一周忌

一周忌だった。

彼は、というのは他人行儀な気がする。いつもの呼び方をすると、兄さんなんだけれど、本当は私の兄ではない。やっぱり、一回会ったきりで年に一度連絡を取るぐらいの人だったから、彼ぐらいがちょうどいいかもしれない。
彼の一周忌だった。

去年の今頃、私は私に見切りをつけて死のうと奮闘していた。自殺すら満足にできない、甘えくさった人間だという事がわかって終わったけれど。
丁度私が薬で死のうとして、とても大切でかけがえのない友人に手紙を書き終わった頃、彼もまた大往生をしていたらしい。白血病で、骨髄移植を受けてもダメだったとの事だ。
結局私は死に損なって、彼は生き損なった。
逆だったら良かったのにと思わずにはいられない。彼の死を嘆き、涙を流す人を見る度に。

彼は自由になった。
彼はどこにでもいる。墓に行けばそこに、家にいれば仏壇に、アルバムを開けばそこらじゅうにいる。彼は自由になって、そういった窓からいつでもこちらを見ている。
人が死ぬというのはいつだって他人事だ。自分が死ぬのを、自分は体験できないから。
だから死んだらどうなるかとか、分からない。多分死後の世界なんて無いと思う。身体と意識が一緒になってはじめて私だという持論を持っているから、身体を焼かれて、意識、魂とでも言おうか、がもし世界に残っていたとしてもそれは私ではない。
けれど魂だけになった彼は、内地の彼の家庭にも、今私の目の前にもいる。いる以外に言いようがないのが、私の力量の限界を表しているようで甚だ悔しいものだが、とにかくいる。

多分それは彼ではない。
私達は彼が死んだことによって、彼の存在を自由に定義する事が出来るようになった。だから私の中では彼は今食卓の椅子に座っているし、誰かの中では仏壇の上で見下ろしていることになる。

いないからこそ、どこにでもいる。

死によって自由になるのは、彼自身ではないのかもしれない。けれど一種の自由を、私達は勝手に手に入れて、暴力的なまでに行使する。哀しみを誤魔化すために。

私は彼の苦しみを知らないし、彼もまたそうだ。それを誰かに背負わせる必要も無いし、誰かの苦しみを背負ってやる義理も無い。
人は苦しんで死ぬべきと言った人がいた。私は死ぬときぐらい楽をさせてくれと思っていて、むしろ苦しまなければとの考えは浮かばなかった。ポテチにチョコをかけるぐらい斬新な意見で、考えてみるとなるほどそうかもしれないとも思った。
彼はきっと苦しみ抜いて死んだのだろう。
立派なことだと思う。私には出来っこないから。

私はあの部屋、薬を吐き出したあのベッドで私を殺してきた。苦しいことに変わりはない。未だ私の無限の発想はちっぽけな頭蓋骨に収まっている。
けれど私はあの日から変わった。
もう二度とあんな真似はしたくない(それでもきっとしてしまうとも思う)し、死ぬまで生きてみようと考えを改めた。死にたいとも今まで通り思うし、薬だって時々は飲まないとやってられない日がないとは言えない。
私の死体はあの部屋に今でも転がっている。
大切なものを亡くしてしまった。喪失感は今でもある。それで手に入れたものも多いのは確かだが、やっぱり、私を構成していた何かをあの日からすっかり思い出せなくて、心のどこかが今でも乾いてしまっている。
変化は悪いものではないと頭ではわかっていても、心が、ついていかない。

彼が死んだこと、私を殺してしまったことが、ただただやるせない。

私達の一周忌だった。

#エッセイ #一周忌

無理な金額は自重してね。貰ったお金は多分お昼ご飯になります。