外的発達障害と内的発達障害という考え方
やっぱり、「発達障害」ってネーミーングでまるっと「病気」いみたいな括りで良くないなと思う。せめて、結果、発達障害というより、現時点も中途発達というような概念の名称があるといいよね。
そうすると知らないと人も「自分」も「私」もまだまだ学びの中だし、発達、成長では一緒だよねって「目線」が持てそうな気がするんだけど。
もっと大きな括りでASDを見てみたいと試みて、カサンドラにされちゃってるから私情はなかなか切り離せず、実害が出ちゃってるからなお拗らせた数ヶ月だった気がする。
それだけ、発達障害と定型発達の理解の差は大きいとか言い訳してみて、とりあえず納得してみる(こうゆう自分を卑下するところHSPっぽい)
しかし田舎は、本当にいい観察環境である。と振り返る。
ふと一年半過ぎて気づいたのが、私が喧嘩するのはこの市外の人であることに気づいた。県で括るとなんだか見えなかったんだけど、まさかもっと小さい括りで見るとは、意外だった。
一方的な難癖おじさん|九州人
空気の読めない大家さん|富山人
女性シェアハウスに住む男の子|市外
その男の子の彼女|市外
タイプAの正社員|市外
よう私もいろんなところで狼煙あげるわ。と思ったら、みんな「市外の一部」の人で、市内の人でここまで変な人はいない結果になった。私としては、他で市内や他県外の人とも仲良くする人は多い。
おじさん問題は、別に置いておこうと思うが、ここで初対面の女性にセクハラ発言が止まらないおじさんは「市内・市外・県外」オールヒットである。
上記に挙げた人みんなASDなのとか自問すると、答えは「NO」
(ただ3人は傾向が強いし、一人は認定を受けていたけど)
みんな、パブリックとプライベートが混在「YES」
(ちなみにだけど、パブリックとプライベートってネットワークプロファイル用語ではややこしく意味がテレコ)
じゃ、「パブリックとプライベート」を混在しちゃう理由は?
ここに内的と外的という発生の違いに気づいたんだよね。(逆にいうと発達障害も定型発達もみんな人の領分は犯すから、マリーとアン問題も一概にASDに当てはまると言えないなと思う。一方、あの問題はあの問題で確実に一線持ってるラインだなと振り返る。)
一方的な難癖おじさん|九州人|原因:酒乱(外的)
空気の読めない大家さん|富山人|原因:空気と職権(内外的)
女性シェアハウスに住む男の子|市外|原因:空気が読めない(内的)
その男の子の彼女|市外|原因:ASD(内的)
タイプAの正社員|市外|原因:仕事で自分が正しい(外的)
ま、生活を一緒にしてると仕事や外であったという状況の違いで綺麗に「内」「外」わかれている訳で、当たり前か。全員生活一緒にしてたら全員「内」になってたかもだし、全員が生活外(職場)とかで会っていたら問題にすら「内」の3人は当てはまらないかもね。
どうゆう状況で人と関わるかも本当に大事な視点だ。
次に「空気が読めない」って大味なんだけど、個々で傾向違うし、細かい(ほんとちょっとしたことからのボタンの掛け違いみたいなズレの蓄積)とも言えて、説明できない。
「発達障害」とか「空気読めない」とかカテゴライズ的にはすくすく育った言葉だけど、全然説明になってないよね。
はい。分解。
「空気が読めない」とは、その場で自分が何をすべきか、すべきでないかや、相手のして欲しいこと、して欲しくないことを憶測して判断する。
そして、これもみんな読めない時あるよね。
そうなんだよね。「みんな」「ある」んだよね。そりゃ、自分で自分を疑うよね(つまり、気まずくなる)。
一方的な難癖おじさん|九州人|きまづい(外的)
空気の読めない大家さん|富山人|不明(内外的)
女性シェアハウスに住む男の子|市外|元気がない(内的)
その男の子の彼女|市外|元気がない(内的)
タイプAの正社員|市外|きまづい(外的)
そうそう、その後、
きまづいディスコミュニケーションになるか(相手と自分)
怒られたくないディスコミュニケーションになるか(自分)
道は別れた。
ASDはケロッとしてるんだよね。私がそこはいいところだと思うけど。それは相手の気持ちへの想像の欠如って粗探しみたいだけど、そういう一面もあるわけね。
さて、この大家さんだけなんだか特質なのは
・大家という権限
・直接の関係性を持たない(生活圏別)
・個人のコミュニケーションはビジネスを通して取得
自分のことよくわかってて、環境整えてるなと思った。社会貢献にもなっているし、人との距離も物理的に問題が起きないところにセットバック自らしてる。
その上でやっちゃったなと思うのが、もっと人と関わりたくて
・下宿人との半強制飲み会
=「やるから来てね」の自由参加でいいよな
・条件が満たない若い子を入れたがる
=賃貸保証契約免除(数万円)とかねするわけで
・賃貸契約者に「仲良く」という強制
=「問題がない」距離感くらいで仲良くは言い過ぎ
どれも彼女がグレーというより状況がグレーとも言えるんだよね。「その場で自分が何をすべきか、すべきでないかや、相手のして欲しいこと」という軸でいうと「相手のして欲しいこと」より「自分のそう思うこと」を実行していて相手に制約がついてる点。
これを問題とする点か、問題までいかない点かっていうジャッジは誰がするんだろうね。
私はここでいつも悩むんだけど。
私たちって普通に生きてるようで、とんでもない忖度いっぱいして生きてるんだなーとびっくりした。HSPが疲れるのほんと当たり前だ。
「自分のしたことが相手の不快」になってないかって夜な夜な一人反省会するよ。わからないもんね。いや、わからなくなる。
HSPは質問力身につけるとレベルアップが早い気がする(ASDの忖度ない質問する力欲しい。。。)。
「もうすでにいろんな事情でそうしている人がいたりする」において「外的」「内的」がまた分かれる。
ここ田舎では私は「外的」マイノリティーだ。都会人、ダブルワーク、未婚、とか、それがASDの「内的」マイノリティーとたまにかぶり、
・説明が必要
・説明し続けないといけない
を怠ると、「私はこうゆう人間なんであなたが気を使ってください」発達障害爆弾発言問題と類似した。
「私は東京からきたこうゆう人間なんでしょうがないでしょ」(さすがにこんないいかたしないけどね)
こうゆう仕分けいちいちできないと発達障害問題は語れないと思ったけど、困難日常で仕分けてる「時間」「疲弊」がもったいない。
ここに出てきた大家さんがどっちかなんて本来、関係ないし、その原因と見えないけど整合性の根拠を探したってしょうがないし(無理に探す人っていやらしいよな)、ただ、もうあったまきて、人に話している時に、「あのサイコパス!」って言い放ってしまった時に、なんか、違う。と「自分」が感じたんだよね。高学歴ASDはほんとサイコパス的な冷静さがあるけど、その神経系とも感覚別だし、でも、サイコパスっぽく感じる「結果」はあるけど、接し方はあくまで空気読めない(小)があるくらい。
そこで理解した。「結果」サイコパス的行動を起こしちゃう人もいるということ。
「外的」「内的」の混合のなせる技!またも新たな発見だった。
感情は豊かそうなADHD傾向の人の中で
1)思いとどまれる人(自責)
2)結果苦し紛れでもサイコパス的な「結果」にしちゃう人(他責)
がいて、大家さんはこの2)に近いと私の中でカテゴライズしたら、ちょっとスッキリしたし、よくわからない恐怖感も減った。
つまり、私の恐怖の源となったASD傾向の倫理違反も多分に「外的」な要因が影響していたわけなんだけど
・父親|経済力なし、母の裏切り
・大家|田舎での曖昧なビジネス運営
・若者|ASDでも人並みの人間生活したい
ここまでは本当にわかるんだけど、最後のチョイスがやばかったんだよね
・父親|子供に養育費払わないとなり、ことの正当化
・大家|古民家運営にうまくいかないのは住民のせい、追い出す
・若者|ASDを秘密にした上に問題が起きたら相手に察しろという姿勢
そして、それがいけないんだよって言ってくれる友達、コミュニティーをもてない不幸かな。
ほんとそれおかしいよって問題提起してくれる友達って「神」くらい大事だな。