本当にトラウマはないのか?|アドラーへの疑問。
「嫌われる勇気」を読み終えた。また読み直そうと思う。私はこっそりNHKの100de名著から岸見さんのファンだ。
哲学書異例の253万部。
「君たちはどう生きるか」に似ているけど、私はこっち本の「生産」というところで躓いた。「何がどういい(正しい)生産なのか」書いてなかったからだ(なんともHSPらしい質問)。結局は、この本を超えて、アドラーに行き着くと「生産」などしなくてもいい自分を受けめるということで納得ということになった。
簡単じゃん!ということなかれ、私が書いた自己理解noteのように、本を読んで実践できるまでに20年かかるそうです。
だと思った。と私も思った(この4年かかりの自己理解noteが証明してる、残り後15年かー)。わかっちゃいるけど、バカップルに怒りが止まらんとタイムリーな話題(数日書き続けた自分でも嫌になるnote)を出すとこれがトラウマ(過去からの経験からの推測)でなくてなんなのか!と考えていたところだった。
私も私なりに読み解き、「トラウマ」というかトラウマと思われるだろうと自分で思っていたものは「ミラーニューロンの脳細胞の後天的故障」と位置付けた。これは「PTSD」の緩やかな日常版とでもいえそうで、「ミラーニューロンの脳細胞の後天的故障」からくる「悪習慣」を自分でコントロールすることで改善が見られた。
「嫌われる勇気」にかかれる「トラウマ」は心的症状というより、世の中一般の概念に訴えかけていると言える。
バカップル論の経緯とその後と結論を簡単にいうと、
結局彼氏は、彼女が入院で不在になった今、シェア空間を占拠することもなくなり、言われなければ、共同空間の掃除もしないしといったカスっぷりを展開し、私の予想通り彼の信頼は地中まで落ちている。
が、私本人からしたら、怒りが消えた。
なぜ?
そう、アドラー的にいうなら「私の予想通り」と書いたように、私はどこかでカスであれ!と期待していたのだ。(ということまでは認めてもいいかな、というよりHSPの洞察力と人間的直感が訴えたとも言いたいが、ここは引いてとして)
(カスっぷりが証明されたら、私の気は治った。前より腹が立たない)
まぁ、確かに私の目的「シェアハウスでの平等な暮らし方」「カップルの奴らが充実する生活」は乖離していたとして、私の「シェアハウスでの平等な暮らし方」についてはアプローチを変えて方法はいくらかあった(大人だからな)。それをやめたのは、バカップル彼氏の不愉快な行動一択で私の感情は寄り添うことをやめたからだ。
大人になったので個人攻撃はしない代わりに、シェアハウスでよりよく暮らすにはという点を、彼が今までしてこなかった事例を挙げてゆっくり追加していったので、できないやつになかなか辛い戦法でであろう(と少々自覚しながら私も行ったので、なかなか悪である)
この一連から考えるならば、アドラーの「トラウマ」は存在しないはなかなかに使える。どころではなく、この思考の癖については、私自身まだ追求してもめっちゃ楽しそう!と思えるので採用!
問題はここシェアハウスに来て、ASD3人目だけど、ASD観測値?なの?一応ASDの行動としていつもではないと擁護しながら、第三という「特定の愛着の的(人もモノも含む)」を発動されたら、もう人生で5戦今回も含め全然対処できないASD問題。
ほんと、もしこれが彼氏や旦那なら頑張るけど、ちょっと数年とか職場とかくらいの関係で発動してきたら、刺しちがえ事件まで発展するわ。(後この件の私サイドのその後として、ADは無駄に人と距離を近くしてしまうとあるらしい、私の社交性モンスターはここにあって、ASDの愛着問題と非常に相性が悪い、愛されても、愛されなくても地獄であったと書いておこう)
というわけで特殊ケース以外は、「トラウマ」はないでいいと思います。
でもHSPの私の疲労は溜まる一方なので、
本日も「αリポ酸」を飲んで頑張ろう。
そもそも、健康で穏やかに過ごせてると、怒りもコントロールしやすい。やはり、ほぼほぼの人が神経尖らせて何かしら疲れていると思うのが、現代の一番はじめの思いやりかもしれない。