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本木雅弘の『坂の上の雲』とか

本木雅弘がインタビューで、NHKのドラマの「『坂の上の雲』の出演が俳優としての成長の転機になった」と話していて、ちょうど日曜日の夜にやっているので、チラッと見てみる。

2009年から2011年まで、やや冗長に流れたドラマで、それに付き合ってあまり本気で見なかったが、今回1回分だけみても、NHKも制作も、出演者も、実は気合いがこもっていたドラマのように見受けられて、数回続けて見てみる。

司馬遼太郎の原作は72年、映像化をずっと拒んだ。史実取材部分と創作部分をあれこれ詮索されるのと、乃木希典が過度にドラマチックに映像化されるのがいやだったか。

映画「二〇三高地」では、三船敏郎の明治帝に、戦後報告する仲代達矢が、NHKドラマでは柄本明が、報告の途中で嗚咽が止まらなくなって、泣き崩れる、名演技。

大岡昇平、水木しげる、大西巨人などと同様、学業半ばで兵隊にとられ、満州送られた恨みもあってか、その、乃木希典を司馬遼太郎は、あちらこちらで、やや愚将とするニュアンスで書いている。

文春文庫の「殉死」も合わせて読むと、江戸藩邸で生まれた長州人、西南戦争で連隊長、薩摩の武士の手練れに対して、兵隊たちは平民をやっと訓練し終わった程度で、敗走する。ドイツ留学後の日清戦争は、相手が弱すぎた。

朝鮮、満州の権益、三国干渉の怨念からロシア戦、第1、2軍は北上するのに対して、海軍の要請もあり、西南西の旅順攻略へ第3軍の司令官となって、宇品から出港するとき、長男の戦死を知る。

ロシアは1.3メートルの厚さのコンクリートで要塞を作って準備しており、徒に正面攻撃を繰り返して兵隊を失う。海軍、本木雅弘演じる秋山真之なんかが、脇の防備の弱い203高地さえ落としてくれれば、というのをやっと、本国の参謀がお台場とかから引っ剥がして持ってきた巨砲を使ってどうにか、203高地を落とす。

相手の司令官ステッセルが降伏して、各国から集まっている報道陣の前で写真を撮るときに、ステッセルに帯剣させる配慮、あまりにもたくさんの兵隊を失ったのにもかかわらず、次男も戦死して、この写真で国内で軍神扱いとなる。

司馬遼太郎の表現では、あまりにも自分と部下の参謀の無為無策を恥じて、単騎騎馬で戦場視察の名目で、敵の弾にわざわざ当たりに行くような自殺行為を繰り返した、としている。

明治38年から過ぎて45年、明治帝崩御。「殉死」のうち「腹を切ること」では、殉死の前、後の昭和天皇と二人の弟の前で、山鹿素行の『中朝事実』の抜粋を読んで聞かせるも、小さい弟二人は乃木の様子が怖くて逃げ出してしまう。11歳の昭和天皇はなんとか我慢して立っていて、なんとなく乃木希典の雰囲気がわかったらしい。
(山鹿素行『中朝事実』=中国では君臣の義が守られてもいないのに対して日本は、外国に支配されたことがなく、万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られているとした、といった皇国論。それから、長州では幕府が推す朱子学でなく、大塩平八郎や佐久間象山、西郷隆盛が強く影響を受けていた陽明学が、吉田松陰を経て倒幕の原動力で、玉木文之進という兵学者は松下村塾の創立者で吉田松陰の叔父、乃木希典の親戚にして希典の父と交流が多かった。薩摩藩・長州藩・土佐藩の志士たちにとっては陽明学が藩学。他に、長岡藩の河井継之助も、と司馬遼太郎は長州、薩摩などの底辺に流れる思想を書いていて、その筆の勢いは、帝国陸海軍の太平洋戦争までの「こうなりゃ、もう、やるしかねえだろうが!」的な暴走が、薩長藩の思想まで遡るほどに、恨めしさを含んでいる。それがまた、どうねじ曲がったら、岸信介とその孫のあれやこれやに連なるんだろうかという疑問も浮かぶ)

司馬遼太郎は、当時の検死の資料から、3度胸を刺していることから、先に夫人を乃木希典が刺し、切腹も十字、逆さにした軍刀を喉に当てて絶命した、と表現している。

漱石も「こころ」で、明治帝に殉死した乃木希典に触れて、維新から日清、日露の戦争を国全体が駆け抜けて、明治がシンボリックに終わったことを匂わせている。
二つの「明治の精神」を読み解く——姜尚中さんが読む、夏目漱石『こころ』NHK「100分de名著」ブックス、から引用、

 父親が考えているのは、いうまでもなく、この日本を封建社会のくびきから解き放ち、「一等国」への仲間入りを実現した輝かしいフロンティア精神のことです。しかし、「先生」にとってはそうではない気がします。なぜならば、「先生」のセリフにはたぶん間違いなく漱石自身の思いが仮託されているからです。漱石は明治の精神の礼賛者ではありません。国中が「欧化」に血眼(ちまなこ)になっているとき、「英国人のどこが偉いのかわからない」と言い放ち、それを模倣して驀進(ばくしん)する祖国を皮相上滑りと言い、国民はこのままいくと全員神経衰弱になると憂い、国中が日露戦争の戦勝に沸いているときに、『三四郎』の広田先生に「亡びるね」と言わせた人なのです。ですから、「先生」を明治の精神に殉じさせようとするならば、それは「輝かしいフロンティア精神」とは反対のものに対してではないかと思います。

AIでブルシットジョブが駆逐される現在、NHKスペシャル「ゲーム×人類」
https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/EPKGYXY8XB/
なんか見てると、どうも、自分の中の昭和が、戦後昭和の意味もわからず、ねじ伏せられるように感じて、明治の終末と同じかどうだか、なんだか胸の底が薄ら寒い孤独感に襲われる。

もはや、出版社の売り物は書物よりもゲームのほうが幅をきかすようになり、ワールドワイドでゲームを作る人、する人の没入感は生き方を支配している。今の日本のビジネス、今の日本人の大卒ホワイトカラーの生業、毎日の仕事、ブルシットジョブでないもの探す方が難しいのでは、とも思ってしまう。

自分の戦後昭和といえば大げさだが、いつも自分に、自分が一番何に突き動かされてきたかを問うときに、キャッチボール、バットでボールを打つ、とかのほうが、ゲームをしているよりおもしろいし、何より、中学生の頃、布団に入ってからそれこそ、漱石のどれかを読み始めて、結局、朝まで読み続けてしまうような没入感と経験、それから世界を見る目が違ってくる丸ごとの自分の変わりようが根源だと結論に至る。なので、次世代にも、と思うのだが、どこで、誰を見ても、スマホ片手に、電車やバスでゲームばかりする人しか見ない。

現国教科書の「こころ」の抜粋を、教師の説明と解説で納得して、はい、終わり、だけの経験で閉じて、自分の中の何かが変わることがあるだろうか。50m離れた相手にボールを投げるとき、角度、スピード、ボールを放すタイミングとか、誰かに用意されて(ゲームは、多分、結局誰かがプログラミングした範囲の手順でしかないはず)相手のグラブに届くように、球を投げられるだろうか。

近くのスーパーの脇に碑がある。何十年も前、高校生の時か、その碑に「清国」とか「陸軍」とかの文字があるのを読んで、単に「日清戦争の兵隊さんのものか」と決めつけていたが、本木雅弘の件から『坂の上の雲』に至り、このたびもう一度碑を読んでみる。

明治三十七年十月十四日戦死
故陸軍歩兵上等兵坂尾芳蔵碑
清国奉天省沙河近

明治三十八年十月
兄坂尾秀○建之

とあり、日露戦争、おそらく広島鎮台、第5師団「野津道貫大将指揮の第4軍に属して、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦に参加し」たらしいから、この兵隊さんの戦死の日付は、沙河会戦の日付と符合する。

この碑、こうして120年、ここにあって、佇んでいる。


以下の引用は、mixiの「和風の高さんの日記」の「映画二百三高地から聞き取りした乃木希典大将の軍状報告」から
(こちらで一部字句訂正)

(日露戦争後乃木大将宮中に参内、明治天皇陛下に対し軍状報告す)
謹んで復命す。臣 希典
乏しきをもって、明治三十七年五月、第三軍司令官たるの大命を拝し、旅順要塞の攻略に任じ。六月絢爛を抜き、七月敵の逆襲を撃退し、次いでその前進陣地を攻陥し、もって敵を本防御線内に圧迫し、我が海軍の有力なる協同動作とあいまちて、旅順要塞の攻囲を確実にせり。
事後正攻法をもって攻撃を続行し、逐次要塞内部に砲撃し。十一月初旬より十二月上旬には二百三高地を激攻して、ついにこれを奪取し、港内に潜伏せる敵艦を撃沈せり。まさに要塞内部に突入せんとするにあたり三十八年一月一日、敵将、降を請い。ここに攻城作戦の終局。…攻城作戦の終局を告げたり。(感極まる乃木大将)
これを要するに本軍の作戦目標を達成するを得たるは陛下の御稜威(みいつ:威光)と上級統帥部の指導ならびに友軍の協力とによる。(震えだす乃木大将)ちこうして作戦十六ヶ月間、我が将卒の常に敬敵と健闘し、忠勇熾烈、死をみること期するが如く。
剣に倒れ、弾に倒れる者皆、陛下の万歳を歓呼し、きんぜんと瞑目したるは、真にこれを復想すえざらんと欲するもあたわじり(目をつぶったなら本当にこれを思い出すまいとするのも出来ません)。しかるにかくのごとき忠勇の将卒をもってして。旅順の堡場には半歳の長日月を要し、多大の、多大の犠牲をきょうじたるは臣…臣が…臣が終生の遺憾にて(本当に死ぬまで残念に思います)(乃木大将泣き崩れる)…


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