【回顧体験記】ボクは障害者21歳。〜ボクが中途障害者になってからの21年を紐解く〜②
(前回①より続く)
さて大晦日のこの日、2000年末であると同時に20世紀の終わりを示し、さらに結婚後初めて新居で迎えるという、いつもとは明らかに違った「特別な」新年を静かにかみしめていた。
2001年(平成12年)
第1章 予期せぬ嵐の気配
そして、後に「運命の年」であることを知ることになる2001年が静かに明けた。
当初、大学卒業後に就職した福祉施設で介護職に携わっていたボクは、年中無休とも言えるこの仕事には珍しく、元旦が公休日になっていた。
というのも、結婚前のこの数年は、自分で希望しているわけではないのに、専ら年末年始の年越し夜勤をするという、妙なジンクスというか、自分の中でルーティン化した流れになっていたからだ。
今思うと、ボクの勝手な憶測だが、勤務シフトを組む立場である所属部署のリーダーにあたる同期のスタッフが、気を回して、ボクの結婚後初めての元旦ということもあり、ゆっくり夫婦水入らずで・・というはからいをしてくれたように思う。
そんな正月休みも、3が日が終わらない1月3日から早くも2001年の仕事初めを迎え、またボクにはいつもどおりの通勤する毎日が戻った。
そのうちに、当然のことながら妊娠中の妻のお腹はどんどん大きくなっていった。
しかし、その頃からだろうか。
徐々に、自分がもうすぐ父親になるという責任とプレッシャーがなんともいえない速度で自分の心の上に覆いかぶさってきた。
まただ。結婚前だって、なんとも言えない「これでいいのか?」みたいな、新しいことを手掛けるときに人によっては陥る、あのいやなパターンだ。
ボクの場合、こうなるともう止められないルートをたどるのが常だ。
今回も例外なく、確実にそのルートを辿っていった。
そんなこんなで時は過ぎ、季節は春・4月になった。
とうとうボクの状態は、極限状態にまで落ちてしまった。つまりうつ症状だ。
こういうことは今回が初めてではなかった。思えば就職して半年目の1995年、つまり6年前も同じような状況に陥った。あ、そういえば結婚前もそうだったか・・・(笑)?初めていつもやっていてできていた仕事さえ、やろうとすると変な緊張が入り、パニックを起こし、自分で何をやっているかわからなくなるといった始末。
つまり、ボクは急な予期せぬ環境の変化に弱いのだ。
だから、できるだけ今の状態が自分にとってベストな環境なら、願わくはずっとこのまま続いていてほしいと無意識に願っている気質がある。
しかし、現実はそうなる保証はない。むしろ、予想できない変化が起きるほうが人生においてははるかに多いのだ。
話をもどそう。
結局、ボクは4月が始まってしばらくしたある日、当時、自転車通勤で職場まで行っていたのだが、職場前まで来ると、あまりの不安と恐怖で中に入れず、即座に自分の携帯を取り出し、家族に連絡していた。
その家族も、出産間近の妻には心配かけまいと、実家の兄に連絡して、「どうしよう・・・」と半分泣き声で、どうしてもらうこともできないのもわかっているのに、ただ不安で話していた。
この頃のことをこうして書いているだけでも、胸が締め付けられるような一種のフラッシュバックのように当時の光景がいまだに蘇ってくる。
それほど強烈な経験としてボクの胸に刻まれていたのだろう。
そして結局は、職場にはそれ以降欠勤しがちになり、ついに一時休職に追い込まれていった。しかもそれを職場の社長に伝えるのも、一人で行くこともできず、実家の母親がついてくる始末(笑)。
いわゆる親離れもできていない30歳間近の既婚男性という、当時の気持ちとしては、自分が一番こうはなりたくないという反面教師的な姿をさらしていたように思う。
こうしてボクは社長のはからいで、あえて期限を設けない休職状態に入った。
それからというもの、出勤もせず、家で何をする気も起きず、かといって家にいると出産に備えて色々忙しそうな妻の姿を見ると、罪悪感に襲われフラッと外に出ては公園にいってぼーっと遠くを見つめてやり過ごすといった日々を過ごしていた。
しかし、それ以上にあまりにも「父親になるボクがこんなことやっている場合じゃない。なにやってんだ・・・。」という虚無感が湧き上がり、とうとう休職後3週間足らずで、自主的に復職をした。
決してボクの精神状態は改善したわけではなかったが、復職をした限りは、「もう弱音ははかない。はけない。」と自分に必死に言い聞かせ、なんとかやり過ごしているうちに、徐々に以前のように仕事もできるようになってきた。
やがて4月も末になり、大型連休期間となる、いわゆるゴールデンウイークに入る。
そのころから、ボクの精神だけでなく、身体、つまり右足の膝にも小さな異変が現れ始めていた。
当時、ボクは定期的に近くのトレーニングジムに通っていたのだが、いつもメニューで運動していたエアロバイク(動かない自転車こぎ機)を足で漕ぐ度に、右膝に「チクッ、チクッ」といった筋肉痛に似た痛みを感じるようになっていた・・・。
やがてその右膝の痛みは、このゴールデンウイークの間にぐっと悪化、ついには歩行にも支障が出始める。
具体的には、出勤時には普通に歩行できる右足が、一日働いた後、退勤時には右足を半分引きずって歩行するほど悪化していた。
当時は、ジムでのトレーニングのし過ぎかもと、湿布を右膝にあて痛みを緩和させようとするも、あまり効果は見られず、むしろ日に日に痛みは増大していく・・・。
そしてついに、5月のゴールデンウイークも終わる最終日あたりだったと思うが、どうしても痛みが我慢できず、職場帰りに通り掛かる近くの古びた病院に自分の意思で時間外診察を受けようと飛び込んだ。
そこで問診を受けたボクは、この日たまたま当直医にあたっていた整形外科医師に呼ばれ、診察室にてボクの右足のレントゲン画像を見せられ、医師の口から衝撃的な告知を受けた・・。
「右の膝関節にできものができてるねー。これを詳しく検査する設備がうちの病院にはないので、もっと大きな病院で調べてもらったほうがいいね。できものがいいものか悪いものかはこの画像じゃよくわからないからなんとも言えないけど、まあ手術で取り除くなどの処置をしないと・・・・」と話し始めたのだ。
この医師の告知を、当初生まれてから特に大病もせず入院でさえしたこともなかったボクの頭は途中で真っ白になってしまい、理解もできず耳に入らなくなっていた・・・。
一通りの説明を医師から受けたボクは、「とりあえず右膝の組織をとって調べる必要があるから、検査入院の手続きをしてください。」と、わけが分からぬまま、入院関連の書類をもらった。
ボクは顔面蒼白のまま、妻にこのことを伝えないわけにもいかず、悶々とした気持ちで自転車にまたがり、家路に向かった―。
この連載は基本1年毎の記事内容を投稿が基本ルールですが、あまりにもこの年(2001年前半)は描くものが多すぎる(!)ため、急遽ここで一旦筆を起いて、一息入れてから次回(2001年後半)につなげることにします。皆様、悪しからず!
(次回(2001年後半)へ続く)
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