moonというゲームは何のアンチテーゼなのか
1997年発売のプレイステーションゲーム「moon」が、昨年ニンテンドースイッチに完全移植された。
最近、ふと思い立ってこのゲームの考察を検索し、最近のものをいくつか読んでみた。いくつか読んだところで、拭えない違和感を確信した。ちがう、moonの毒気はそんなところにあるんじゃない。moonの意図はそんなに刺々しいものではない。そんな思いが止まらなくなってきた。そこで、今回はmoonのゲームメッセージについて少し考えたいと思う。
moonのラスト・根幹に関わるネタバレを含むのでご注意ください。また、申し訳ないことに私自身がプレイをしていないこともご承知おきください。(悔しいことにスイッチ未所持です……)実況動画、プレイ動画、考察動画は2010年頃からいくつか見ております。おすすめはやっぱり蘭たんでしょうか。
【エンディングがどんなメッセージを持つか】
ゲームが起動されたテレビに吸い込まれ、Real moonの世界に入った主人公。ラストの流れはこうだ。彼は最終的に月へ到達し、たくさんの基盤に固められた"光の扉"を開けられず、竜=月の女王様を殺した勇者と向き合い、そして斬られる。それと同時に、勇者の鎧も崩れ落ちる。
……そこで、二度目のお母さんの声が聞こえるのだ。「こら!テレビゲームなんかやめて、早く寝なさい」
そして少年は、現実の扉を開ける選択をする。いろんな玄関の扉が開いていく。月の世界の光の扉も開き、その前にいた大勢のキャラクターたちが扉の向こうの光に照らされている。エンドロールでは、実物の写真の中でmoonのキャラクターたちが楽しそうに生きているのであった。そして、「MOON発売中止」の貼り紙。
読んできた最近の考察では、「引きこもってゲームばかりやっていた少年が、現実の扉を開けて自立する。ゲームなんてやめて、外の世界を知りなさい、というメッセージではないか。ゲームが好きでプレイしてきた人に、この結末はあんまりではないか」という、某映画の時にも見たような意見がよく見られた。
……そんな禍々しいメッセージではないはずだ。わざわざ長い時間をかけてプレイしてくれた人にそんなメッセージを与えるような悪意なんて、このゲームにはそぐわない。風刺や小さなユーモアの棘こそあれど、そんな意地悪なゲームじゃない。どうしてもそう思えてしまう。
そもそも、お母さんは「テレビゲームなんてやめて、早く寝なさい」と言っているのだ。一言も、「外で遊びなさい」「外に出なさい」といった類の言葉は言っていない。
そして「ゲームばっかりやってないで!」は、大多数の子どもたちが親に言われたことのある言葉だ。当時の子どもはみんなゲームに夢中だった。これは私の感覚的な思い出だけでなく、実際にポケモンをはじめとしたゲーム原作のメディアミックス・逆に漫画やアニメのゲーム化も急増した時代ではなかっただろうか。友達の家に行ってはみんなでゲームをし、屋外にいてもなお我慢できず携帯ゲーム機と通信ケーブルを持ち寄って、太陽を浴びながらみんなでゲームをしていた。そんな時代だった。白黒ドットの液晶画面が太陽光で見えなかったり、ゲームボーイが自転車のかごから滑り落ちてアスファルトに衝突し角が欠けたりしたこともある、そんな時代だった。
だから、あの少年は引きこもりなんかしていない。ただの、普通の男の子だ。
そしてあのゲームは、最初から現実とゲームを切り分けてなんかいない。エンディングがそれを物語っている。
(余談だが、私はコンティニューを選んだ場合もバッドエンドだとは思っていない。ゲーム内のお祖母ちゃんに嬉しそうに迎えられるのも、少年にとって幸せな選択の一つだ。ただ、あくまでエンディングロールが流れる方をトゥルーエンドとして取っている)
現実の写真の中でキャラクターたちが悠々自適に過ごす姿を、どうしてエンディングとしたのか。
つまりあれは、「本当にゲームの中のキャラクターが現実世界に出てきた」のではなく、「少年の精神的な視界の中に、ラブを通わせたmoonのキャラクターたちが見える」のだと考えた。いろいろな姿をしたキャラクターたちが、どうしてあんなに人間くさいのか。どうして「いるいるこんな人」と思わせる性格ばかりなのか。そうでないとラブなんて交わせないからだ。ラブはもともと現実にあるものだからだ。そんな交流をした結果、少年にはきちんとラブが見えるようになった。ゲームの中で出会った人々を愛するのと同じように、現実世界にも色が付いて見えるようになったのだ。それは"失ったものを取り戻す"なんてマイナスなものではなく、単なる1人の少年の"成長"だろう。
真夜中大学のフクロウ先生は「いつかどこかの夜空で逢う時までの宿題ぞなもし…」と言った。フクロウ先生にはまた会えるのだろうか。会えるのだろう。ラブがあれば、いつかどこかの夜空で、私たちは彼を見つけることができるのだ。
「ゲームを思う存分楽しんだら、そろそろゲームをやめて外を見てごらん。大好きなキャラと同じだけのラブがそこかしこにあるんだよ」
全国の少年少女たちに対するそういうメッセージなのだと、私は捉えている。「ゲームを否定するゲーム」などではなく、どちらかといえば「現実とゲームを混同するという"危惧"に対するアンチテーゼのゲーム」であるというほうが正しいように思える。
【光の扉について】
これはゲーム内でもほぼ明言されているから答えである前提で書く。また、実際にスイッチ版をやっていないので憶測が大きく外れていたら申し訳ない。
「光の扉=プレステの蓋」であることが、そりゃそうだとは思うがスイッチ版では伝わっていない???
最近書かれた感想では「光の扉は結局開けられなかった!あんなにゲーム内の目的だったのに!」というものが多く見られた。違う。光の扉は最終的に開いたのだ。プレイヤーがゲーム機の電源を切って、その蓋を開けたのだ。たしかにこれは媒体が違ってしまえばまったく伝わらないし、製作側も分かっていてそのまま移植したのだろう。なんとももどかしい。
これに関しては追加テキストや変更があったりしたら教えてください。私もできるだけ早くスイッチ購入を検討します……でもやりだしたら終わらせたくなくなっちゃいそうだなぁ……。