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《新世界通信》6 小山田いじめ問題について(長っげーよ!)⑪

 オリンピック関連では、東京五輪・パラリンピック組織委員会の元会長・森喜朗の場合だ。あの女性蔑視発言だが、森喜朗本人は、自分の言ったことが女性蔑視だとも、オリンピックにふさわしくない問題発言だとも、全く自覚がなかったのだろう。そして、彼を止めることができる人は、組織委員会にいなかった。

 元首相で、組織委員会の長である。その発言はまずいよ、とか、そんな発言をすると会長を辞任しなくてはならないですよ、とか森喜朗をいさめることができる人、彼より上の人がいない状態だった。ガバナンス不在の状態だった。

 こんな裸の王様、権力者を引きずり下ろすには、ネット世論の力しかなかった。だが、それほどの大きな力を一個人に向けるのは、どうなのか?

 小山田圭吾を、オリンピック開会式に起用するのは組織委員会であり、それを決める力は権力である。武藤委員長は、小山田のいじめ問題が明らかになった際も、一旦は続投させようとした。それを一日でひっくり返したのは、ネット世論と、それに乗った国内外のメディアの力だ。

 ネット世論の役割はそこまででよい、と思う。1クリエイターの息の根を止めるところまで、追い詰めなくてはならないのかね。

               ☆

 ここで話を変える。

 小山田問題が問題になったのは、そのいじめの内容だけではない。本人がミュージシャンとして有名になった後、過去のいじめを露悪的に語り、それが雑誌で公表され、今となってもネットで誰でも閲覧できる形で残っていたからでもある。なぜ、こんなひどいいじめを雑誌に公表したのか? 掲載した雑誌の側に疑問を呈する意見も多かった。

 それについては、「大マスコミには載らないけけども、雑誌とかなら、どこかに掲載されてもおかしくない」雰囲気が当時あった。90年代を生きた人なら、そういう感覚の記憶があると思う。

 それを「90年代サブカルの雰囲気」とか、当時は「鬼畜系」と呼ばれるジャンルがあって、と説明しているネット記事が多い。間違いではないが、私は違和感を感じる。

 みんな、もっと広い観点から考えてみようよ。「90年代サブカル」「鬼畜系」とくくってしまえば、このいじめ問題の発言を許容したのが、ごく一部の異常者たちのジャンルだったかのように、今の人たちに認識されてしまう。当時は、現代よりも「いじめに寛容な社会」だったという認識が抜けている。「いじめに寛容な社会」、嫌な言葉だが、事実だ。小山田のいじめを正当化する思想があって、世間一般に広がっていたのだ。

(⑫に続く)

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