カワイイは作れるし、カワイイは作れるようになっている

 とても正直なことを言おうと思う。
 私は、恵まれた容姿を持って生まれたと認識している。

 ただ即座に補足しなければいけないこともある。
 幼い頃から、私には外見のコンプレックスが数えきれないほどあった。自分の外見を良いとは全く思えなかった。妹のように切れ長の目がほしかった、足が大きくて可愛い靴がはけない、髪が多くてごわごわの直毛で可愛くない、クラスのあの子みたいに華奢な身体になりたい、妹みたいに、クラスのあの子みたいに、妹みたいに、クラスのあの子みたいに、妹みたいに、クラスのあの子みたいに……。
 雑誌に載っている服を自分なりに合わせたりもした。雑誌に載っている自分磨きはおまじないの類までいろいろとやった。母と趣味が合わなくて、柔らかく深い傷を心に負ったりもした。

 中学・高校に上がってもそれは続いた。女子校だったこともあり、それまでよりもっとたくさんの可愛い女の子を知った。それと同時に、"可愛い"や"魅力的"の路線は1パターンではないことも知った。
 もっと正直なことを言おう。「十分可愛いし、その魅力をアピールできている人」「持っているものは魅力的だけれど、それを自覚していない、気にしていない人」といったように、私は周囲の女の子たちを無意識に区別していた。そしてその中には、「元から持っているものの中に明らかな足手まといがある人」というカテゴリも、たしかに存在した。2番目のカテゴリの子には私の妄想の中で様々にコーディネートをしていたのだが(もちろん本人に押し付けたりはしなかった)、3番目のカテゴリに関しては、何もできなかった。そして、自分がそうでないことにひどく安心してしまった。

 その時だ。その時、私は自分の生まれ持った容姿に、ある程度の評価を持つようになった。
 「どうしようもないパーツが1つもない」ということに、初めて感謝した。自分のコンプレックスは全て自分の努力でどうにかなるのだと、きちんと自覚した。
 近年になって整形youtuberなども少し見ることがあるが、そういった見方があるからこそ、私は整形をその1つの結果行為だと思っている。メイクを変えたりダイエットしたりするのと同じだ。同系統の、それ以上の努力だ。「自分の努力」の可能範囲が、今ではもっともっと広がったということだ。

 その後の私は、常に過剰なくらいにキラキラしていようとした。今見返したり思い返せばちぐはぐだったけれども、雑誌に載っていたコーディネートやメイクで好きなものをとことん真似した。おしゃれに見える髪形やカットをかなり模索し、自分の髪質への対処法を模索した。髪に関しては、その後高校・大学でパーマやカラーをゴリゴリにしていくことで本来のごわごわ真っ直ぐ超健康毛に自分の好みになるようダメージを入れられ、かなり理想に近いものを15年ほどかけて作り上げられたと自負している。それも、元がプラスの状態だったからいくらでも引き算ができたという話ではあるのだが。
 とにかく、「オタクだけれどなんだかキラキラしていて可愛い」と思われたかった。当時生まれだした「陰キャ」「陽キャ」という言葉をぶっ壊していたかった。

 思い返せばそういった20年近い葛藤の中で、それなりの自意識が育まれたのだろう。
 その葛藤の中には、他人から言われた「かわいい」も確かにカウントされている。どのような意味で言った「かわいい」なのかは全て違うし、その重さも違うし、正直分かっていないし悪く勘ぐってしまう部分もあった。ただ、そういった面倒くさい、確認しようも無いものは全て捨てて、都合の良いようにその言葉面だけを受け取って生きている節はある。
 キラキラしようとしていたとき、周囲の女の子たちがたくさん「かわいい」と言ってくれていた。他クラスの友達が「うちのクラスの○○とか××とかがなゆちゃんのファンだって」と謎の状態を報告してきたこともあった。正直よく分からなかった。ただ、その言葉が出てくること自体はとても嬉しかった。そういう「他人からの承認」がきちんとあったことが、今の私を立たせてくれていると思う。
 だから、可愛い・魅力的だと思う人にはどんどんそういう言葉をかけてほしい。それがどんなにその人の人生の支えになるか分からない。逆に、どんなに軽い冗談でも逆の言葉は深く突き刺さる。「マジになるな」とかそういう問題ではもはやない。もはやないほどに、世界はルッキズムであることを認識してほしい。

 正直、今の私の外見はどちらかと言えば嫌いだ。嫌いだから、どうにかしようと日々戦い、自堕落な己とも日々葛藤している。

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