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身近な「視ない」

この書籍を読み進めるうち私が連想したのは「キノコタケノコ論争」。

他にも「ペットにするなら?犬?猫?」「血液型占い」「朝食はパン?ご飯?」。
キノコもタケノコも興味なくチョコ食べるなら私は板チョコがいい。

原題はA Very Short Introduction Racism。この後に続くVSIシリーズの第一弾とのこと。日本語題名「14歳から考えたいレイシズム」。ティーンエイジ向け書籍ではない。内容は世代は関係なく、著者がレイシズムを一つひとつ丁寧に解きほぐすように読者へ伝えてくれる印象の強い著作であった。

とっつきやすく身近な話題に変換してより自分自身が理解できるよう噛み砕いてみた。少なからず私にも持ち合わせている潜在的差別意識
固定観念の違和感を気付くことから始めていかなければならない。

最新の科学技術の発展により我々の祖先は同じ人類であることが確証を得ている。まだ大陸続きの地球の時代に祖先たちはそれぞれ点在していきその場所で適する姿へと変化を表していったらしい。
だがよくある常套句「私たちはひとつの大きな家族」なんて理想を掲げても現実そうまだまだ綺麗事には変わりないのだろう。

当たり前に違和感のないのっぺりした中におかしなことは潜んでいる。

著作のテーマがかなりセンシティブで触りずらい話題だが早急な問題解決が必要であるのは昨今の情勢より明らかである。感情的激情的になりやすい。コーヒーを飲んで休憩する時間をもって落ち着いた雰囲気でゆったりいどまなければならない。

私は幼少期に同和問題を学んだ。狭山事件に端を発した運動の話しを何度も何度も繰り返し教え込まれた。私の住む地域は部落であった。
ただこの校外学習は一地域だけのものであって学校内でも少数の人数にだけ与えられたものであることに、ある日私は愕然とした。授業で高々年に何回かあれば良く30分話しに出ればいいであろう同和問題。重要視するのは悲しい歴史も持つ自衛を余儀なくされマイノリティなのは至極当然であろう。子供時代の謎にも知り得た学習は大人になるにつれて自分自身で答えを見つけられた。
触れずらい話題に馴染みがあることはアドバンテージではある。裏を返せば要らない不安材料でもあるわけだが。

認識の違いは往々としてあるが、個性として許容するには範囲を超えた攻撃(潜在的、意識的にしてもだ)になるのはいただけない。それがレイシズム。明らかに狂った(強い言葉を敢えて用いる)ことが起こっていても常の事柄になっている。これが暮らしている現実。
富・名声・権力がある人がひと度表明すれば賛否両論となって物議を醸す。ただ醸すだけで根本の解決へと運動を始める意識は中々あることではない。

一概に正しいを限定することは難しいとしても、考え方の意識改革は草の根運動でコツコツとできるはずだと信じている。「私とあなたは違う」、当たり前のこと。
前提があって集団を成して生活する内に枠組みを勝手に抱く。枠組みが違うことで他を攻撃対象に見てしまう。違いが不安に転換させやすい。この一連の流れを組み込んで未だ政治利用されている国民は世界中にあるのだとか。論証が不確定な事柄で惑わせ大衆を誘導しやすいのは怒りと不安にと突きやすいのは現代に伝わる歴史でも明白である。怒りは怒りを買い恨みは脈々と続く。感情的になりやすい事柄はどれだけ感情を出さず問題解決へ取り組めるかが常の課題である。それ故に本当に難しい。

立場が違うと見える世界が違うのも事実だ。理解の完全一致なんてのは全くもってないのだろう。視点を変えることで得られる事実から、当事者を遠巻きで対岸の火事と捉えている立場へ大事の問題とアプローチを掛けられるのか。日本でもSGDsに目に留まることがかなり増えた。群衆多数を動かし流行りから定着へ。ここからまた変えられる。

『育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない』。私もあなたも隣の人もみんな違う。だから同じなところが見つかると安心する。ここに固執してしまうからこじれてしまうのだろう。

キノコの山が好き。タケノコの里が好き。どちらも好き。またはどちらも好みではない。クッキー部分が好き。そもそもこの菓子自体に好みがいかない。チョコレート菓子を取ってみてもそれはそれはたくさんの捉え方があるはずだ。

身近な「違い」から視る。ここにこれからのヒントがあるはず。


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