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新しい百人一首の楽しみ方

私は前回、百人一首に選定されている古典和歌「秋の田の」に触れ、
深い感動を覚えたことをブログで書きました。

その予期せぬ感動についてとても興味深かった為、
私の中でどういったメカニズムが働いたのか、
芸術的な感情体験をもとに考察をしてみました。

しかし、そこには百人一首をもっと楽しむ為の、
意外な考え方が隠れていました。

まずはこの体験を考察した内容から読んでいただくと嬉しいです。


1.感動の神経科学

まず感動のメカニズムについて調べた結果、
興味深い記事を見つけました。

Deep Genomic Labさんのnoteによると、
神経科学講演会での報告では、
芸術的体験における感情鑑賞に関する脳科学研究が、
精神的な意味脳科学的解釈の両面から進められているそうです【1】。

その中で、共感には2つの側面があるとされています。

  1. 感情的共感
    他者の感情を「直接感じ取る」仕組み。

  2. 認知的共感
    他者の立場や精神状態を「想像し、理解する」仕組み【2】。


例えば、私が古典和歌を読んで感動した体験を考えてみると、
これら2つの共感が働いていたのかもしれません。

  • 感情的共感:農民たちの「喜びや悲しみ」を直接感じ取ろうとした。

  • 認知的共感:何世紀も前の農民たちの「生活や苦労」を想像し、理解しようとした。


特に、古典作品の中で当時の社会的背景人々の生活を想像する際、脳の中では認知的共感に関わる領域が活性化していた可能性があります【3】。

こうして、感情的な反応と認知的な理解が同時に呼び起こされることで、深い共感や感動が生まれたのかもしれません。

[出典]
[1] Deep Genomic Lab (2022) 「神経科学講演会報告」
[2] Lamm et al. (2011) の研究報告
[3] Michel-Pierre Coll et al. (2017) "The effect of tDCS over the right temporo-parietal junction on pain empathy"

ただし、これはあくまでも私の見解でもあり、
個人の体験における実際の脳内プロセスは、
より複雑なものだと考えられます…

2.批判から生まれた思わぬ発見

「秋の田の」の意味を調べた際、
私は「華やかな文化の陰で苦しむ農民たち」
という批判的な目で見ていました。

これは、おそらくサイバーパンクの反抗的な世界観に影響された見方だったと思います。

高度に発達した社会の裏で苦しむ人々を描いた世界に親しんでいた私には、平安時代の華やかな宮廷文化と農民たちの暮らしが、
どこか重なって見えました。

しかし、その批判的な視点があったからこそ、
思いがけない発見があったと思っています

表面的な風景描写の向こうに、
厳しい現実の中でたくましく生きる人々の姿が見えてきたのです。
批判から始まった見方が、かえって深い共感と理解につながりました。

そこで、この経験は現代アートのような感覚と同じなのでは
という疑問が生まれました。

この経験を通じて、
私は現代アートの持つある側面について考えるようになりました。

例えば、マルセル・デュシャンは既製品の便器を美術館に展示し「泉」と名付けました。

泉 (デュシャン)

当時、デュシャンの『泉』を目にした多くの人は、当然その単純さと挑発的な形態に強い違和感を覚えました。

「こんなものは芸術ではない」と切り捨てる感情の裏側には、既存の価値観が揺さぶられることへの不安や戸惑いが隠されていました。

美術館という「特別な空間」に並べられた便器を見た瞬間、人々の心には困惑、拒絶、怒りといった強烈な感情が湧き上がったのです。

しかし、これらの感情は単なる拒否反応で終わるものではありませんでした。

『泉』という異質な存在に直面し続けるうちに、次第に疑問が頭をもたげてきます。

「なぜこれがここにあるのか?」「本当にこれは芸術ではないのか?」という問いが、怒りや拒絶の感情の奥深くで静かに広がっていきます。

この過程で、人間の心は単なる反発から、内省と探求へと移行していくのです。

ここで特筆すべきは、感情が思考を動かす触媒として働く点です。

最初に感じた不快感や批判的な思いが、ただの拒絶では終わらず、それを超えて自らの価値観を問い直す契機となる。

このプロセスは、まさに人間の感情が持つ不思議な力を示しています。感情は変化を拒むようでいて、実際には変化の原動力ともなるのです。

さらに興味深いのは、こうした感情の変化が新たな発見や共感を生む点です。

最初は「便器を芸術と呼ぶのはおかしい」と感じていた人々の中にも、ある瞬間、「これは単なる物理的な存在ではなく、私たちの認識そのものを問い直すものだ」という気づきを得た者がいました。

この気づきがもたらす感情は驚きや感動、さらには崇敬へと変化していきます。

こうした感情の変化は、個人の内面的な旅でもあります。

『泉』を見た人々の多くは、ただ批判や困惑を覚えただけではなく、「自分の信じてきたものは何だったのか?」「私は何に反発し、何を守ろうとしているのか?」と、自らの価値観や感情の根源に向き合わざるを得なくなったのです。このような内省は、時に痛みを伴いますが、それこそが成長や発展の原動力となります。
(実際、現代アートがわけのわからない値段で売られているように)

最終的に、『泉』を評価する人々が口にするのは、作品そのものへの評価以上に、それを通じて経験した感情の旅についてです。

「最初は許せないと思ったけれど、今では心から感動している」という声は、作品が単なる物理的な存在ではなく、人間の心に働きかける装置として機能していることを物語っています。

このように、『泉』が引き起こした感情の波は、一人ひとりの心の中で批判から感動、さらには新しい価値の創造へと変化していきました。

それは、私たちが自らの感情と価値観を再発見し、新しい自分へと生まれ変わるきっかけを与えてくれるものでした。

私の和歌との出会いは、ある意味でこれに似ているように思えました。
最初は批判的な目線で見ていた和歌が、
その見方を通してかえって新しい価値を見出すきっかけとなった。
芸術作品との出会いは、
時にそんな予想外の展開をもたらすのかもしれません。

3.まとめ

サイバーパンクに描かれる、
技術の進歩の中で置き去りにされる人々の姿と、
和歌に込められた農民たちの姿。
時代は全く違うのに、どこか似ているように感じました。

この感動体験を分析してみると、二つの重要な発見がありました。
一つは、批判的な目線が思いがけず深い共感を生んだこと。

もう一つは、その批判的な視点を通して、
和歌の新しい価値に気づけたことです。
脳科学の研究が示すように、
私たちの「共感」は時代を超えて働くことがある。
そして時には、批判的に見ることで、
かえって作品の本質に近づけることがあるのかもしれません。

4.余談

※ここからはあくまでも妄想です。

もしこの「秋の田の」という和歌を百人一首に選んだ人物が、
表向きは美しい風景を詠んだ歌として選びながら、
その裏に、当時の農民たちの過酷な現実や、
目上の者への批判や皮肉を
密かに伝えようとしていたらどうでしょうか。

もしそうであれば、私が最初に感じた「批判的な視点」は、
選者の隠された意図と偶然重なっていたのかもしれません…

あながち、百人一首の選定者でもある藤原定家という人物の、
性格から考えるとあり得ない話でもないと感じました…

百人一首ってそういう面白さも、
あるのかもしれません…


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