変わっていて、指で作った輪が空いたり開いたりする結果を本やCDの回数として判断していました。
診察しながら、どの本を読んだらいいのか、どのCDを聞いたらいいのか、何回ずつ読んだり聞いたりしたらいいのか、オーリングテストにて聞いていきます。
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結局治らない人が多く、思考から体を悪くしていることが分かり、
本とCDの治療方法に変えたそうです。
先生にもよく言われてきたのが、親子関係でした。
被害者意識(~された)が強く、人のせい、親のせい、環境のせい、本当は自分が悪いのに、他人を加害者扱いしているとよく言われていました。
隠れた離島に存在する姓名判断
沖縄の伊計島にいる改名せずとも悪い画数を良い画数に変えてくれる姓名判断で超有名な上原先生です。
それは、名前の隣に点々を付け足すのです。
先生もこの頃は80歳くらいだったけど、今は、90歳くらいになっていてもご健在です。お元気にされています。
私は「上野::尚:子」と改名していただいています。
名だたる有名人の方がお忍びで来ているとおっしゃっていましたが、小児がんの子が回復したり、難関校を突破したり、壁に貼られている手紙や色紙がお礼の証だそうです。
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この時期は、神にもすがる思いで、どうにか現状を変えたい一心だったと思います。
沖縄の人って、1回会えばもう友達!みたいにすぐに輪に入れてもらえたりします。友達の紹介なら尚更ウェルカムで迎えてくれます。
沖縄タイムというように、プライベートは時間通りには来ないことがほとんどで、30分くらいは遅れて来ます。遅れるのは前提で、早い時間を伝えておくというのを初めてみました。
私は、長年、仕事でも時間厳守が多い仕事だったので、ゆったりのんびり心が温まる環境に身を置けて、だいぶ性格も穏やかになったと思います。
こんな私が結婚なんて、できなくて当たり前っだたとつくずく思います。
距離が近くなり、本当の自分を見せることで、絶対に嫌われると確信していました。
本業と副業のダブルワークを始める
自分の力を試してみたい!と思うようになり、農協を辞めて東京に出ることを決意。幼い頃のように「やってみたい!」好奇心が復活したのです。
東京杉並区浜田山に移り、昼間は派遣社員として働きました。副業として、骨格診断やパーソナルカラー診断を提供しようと考えました。まずは、集客の準備として、文章を作るところからスタート。初めは相手に響く言葉選びが難しく、すごく時間をかけていました。そして、集客もどの層に声をかけるのか? これが分からず迷子になったこともありました。
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昼間は営業事務の仕事をしていたのですが、これがとても勉強になりました。営業事務の仕事で学んだり教わったことを副業に活かしました。例えば、営業さんから教わったお客様(ターゲット)の絞り方や、日常で何気なく営業さんがしていることを真似して、ブログやインスタグラムの投稿を変えていきました。
営業事務の更新解除の時の送別会です。
本当は、私を契約社員として迎えたかったと派遣先の担当者の方に言われました。
おじさんばかりで癖強の方もいましたが、楽しくやらせていただきました。
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結果的に、骨格診断関連の副業は3年程しましたが、コロナ禍だったり、体調を崩したり……。様々な面で限界だったので、両親とも話し合って2020年11月に実家に戻りました。
フットサルの定期開催
私のやりたいの一言ではじまったフットサル。
主催をするにあたって、私の中で決めたことがありました。
1人では絶対にできないから、2人、助っ人を頼もうと思いました。
それは、ある社長が「トライアングル、例えば、自分が社長で女性ならば、サポートは異性の男性2人がいい!」とアドバイスをもらったんです。
仕事していても、自分に対してサポートを2人置くと崩れにくいそうです。
アドバイスを参考に、サポートの2人は私のタイプとは真逆で、しかも、友人や知人が多い人、営業力や集客力がある人、世話好きで面倒見がいい人が尚よしと思って探しました。
そして、適任2人見つけました。2人ともフットサルやりたいと前向きで、たくさんの人を集めてくれて盛り上がりました。
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私は、フットサル場の選定と予約と管理をしていました。
気を付けていたのは「私が偉そうにしないこと。仕切らないこと。むしろ、みんなに任せる方がいいな~、実力もないのに見栄を張らないこと。みんなの前で良い格好したくて、できないこともできるふりして大きく見せちゃうんですよ。(笑)」
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自分がやってやったと上から目線や手柄を独り占めしないように、みんなで分け与えるような感じで開催していました。みんなで一つのものを作り上げている感じです。
そうしたら、あれよあれよと、最後は50人ほど集まっていました。
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私だけの力では、到底ここまでできなかったです!感謝しかないです!
つくづく思うのが、やり方【2割】ではなく在り方【8割】(自分がどうあるか?)だと思います。私は、説明するというよりおしゃべりの方が好きだし、理論的な説明よりも空気感で伝える方が得意だったりします。
(ウェルスダイナミクスのスターっぽい)
意識していたのは「誰よりも自分が一番楽しむこと!!」
楽しい空気感って人が集まりやすいんですよね。
だから、人を集めるというよりは集まるとか集まっちゃっただし、人に伝えるより伝わるとか伝わっちゃったの方が得意なのかもしれません。
ずっと、話し方(理論的な説明とか)を強化しようとテレアポやコールセンターや営業職に就いたのですが、やはり目的がズレていました。自分の強みを使えていなかったと改めて思います。
◆両親の厳しさも愛、目に見えない信頼も愛
東京に住んでいた時に、心理学や自己啓発を学んでいましたが、感情のコントロールができず、その度に友達に紹介された講座に参加するのですが、受講したときは好調でしたが、その後、なかなか改善せず、上手くいかない。「こんなに心理学を勉強し、自己啓発に参加してワークを体験しているのであれば、もっとよくなってもいいはずなのに!」と思っていました。
フラクタル心理学®との出逢い
その後、実家に帰りました。半年間働かずに実家にいた後、日給制の派遣社員として働き始めました。次に、持続化給付金の手続き業務として書類審査のチェックをしていました。
実は、働きながらずっとフラクタル心理学®(思考のクセを分析し、無意識のパターンを修正して現実を変える心理学)のブログを読んでいました。そのブログに登場する諏訪智(ちえ)のカウンセリングを受けてみたのです。
ものすごく緊張しました。2時間で4万円弱を支払う勇気はありました。
本当に、変われるのかな?と疑心暗鬼でした。
そこで出会ったのが、インナーチャイルド療法でした。「自己価値を正常に戻す。安心感を増やす」を目的に誘導瞑想(講師や瞑想の経験が長い人の指導の下で行う瞑想)をしていただきました。嗚咽級の大号泣でした。
カウンセリングの目的は、自分の中の怒りの感情を出し切ることです。
私は、幼少期の頃から、たくさんの怒りの感情を押し込めてきました。
こんなに涙を流したのは、いつくらいだろうと思いました。
結果、2つの要因が関係していることが判明しました。
1つ目は、親子関係。
2つ目は、身体が大人になっても、私の思考=心が未熟で、子ども脳(大脳辺縁系)が発達しきれていない。
この2つの要因が分かりました。
沖縄に通っていたころから、【親子関係】を見直すことは言われていました。
母は弟のほう(愛情が70%)に注目している。 自分には愛情が30%しか注がれていない と感じる。
信じ込みは「私は存在価値がないんだ」と 思ったようです。
大人になった現在、行動パターンとして残っていることは、
「弟よりもデキる人になる!」と今までよく頑張ってきたこと。
そうすれば、両親に「見てもらえる」と思ったから。しかし、頑張っても大事にされた感覚は得られないという状況がありました。だから、いつも苦しくなってしまう。
一方、成人した後くらいから、「大事にしてもらえると思って頑張ってきたのに、誰も私を大事にし てくれないじゃない!もうそんなの嫌だ!動きたくない!」と深層意識で怒りが増えてきたのだと 考えられます。
そして「頑張ることで見てもらう」をやめ、とにかく「親のそばにいる」という思いの方が増えていった。前述したように思考が多い方が現実になりますので、それが「親のそばにいる」という今の状態になっていると思われます。
時系列で見てみると
・虚しさや寂しさをチョコや炭水化物で満たす (LDLコレステロール値が高い、平均値よりも体重増)
・仕事が続かない(表面上の理由は様々)
・苦しくて働けない
・婚活も動けない
私の心の中は、これで小学校の卒業文集にも書いてあった【少し暴力的かも?】が解決すると思いました。25年の歳月が経ち、解決手段が現実化したようです。
そこでまず、親との関係性を見直すことに決めて、カウンセリングを受けてすぐにフラクタル心理学®講座を受講して、思考の修正をしながら、少しずつ感情を調整するようにしていきました。本当の自分を知ることで、見たくない自分の思考の欠点や勘違いを見直し、働く意味を考えるようになりました。
以前に半年間、働かずにいた期間を思い起こすと、その時の父の姿を見て、私が子供の頃、父は忙しくしていたので、「父から見放されている。愛されていない。」と思い込んでいたようです。言葉では表せない信頼という愛情を感じられ、両親に愛されている!と気づきました。この気づきは、私の人生のターニングポイントとなる気づきと言っても過言ではありません。数日後に、階段に私の生後数か月の写真が大事そうに飾ってあるのを見つけて、愛されていたという自分の思考の変化を感じました。
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その後も同じ審査業務で働き続けて、連続講座を最後(上級講座)まで受けて、グループワークの参加やカウンセリングを受け続けていく中で、持続化給付金の手続き業務の書類審査をする派遣社員で手上げ担当者(SV)として管理・指導する側になり時給も東京にいた時よりはるかに上がっていきました。
手上げ担当者(SV)になる時も、統括長にとんとんと肩を叩かれて「手上げ担当者やらないか?」と声をかけられたんです。
手上げ担当者の中で話し合い、誰がいいのかを考慮したときに、審査業務をしている200人以上の中で、私に白羽の矢が立ったのです。
大人数の中から、抜擢されたのは、私の中でも自信になりました。
ある時、コロナが2類から5類に移行になり給付金業務の終了となり転職をよぎなくされました。転職エージェントのキャリアアドバイザーから「保険会社で募集があるから受けてみないか」と紹介されて、保険会社に入社しました。
保険会社に入社してからの苦悩
入社して1年間は、トレーニングセンターという保険会社が新入社員を対象に研修を行う施設がありました。ここで、営業の基礎を習うのですが、私自身「考える前に行動」より「考えてから行動」の方が合っていました。しかし、飛び込み営業での1日の訪問件数、1ヶ月の訪問件数、質より数がどうしても自分の特性に合わなかったのです。社長や受付の方との関係つくりにおいても、ほんの数分しか話せず、相手のことをほとんど知れない、数を打ってタイミングを合わせる確率論【大数の法則】を使っての営業だったからです。
毎日、疲弊してしまって、思考が停止してしまうくらい、当日の業務内容の入力ができないことがしばしば。営業から事務作業まで、すべて自己管理だったので、入力作業も膨大にありました。
そして、ロープレの検定もありました。
本当に、地獄でした。45分18ページを丸暗記することが前期と後期で1ずつありました。
雰囲気で伝えてきた人が、論理的な話し方を要求されることに四苦八苦した結果、最低の合格点で通過したのです。
この時点で、飛び込み営業での新規開拓プロセスが本当にしんどくて、まったく先が見えず、既契約先でいつも優しく出迎えてもらいました。
会社は新規開拓ができることの方が評価されやすかったので、私はいつも定期さての評価がぎりぎりで通過していました。
何のためにこの会社に入社したのかも分からなくなっていました。
コミュニケーション能力を上げるためだったけれども、日々の業務がしんどすぎて体調を崩してしまい、1ヶ月間有休を使って退職しました。
会社の方針やマニュアルと自分の特性が合っていないとこんなにも結果に結びつかないんだと改めて思いました。
3回も結婚相談所に登録して活動しても結婚できなかった要因
婚活に向けて行動できない。そんな思いを2回目の結婚相談所まではありました。必要な情報も入力できず、行動できない自分がいる。3回目の結婚相談所はありがたいことに多くの申し込みを頂きお見合いもたくさんしていましたが、仮交際もすぐ終わってしまいました。
今までの恋愛でもあまり長続きせず、相手が去ってしまう、結婚という話にまではならないということでした。
結婚したいという望みは実は、表層意識で思っているものなのですが、現実は深層意識がつくっています。つまり、結婚したいと思いながらも現実は親元にいるという状態なのであれば、結婚よりも親のそばにいたいらしいということです。カウンセリングの分析からも考えられます。
この事実が分かってからも、無意識の私は、まだまだ母を手放すことができない。母を召使にして離さない、女王様の私が存在しています。
苦しさと情けなさといつも両輪で回っていました。
ここは、見て見ぬふりをしやすい私の課題ポイントです。
パートナーシップについては避けてきたことがまだまだ多いです。
まだまだ子供の頃の依存心が残っている
幸せとは「人に幸せにしてもらえるもの」と他力本願
今年こそ結婚すると思いつつ叶わないことに慣れている
結婚までの道のり(プロセス)を楽しめていない←私はこれがある
パートナーといることに良いイメージがない
うまくいかない、失敗ばかりでそもそも幸せになる覚悟がない
自分自身と不仲で、自分の気持ちを分かろうとしない、無視する
これからも修正と行動で両方改善していきます。
定期的に行われる「尚子を囲む会」が開催される
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10年来の友達によく言われることがあります。
「本当に穏やかになったよ。以前は、喧嘩のように言い合えたことも自分を信じて言ってくれていたことだと思っていたから気にしていない!」と言われました。
たくさんの方がいなくなったけれど、長年、どんな私でも友人としていてくれていることに感謝しています。
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私を出汁?にして集まる口実を作っております。
目的は「大人の遊びを満喫する」です。
本物を見にいくのが狙いです。
ただ、ご飯を食べに行くだけではもったいない。
今までは、船に乗ったり、ホテルニューオータニのビュッフェ、和菓子体験、都心でリゾート風のプール脇でBBQなど楽しくそして大人のたしなみとして遊んでいきます。
みんな個性があって、頭がぶっ飛んでいるため、いつもうるさい(笑)
自然体がいいよね!!
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自費出版ではあるがチャンスを頂く
自費出版ではありますが、本を出す機会を頂きました。
各地域や各分野で活躍している人物を編集部で厳選し、本音を包み隠さず語り、 編集部が厳選した15人と一体となって作り上げた1冊です。
編集部が選ぶ「ベスト・オブCEOシリーズ」に登場する方々から、仕事・経営・働き方・新規事業や副業(複業)の立ち上げ方・逆境やピンチに対する向き合い方や乗り越え方などをぜひ学び取れる仕上がりになっています。
上記が去年発売された1冊目の本です。私は、この2冊目に出ます。
発売日は2025年5月か6月の予定です。
今まで書いてきた自分史の縮小版が掲載されます。
20年後、スキマスイッチにはまる
19歳の時に、九州のホテルのラジオで聞いたスキマスイッチの奏。
20周年ということで、TBSのモニタリングで奏を歌っている姿を観ました。すぐ、ライブに行こうと決め、ファンクラブに入りました。
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日本武道館の年末ライブに機材解放席でしたが、あの頃の別れと旅立ちを思い出して、感動しました。
スキマスイッチの「このへんまでやってみよう」という動画があります。
私が、大橋さんのイメージを覆した動画です。
ボーカリストって格好つけている感じがするけど、素朴で謙虚なところもある一方、遅刻癖があって「大橋CASINO」という企画にされていました。
企業にいたら、すぐにクビになっている可能性があるので、やはり大物です。
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ホスピタリティが細部まで行き渡っていて野外なのに快適でした。
スキマスイッチを好きな理由は、お二人の人柄、謙虚なところや「チームスキマを家族のように大切にしていたこと」です。バンドメンバーは、ほとんど10年以上同じ人でライブを行っているとのこと。お二人が、かっこいいと思って憧れていたドラムやギターやサックスの方々にダメもとで、分からないふりしてお願いしたとのこと。「ファンのみんなも家族!」とMCでもおっしゃっていたことが、私は嬉しかったと思います。
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今年は忘年会!「カンパーイ」の一声で、観客みんなで飲み物を飲む!斬新!
今年は友達を連れて参戦しました。
事務所の方々も素晴らしいのは、ライブの後にアンケートを下さることです。なかなか、ファンの意見を吸い上げてくれる事務所ってあまりないので、ここぞとばかりにやってほしいことや作ってほしいグッズなどを書き込みます。
みんなで作り上げているところが、やっぱりいいし、私もチームで作り上げることをやっていきたいんだと思いました。
先日は、新しいアルバムを引っ提げてのツアーで、新百合ヶ丘にある昭和音楽大学にあるホールに参戦しました。
フラクタル心理カウンセラーの資格取得目指す!
ずっと避けてきたこと。それは、カウンセラーの活動を始めようかどうか悩んで、資格を取らずにいました。もう、2年前から取得しようと思っていても動けずに、お金がないと言い訳してきました。
本の出版をきっかけに、取得しようと決意できました。
なので、出版記念の読者特典を付ける予定です。
決めないと始まらないんですよね。
特に、見えないものを見る力が必要になってきます。
それは、私の得意分野だったりもするので、活用していきます。
◆すべてを辞めて、更地にして思うこと
2025年1月無職になりました。外側の肩書を一旦なくしました。
昔からなんですが、周囲のことは分かるんだけれど、自分のこととなると本当に分からなくなるし、自分のことを大切にできないことが本当に多いんです。自分がどうしたいかという考え方を取りい入れるまで時間がかかりました。
両親の子どもに対しての見解やアドバイスは的確なのに、どうしても自分のやり方や両親のレールに敷かれることに反抗するので、人の言うことが聞けなくなってしまうので、たくさんのチャンスを逃してきました。
例えば、結婚ですが、「学生のうちに相手を見つけておきなさい」と言われていましたが、私が未熟だったり、言われたことの逆をやりたかったり、反抗したかったので、結局今も結婚できずにいます。
農協の時も親にレールに敷かれるなんてうんざりと思って退職してした思いがあったんですが、自分史を書いてみたところ、父は私の特性を見抜き適職を勧めてめてくれていたんだと感じました。親の見方やアドバイスは正しかったんだ、私の判断は間違っていたんだとようやく受け入れることができました。親ってやっぱり偉大だなと感じます。
親の言うことを子どもの頃から、ちゃんと聞いていたら、私はこんなに山あり谷ありの苦しむような人生を送らなくてもよかったのかと思います。
保険の営業を始めたのも、営業力を上げるために個の力を伸ばそうと思って始めましたが、結局は、私はおしゃべりは好きだけど、理論的な話し方は苦手なのに、あの人のようにならないといけない、何者かになろうとしていたことで、短所を克服するような選択をしていたから苦しくなっていたと思います。自分の得意なことや強みからは真逆な路線にいたから、幾度となく体調を崩したと感じました。
そして、営業も婚活も手法が私の特性に合っていなかったです。だから、苦しくなっていたことが分かりました。ただ、営業や婚活が向かないとかではなく、細分化してみると、私はただルールやマニュアルに沿って量をこなすやり方が合いませんでした。新しい人にどんどん会うって全然楽しくないし、めちゃくちゃストレスでした。相手のことが分からないまま表面上だけで繋がっていくって怖いなって思います。
これからは、自分の中でフェーズが変わっていく感じもします。
チームで楽しく、ゴ―ルを見据えて取り組んでいけたら結果がついてくるなあと思います。
つくづく思うのは、チャンスやご縁て、人からやってくるんですよね。
どうせ私は1人なんだ、、、どうせ私なんて愛されないんだ!と思っていた。しかし、本当は私の周りにはたくさんの人がいた!しかも、私は愛されて大切にされてきた!いつでもみんな私の味方だった!甘えたい、頼りたいと思っていたけれど、本当は、自分でできるようになりたかった。
そして、私が自立できるように、社会に出て困らないように、両親は厳しく躾をしてくれていた。両親の愛なんてちっとも分かっていなかった。両親や関わって下さった方々に十分にやってもらっていた。甘えられていた。やってもらって当たり前の無能な女王様だった。今度は、私が両親や周りや社会に貢献していく番だ!!本物の女王様になる!!
幼い私の考えは勘違いだらけだった。本当はすぐそこに愛はあった!
◆自分史を書いたことでの気づき
私の軸
・人間関係の調整・サポートが得意!子どもの頃からサッカー部の副キャプテンというサポート気質【2番手】を発揮していたんだと実感。
人と関わる仕事がいいのかも?
・人と関わりながら成長できること。
・決められたルートから、目標に向かって戦略を立てて行動する方が良い。
・一人で完結する仕事よりも、チームで動く方が力を発揮しやすい。
(保険の営業は自己完結の仕事だったから苦しかった。)
・攻めより守り。広く浅くガンガン行動するよりも狭く深く関係構築をして行動していく方が精神的にも安定している。(どおりで新規開拓がしんどくなるわけだ笑、お見合いも苦手だった。)
・経理管理している祖父や父にやりたいことがある度に提案や交渉していた。(家庭内で私が営業をしていた!!驚)
・人に恵まれすぎていて、自分の実力より人の力を借りてどうにか生きてきた。(傷だらけ、うまくいかないことが多かったからこそ、人一倍人の気持ちや雰囲気には敏感に反応します。)
職業機能
営業(人と関わる)
教育(人に教える)
マネジメント(人を管理する)
アイデンティティ
人との関係を築き、支え、成長を促す
状況に応じた最適な行動を選び、成果につなげる力
現状に満足せず、常に成長を目指す
「人との関係を大切にしながら、成長と成果を両立させる柔軟なリーダー」
関係構築力と問題解決力を活かし、 人を支え、育て、組織の成果を高める役割。
今後のキャリアでは、
「人材育成」「業務改善」「チームマネジメント」 を活かせる分野で活躍することで、 あなたの強みが最大限に発揮される。
心スイッチ
自分史を書いてみて、心スイッチはこれかなと考えてみました。
成長したい
上達したい、極めたい
探求したい
感動を分かち合いたい(チーム一丸となって達成したい)
人と関わりたい(つい人にアドバイスしてしまう)
※アドバイスいただけたらありがたいです。
◆仕事を通して誰を守る自分であるのか?
出版の機会を頂いたので、自分の屋号と肩書を考えてみました。
屋号「Re:Bloom」(再び咲く)
肩書「インナーブライトカウンセラー」(インナーブライト:内面の輝き)
誰を守るのか?「本来の自分の輝きを取り戻そうとしている人たち」
私の経験や今後のカウンセリング活動の軸には、「自分らしく輝く人生をサポートする」という想いがあります。それは、常々、私が願い叶えたかったからです。
だからこそ、私が守るべき人は…
職場の人間関係がうまくいかない人
家族関係がうまくいかない人
仕事で壁を突破したい人
婚活でなかなかうまくいかない人
人生に迷いが生じ、変わりたいと願っている人
自分の才能や魅力を開花させ、人生を好転させたい人
私の役割:「人生を再び咲かせるサポーター」
私のこれまでの経験は、 「一度(二度三度それ以上?)は迷いながらも、自分と向き合い、自分を見つけ、本来の輝きを取り戻した」 というものです。
その経験を活かして、私は「インナーブライトカウンセラー」として、 人々の「人生の再生」「本来の輝きの復活」をサポートする役割 を担います。
私の仕事は、 「かつての私と同じように、迷いや不安を抱える人の光となること」 です。
自分の仕事を通して届けるメッセージやミッション
「あなたの中には、すでに素晴らしい光がある。
それを取り戻し、自分らしく輝いて生きるために、私はサポートします。」
「Re:Bloom(再び咲く)」という屋号の通り、私は 「人生に再び花を咲かせたい人を支える」 存在です。
私の仕事を通して、多くの人が 自分の魅力や才能を再発見し、自信を持って前に進めるようにサポートをしていきます。
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