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《新世界通信》6 小山田いじめ問題について(長っげーよ!)⑩

 私が元いじめっ子に対して「許す」と一応言うのは、新しいいじめの発生を防ぎたいからだ。

 今起きる、いじめを止める。これから、いじめが発生するのを防ぐ。それしか、今できることはないような気がする。小山田問題のように、過去のいじめに罰を与えることは、普通はできない。

 元いじめられっ子は、元いじめっ子と共存していかなくてはならない。いじめという悪がどこかにある世界で生きていかなくてはならない。いじめはない方がいいが、どうしてもなくならない。それは人と共にある。原罪のようなもの。

 なぜなら、いじめっ子といじめられっ子という区分をしてきたが、そういう二種類の人種がいるわけではない。役割は固定的ではない。子どものいじめでは、いじめる側といじめられる側が入れ替わることは、よくある。

 今まで私は、元いじめられっ子の立場で語ってきたが、いじめる側になったことはないのか? 大人になって、会社で、女子社員を叱責して泣かせたこともあるが、これはパワーハラスメント、つまりいじめではなかっただろうか?

 また、こういうこともある。私の知り合いの話である。

「俺はお前にいじめられた」と彼は言われた。「あんなことがあった。こんなこともあった」と過去十年前からのことを次から次からと並べられ、机の前で1時間近く聞かされる。彼は、その記憶は間違っています。いじめていませんし、そんなつもりではありません、と反論するのだが、「お前は俺の言うことを否定するのか」と更に激高され、「お前はごまかしている。嘘つきだ」となじられる。

 彼は会社では係長で、「いじめられた」と主張しているのは、なんと副社長だ。彼が副社長に仕事の報告に行くたびに、報告そっちのけで、上のように過去の彼の行いを責められ、どうにもならないことを延々と言われる。報告に行くために、副社長に電話をするが電話に出てもらえない。仕方がないので、副社長の部下に電話をして、つないでもらうと、五分後に来い、と言われる。それで五分後に報告に行くと、他の人と長話をしていて終わらない。ずっと終わらないので、忙しいから出直すか、と帰ると、あいつは報告に来ない、俺を無視している、とまた怒られる。

 彼と副社長の間に過去何があったのか、正確にはわからないし、書けないが、この場合、どちらがどちらをいじめていることになるのだろう。

 いじめる側といじめられる側が逆転することがある。本人はただ仕事をしているつもりだったのに、いつの間にかいじめになってしまう可能性。被害者意識の強い、強者にいじめと言われてしまうこともある。

 「いじめ」と「いじめられ」の境界は、こんなにも危うい。誰もが、いじめられる側にも、いじめる側にもなってしまう危険がある。今回、小山田圭吾を糾弾する論者、発言者は、そのことに気づいているのだろうか? 彼らの手は真っ白なのか?

 ネットで一人の人間を糾弾するという行為自体が、いじめになってしまうのではないか、という疑いを、私はどうしても拭い去ることができない。SNSによる誹謗中傷を苦にして自殺した女子プロレスラーがいた。今どきの子どものいじめでは、SNSや裏アカウントを巧妙に使った、悪口や仲間はずれが多い。

 いや、俺たちはネット上で、不快だ、イヤだ、おかしい、と思うことを発言しているだけだ。それがいけないというのか。そう反論があるだろう。

 確かにそうだ。誰もがネットで、自分の思いや意見を発言するのは自由だ。自由であっていい。しかし、ネットやSNSの怖さは、一個人の思いに共感(いいね!)が集まり、それが一定数を超えると、拡散し、急速に大きな固まりになること。固まりの大きさに押しつぶされる人が出る。

 ネット世論とは暴力である。その危険性に、どれだけの人が自覚的だろう。

 個々人の「おかしい」を瞬く間に集めて大きな力にする、ネット世論は正しく使えば、大きな可能性がある。ネット世論が特に有効なのは、権力に抗する時だ。例えば、保育所の不足だとか、東京オリンピックを中止すべきだとか、権力の不備や暴走へのチェック・ストップ役としては、真に有効だ。国民のリアルタイムな意見を政府に直接ぶつけることは、ほんの十年ほど前まではできなかったのだ。

(⑪に続く)


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