見出し画像

将棋のミュージアムに行こう!

将棋の歴史には不明な部分が多い


古代インドで楽しまれていたボードゲームのチャトランガが将棋やチェスのルーツと考えられており、将棋が日本に伝わったのは平安時代とみられる。

伝わった時期とルートには異説があり、将棋の歴史を調べた2人の研究者が主張をぶつけ合っていた。2人は奇しくも2021年に亡くなっている。

1人は日本の将棋史に名を残した木村義雄十四世名人の三男で、自らも棋士であった木村義徳九段。

関西将棋会館の将棋博物館(閉館)の館長も務めた木村義徳は、6~7世紀頃に中国から、チェスのように立像型のものが日本に伝来し、後のシャンチー(中国やベトナムで行われている伝統的な将棋)と同系統のものだという説を唱えた。

もう1人が、チェスや将棋など遊戯史の研究家の増川宏一で、江戸時代の将棋の家元三家(大橋本家、大橋分家、伊藤家)の中で、源流である大橋本家に残されていた文書(大橋家文書)を研究して、自説を著書で発表した。

遊戯史学会2代目会長になる増川は、将棋は7世紀頃に日本に伝来し、庶民の娯楽だったため記録が残らなかったと、1970年代に主張していた。しかし、1980年代に、平安時代の駒が発掘されたり、文献の研究が進むと、自説を修正し、伝来時期を10~11世紀に変更し、楽しんでいた人々も、貴族や僧侶など識字層であるとした。

遊戯史学会は「遊戯史研究」を1988年から年に1度、発刊してきたが、2018年に解散している。

「世界の将棋」が日本将棋連盟のホームページに写真入りで紹介されてる。

歴史は、往々にして新資料の発見や、従来の説の根拠となっていた文献の間違いや脚色(事実の隠蔽や改ざんなど)で、定説が塗り変わることもある。将棋の歴史でも今後、修正があるだろうが、これから書く文章は、巷間伝えられていることに基づいている。

将棋の家元は大橋本家、大橋分家、伊藤家

将棋が武士にも広まった鎌倉時代には、将棋の駒数を増やし、すぐに勝負の決着がつかないよう複雑化していく。「大将棋」と呼ばれるものだが、勝敗が決するまでに時間がかかり過ぎたこともあり、室町時代には簡略化され、取った駒を何度でも使える現在の本将棋になった。

江戸時代に入り、1612(慶長17)年頃、幕府は将棋と囲碁の達人であった大橋宗桂そうけい(大橋の姓は没後に使われた)や本因坊算砂ほんいんぼう さんさらに俸禄ほうろく(主君から与えられた扶持米などの給与)の支給を決定。将棋は囲碁とともに、江戸幕府公認の遊戯となる。

宗桂と算砂は将棋と囲碁、両方の達人であったが、やがて得意分野に特化し、宗桂は将棋、算砂は囲碁を極め、宗桂と算砂の後継者は、それぞれ将棋所しょうぎどころ(将棋の家元が名乗っていた称号で、名人を世襲)、碁所ごどころ(囲碁の家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の4家から選ばれ、就任するには名人の技量を持っていなければならない)を名乗った。

将棋の家元、大橋宗桂の後継者である大橋家(大橋本家)、大橋分家(大橋本家の初代大橋宗桂の子で、二世名人大橋宗古そうこの弟の大橋宗与そうよが寛永年間に興した)、伊藤家(二世名人大橋宗古の娘婿である伊藤宗看そうかんが、宗古の計らいで新しい家元、伊藤家を興す。伊藤宗看は三世名人)の3家のうち、最強の者が名人に就いた。

将棋所、碁所はいずれも公職ではなく、自称であったとされており、将棋、囲碁の家元は寺社奉行の管轄下に置かれていた。

囲碁の歴史は、4000年ぐらい前の中国で始まったと言われる。囲碁は、古代中国の皇帝が囲碁を創案し、子どものしつけのために教えたという説や、碁盤は宇宙で、碁石は星を指し、こよみ(占い)に使ったという説がある。

紀元前479年に亡くなった孔子の言葉をまとめた『論語』に囲碁についての記述があり、紀元前770~前221年の春秋・戦国時代に、囲碁は戦略立案や政治に役立ち、人生の機微を学ぶゲームとして広まったようだ。

日本には5世紀頃に伝わったとされており、平安時代に書かれた『源氏物語』や『枕草子』にも囲碁の描写があり、貴族、僧侶、武士の間で好まれた。鎌倉・室町時代になると、豪農や商人にも広まっていく。

織田信長は1578(天正6)年、日蓮宗の僧侶、日海と出会い、囲碁の強さを見て「名人」と称えた。日海は寺にある「本因坊」という塔頭たっちゅうで生活していたので、後に本因坊算砂と呼ばれるようになった。

豊臣秀吉は1588(天正16)年に、囲碁の強い者を全国から集めて競わせたが、優勝したのは本因坊算砂だった。算砂と大橋宗桂は信長、秀吉、家康の3代に仕えている。

将棋の名人の地位は、大橋本家、大橋分家、伊藤家の家元三家による世襲であった。家元の地位に不満を持つ在野の強豪から何度も挑戦を受けたが、権威を保つためには高い棋力が求められ、門下生の中で棋力の高い者を養子にして家を継がせ、名人にするケースが多かった。

寛永年間(1624年~1644年)には家元の将棋指しが江戸城内で対局する御城将棋おしろしょうぎが行われるようになり、8代将軍、徳川吉宗の頃、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことが制度化された。11月17日は現在、「将棋の日」になっている。

新聞に将棋欄が登場し、ファンが増加

江戸時代中期までの将棋指しは、指し将棋だけでなく、詰将棋の能力も競い合っていた。伊藤家の伊藤看寿かんじゅ(没後に名人位を贈られた)は、1755(宝暦5)年、詰将棋の作品集『将棋図巧』を幕府に献上したが、現在でも最高峰の作品として知られている。

全日本詰将棋連盟は、伊藤看寿にちなんで、優れた詰将棋作品を年に1度、表彰する「看寿賞」を制定し、詰将棋専門の月刊誌「詰将棋パラダイス」で発表する。

江戸時代後期には「実力十三段」と言われた、九世名人の大橋宗英が登場。「守りを固めて、負けにくい将棋」を指す戦術と大局観を持っており、将棋に革命をもたらす。現代にも息づくまざまな戦法を創案したため「近代将棋の父」と呼ばれている。

江戸時代の棋譜や、明治以降に活躍する棋士の天野宗歩、関根金次郎、阪田三𠮷、木村義雄などの棋譜をまとめたのが、全18巻の『日本将棋大系』(1978年~1980年に刊行)。別巻3巻は江戸時代初期、中期、後期の詰将棋集だ。

家元制度を支えてきた江戸幕府が崩壊し、明治になると、家元三家に俸禄が支給されず、家元制は弱体化。関東では家元三家の門下の棋士が将棋を専業とし、関西では、大橋本家の門下生であったが、独立して関西で弟子を育てた天野宗歩の門下が台頭していた。

名人位は将棋の家元三家から離れ、プロの棋士たちの協議によって決まる推挙制に移行していく。

明治以降、数多くの新聞が発刊されたが、新聞紙面に初めて将棋欄を掲載したのは、記者で作家の黒岩涙香るいこうが創刊した「萬朝報よろずちょうほう」であった。

庶民の将棋人気は根強く、大正期には、実力のある棋士は将棋団体(派閥)を主宰し、新聞社と契約して、一門の生活を安定させていた。

他流試合を行わないことを原則としていたが、将棋界全体の発展はないとの判断から、大橋本家の12代、大橋宗金そうきんの門下で、十三世名人だった関根金次郎の下に合同し、東京将棋連盟(日本将棋連盟の前身)が1924(大正13)年に結成された。

関根門下で、関西を拠点としていた木見金治郎きみ きんじろうの「棋正会」が「東京将棋連盟」に合流し、1927(昭和2)年「日本将棋連盟」に改称。

関根は1935年に実力名人制の導入を発表し、名人位を八段の棋士によって競うことを決めた。だが、日本将棋連盟のトップ棋士と対局して好成績を残すも、八段昇段が認められなかった神田辰之助(元、阪田三𠮷の門下で、十一日会を結成)の名人戦参加権(八段昇段)を巡って、日本将棋連盟が分裂する。

騒動の責任を取って、日本将棋連盟の幹部は総辞職し、会長が不在となる「神田事件」が起きたが、翌1936年、神田の名人戦参加を認めることで和解した。

日本将棋連盟、日本将棋革新協会(神田辰之助の名人戦参加に賛成だった棋士たちが日本将棋連盟を脱退して結成)、十一日会の3団体が手打ちを行い、3団体を解散して、新たに「将棋大成会」を立ち上げた。

対立を解消して、1937年に実力制の名人戦が行われ、木村義雄が実力制での初めての名人になった。終戦後、木村は1952年に引退を表明し、十四世名人に就任する。

将棋大成会は1947年、名称を再び「日本将棋連盟」とし、木村義雄が会長に就任。1949年に社団法人、2011年に公益社団法人になった。

2024年に創立100周年を迎え、千駄ヶ谷の旧将棋会館から400メートルほど離れた場所に新将棋会館を新設した。

閉館したまま復活しない「将棋博物館」

JR千駄ヶ谷駅から徒歩2分の好立地に、将棋会館が2024年10月にグランドオープンしたが、残念なことに、将棋の歴史や将棋関係資料、棋士たちの記念品などを展示する将棋ミュージアムは開設されなかった。

クラウドファンディングで資金集めをしたものの、カフェ、ショップ、多目的スペースを設置しただけ。

囲碁の団体である日本棋院の総本山(東京都千代田区五番町)には囲碁の歴史、日本棋院の歩み、囲碁の歴史的な資料、囲碁殿堂入りした人のゆかりの品、碁盤などを展示する「囲碁殿堂資料館」がある。

将棋博物館をどうして開設しないのか。冒頭の、将棋の歴史の研究家でもあった木村義徳の説明で若干触れたが、関西将棋連盟の会館に「将棋博物館」がかつて存在していた。それがどうして閉館したのか。

大阪市福島区にある関西将棋会館を1982(昭和57)年に新設した際、将棋界で初めての「将棋博物館」を開設。将棋史に名を残す江戸時代初期の初代名人、大橋宗桂から連綿と続く将棋の家元、大橋本家に伝わる「大橋コレクション」や、十四世名人の木村義雄が私財で集めた「木村コレクション」、棋書類などを所蔵し、展示していた。

会館5階には江戸城本丸の御黒書院おんくろしょいんを復元し、御城将棋おしろしょうぎの雰囲気を漂わせていたが、将棋博物館は2006(平成18)年に閉館。

なお、福島区の関西将棋会館も、日本将棋連盟100周年を機に2024年12月、大阪府高槻市に移転する予定だ。

将棋博物館の収蔵品の一部は大阪商業大学 アミューズメント産業研究所に移管されることになったが、大橋コレクションの資料、文書類は大橋宗家の子孫に返還された。

2006年11月22日発売の「週刊新潮」11月30日号に「『将棋博物館』閉鎖で木村名人の娘を怒らせた『米長会長』」というタイトルの記事が掲載されている。

(以下引用)

 未だに名人戦のドタバタが続く日本将棋連盟で、また新たな騒動が勃発している。10月末に閉鎖された「将棋博物館」の処置を巡って、目下、棋士たちから米長邦雄会長(63)に対する批判が沸き起こっているのだ。さらに、こんな人からも怒りの声が……。
 木村義雄十四世名人――。 第一期実力制名人戦に勝利して以後、無敵の"常勝将軍"として棋界の項点に君臨し続け、連盟の会長も務めた功労者である。
「あの品々は、父が常々"将棋界の宝"と大切にしていた貴重なもの。でも、将棋ファンのためならと思って寄贈したのです。それを、私どもには何の説明もなく他所に移すなんて……」
 そう憤りを顕にするのは、86年に没したその永世名人の長女である木村朝子さん(77)だ。
 今から24年前、関西将棋会館が建設された際、4階に開設した「将棋博物館」には各方面から多くの寄贈品が寄せられた。中で最も貴重な品が、木村名人が所蔵していた逸品だった。
「当時の連盟会長だった大山康晴名人からぜひにと頼まれ、父も"これは世に二つとない品々だし、個人で持つと金銭絡みで散逸するから"と申し、喜んで寄贈させていただいたのです」
 中には、国宝級の貴重品もある。例えば、徳川宗家16代当主・家達公由来の『葵紋蒔絵入り将棋盤』と『駒箱』。さらに『伝・関白秀次愛用駒』や『伝・後水尾天皇真筆駒』などなど。
「あの将棋盤なら1億円出しても欲しい。重要文化財に指定されてもおかしくない」(高位の古参棋士)
 が、10月31日に「将棋博物館」が閉館。お宝の大半は大阪商業大学に寄託してしまったというのである。
絶対に反対
 その経緯について、連盟常務理事の東和男七段は、「今は学芸員もいません。恥ずかしい話、きちんと管理ができていなくて。将棋盤も傷つけてしまったので、倉庫に置きっぱなしでした」と説明するが、
「数年前にも一度、どこかに寄贈という話が出たんですが、僕を含めて理事や多数の棋士が猛反対して立ち消えになった。もちろん、今回も反対の声が多かったんですが、米長会長が中心になって、執行部で一気呵成に突っ走ってしまったんです」(元理事)
 その当時、館長だった木村名人の三男、義徳九段も、「今年はじめ、連盟の理事から"了承してくれ"と言われましたが、もちろんしてません。そもそも博物館だって、別に維持に苦しんでいたわけじゃないのだから、潰す必要なんてない」
 と言えば、先の朝子さんもこう続ける。
「本釆なら国立博物館などの公的機関に寄贈したかったのです。父の遺志に反するようなところへいくのは納得できない。絶対に反対です。米長会長には、今からでも返していただきたいくらいです」
 当の米長会長は、「僕が主導したわけではなく、連盟できちんと決めてやったことです。木村名人の遺族が怒ってるだなんて、そんなことあり得ません」
 と言うのみ。朝日、毎日両新聞を天秤に掛けた名人戦の契約金吊り上げに、いつまでも現を抜かしている場合ではないようだ。

関西将棋会館のホームページには、将棋博物館について、以下のような案内が2006年10月31日付で掲載された。

「長年、皆様に親しんでいただきました本施設(将棋博物館を指す)は管理上の理由を含め展示物及び所蔵物を大阪商業大学アミューズメント産業研究所に移管することになりました。今後、一般の方からの閲覧は難しくなりますが、将棋史の学術的研究のため、ご理解いただけますよう何卒よろしくお願い申し上げます。 
平成18年10月31日 日本将棋連盟 常務理事 東 和男」

家元三家の名人から実力制名人へ

将棋博物館の所蔵品の「大橋家コレクション」などは大橋家の子孫に返されたが、貴重な資料や伝来品を公的機関が公費で保存、管理していく必要があるのではないか。

関西将棋会館の将棋博物館が閉鎖されたのも、人が増え、将棋道場なども必要になり、スペースが不足したためと言われている。

博物館の所蔵品を借りたまま、返さず、散逸したケースもあった。文化や伝統をないがしろにする日本将棋連盟に、将棋関連の文化財を任せることが難しいなら、将棋、囲碁、その他の遊戯を一堂に会したミュージアムを新設するか、すでにある博物館に「将棋、囲碁、遊戯」の常設展を開設する必要があるのではないか。

木村義雄十四世名人の遺族も「国立博物館などの公的機関に寄贈したかった」と発言しており、将棋関連の品々は日本の宝ではないのか。

文化財への無理解は、横須賀市のミュージアムでも起きている。日露戦争の日本海海戦での記念艦「三笠」のぞんざいな扱いや、最後の海軍大将、井上成美記念館の閉鎖とよく似た構図である。詳細は「横須賀のミュージアムに行こう!」に記している。

日本の将棋の歴史にはユニークな棋士が数多く存在した。将棋ミュージアムに行って、「不世出の棋士」「将棋界の巨星」などと呼ばれる逸材に会いたいと思う。

以下、歴代名人、永世名人、実力制名人、贈名人、名誉名人をピックアップしてみた。

歴代名人

氏 名          襲位、贈位した年

一世 大橋宗桂(初代)  1612(慶長17)年

二世 大橋宗古(二代)  1634(寛永11)年

三世 伊藤宗看(初代)  1654(承応3)年

四世 大橋宗桂(五代)  1691(元禄4)年

五世 伊藤宗印(二代)  1713(正徳3)年

六世 大橋宗与(三代)  1723(享保8)年

七世 伊藤宗看(三代)  1728(享保13)年

八世 大橋宗桂(九代)  1789(寛政元)年

九世 大橋宗英(六代)  1799(寛政11)年

十世 伊藤宗看(六代)  1825(文政8)年

十一世 伊藤宗印(八代) 1879(明治12)年

十二世 小野五平      1898(明治31)年

十三世 関根金次郎     1921(大正10)年

実力制による永世名人

十四世 木村義雄   1952(昭和27)年 引退表明後に襲位

十五世 大山康晴   1976(昭和51)年 現役のまま襲位

十六世 中原 誠   2007(平成19)年 現役のまま襲位

十七世 谷川浩司   2022(令和4)年  現役のまま襲位

十八世 森内俊之   引退後に襲位予定

十九世 羽生善治   引退後に襲位予定

称号「実力制名人」の追贈者

実力制第四代名人 升田幸三  1988(昭和63)年 襲位

実力制第二代名人 塚田正夫  1989(昭和64)年 追贈

*実力制名人に木村義雄も追贈されているが、永世名人には実力制名人の称号を冠さない。

贈名人     伊藤看寿  1760(宝暦10)年 没後に追贈

贈名人    阪田三𠮷  1955(昭和30)年 追贈

名誉名人   小管剣之助 1936(昭和11)年 贈位

名誉名人   土居市太郎 1954(昭和29)年 贈位

*名人位を通算5期以上保持した棋士に「永世名人」の資格を与え、引退後に「○世名人」という称号を襲位するようになった。1949年の日本将棋連盟の規約改定で決定。

*大山康晴、中原誠、谷川浩司は連覇、通算数の多さ、史上最年少での名人獲得など、将棋界への貢献、偉業が讃えられ、特例として現役のままの襲位が認められた。

*称号としての「実力制名人」は、名人戦制度発足から51年後の1988(昭和63)年、升田幸三の功績を讃えるため制定された。

*現役時には名人に在位しなかったが、功績が名人位に相当する者として、引退後や没後に名人を贈位(追贈)される称号に「贈名人」や「名誉名人」がある。

「将棋の歴史」は、日本将棋連盟のホームページに記載されている。

歴代名人、永世名人、実力制名人、贈名人、名誉名人で、記念館、資料館があるのは関根金次郎、木村義雄、阪田三𠮷、大山康晴の4人だけで、Webミュージアムで紹介されているのが中原誠と谷川浩司の2人。 

無敵を誇っていた木村義雄名人を破って名人位を獲得し、詰将棋でも優れた作品を残し、「塚田賞」という名前を冠した賞まである塚田正夫や、将棋史上初の三冠(名人・王将・九段)となり、既成の定跡にとらわれず新手を編み出した升田幸三など、昭和の将棋界を代表するスター棋士のエピソードや遺品にも触れてみたいものである。

通算優勝回数やタイトル獲得99期など、多くの歴代単独1位の記録を持つ羽生善治や、現在の将棋人気を牽引する藤井聡太なども紹介する「将棋ミュージアム」があれば、多くの人々が訪れるのではないか。

以下、全国にある将棋関連の記念館や資料館、Webミュージアムを紹介する。関西将棋会館にあった「将棋博物館」の資料や遺品を受け継いだ大阪商業大学のアミューズメント産業研究所展示室の将棋や遊戯に関する資料や遺品の写真をアップした「Webミュージアム」の開設を切に望みたい。

青森県

大山将棋記念館(王将館)

青森県上北郡おいらせ町下前田144-1
0178-52-1411
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始 
9:00~17:00 無料

おいらせ町(旧百石町ももいしまち)の名誉町民で、将棋界で大きな功績を残した大山康晴十五世名人に関する資料を収蔵する大山将棋記念館(王将館)は、古代インドや中国の将棋に関する文献なども展示している。

日本将棋連盟の青森県南支部を結成した旧百石町民の中戸俊洋なかと としひろは、アマチュア将棋ファンのための雑誌「将棋あおもり」を発行し、1978(昭和53)年には「将棋天国」と改題し、全国誌へと発展させた。「東北将棋強豪選抜大会」を開催して将棋の振興に力を注ぎ、その際、大山を審判長として招き交流が生まれた。

百石町小学校が1983年に小学校の将棋の全国大会で優勝するなど、将棋が市民に広がり、中戸は1986年、私費を投じてプロ棋士から初心者までが無料で利用できる「将棋道場」「合宿所」「大山名人の資料展示コーナー」を設けた「百石町将棋資料館」を開館。

大山名人の尽力もあって、全国将棋祭りを旧百石町で開催するなど、「将棋の町」として将棋を普及奨励している。大山は1989(平成元)年、おいらせ町(旧百石町)の名誉町民となった。

岡山県倉敷市出身で、1970年に倉敷市の名誉市民となっていた大山は、おいらせ町を「第2のふるさと」と呼び、何度も訪れ、1990(平成2)年、将棋界で初めて文化功労者に選ばれた。

資料館の建物の老朽化もあり、2005(平成17)年にリニュアルオープンし、大山将棋記念館(王将館)に改称。将棋の奥深さ、面白さを体感することができ、日本の将棋の歴史、世界の類似ゲームなども紹介する。

後に十五世名人となる大山康晴と、将棋界初の三冠(名人・王将・九段)の栄誉を手にした兄弟子の升田幸三が、名人への挑戦権をかけて闘った「高野山の決戦」を再現したシアターで、勝負の妙を垣間見ることができる。

大山将棋記念館には自由に対局できる交流の場があり、町内の小・中学生が対象にした将棋教室を開催。おいらせ町(旧百石町)は全国将棋祭りのメインイベントとして「子ども人間将棋」などを実施している。

宮城県

文化の港 シオーモ 棋士・中原誠 Webミュージアム

022-362-2556 塩竈市教育委員会文化スポーツ課
文化の港 シオーモ | 棋士・中原誠 (shiomo.jp)
「文化の港 シオーモ」は、宮城県塩竈市に関係する文化財、美術作品、文学作品を鑑賞できるWebミュージアム。「シオーモ」は、宮沢賢治が短編童話『ポラーノの広場』の中で、塩竈を指し示した造語。

賢治は塩竈が文化の高い街という印象を持っていたようで、「文化の港 シオーモ」は、塩竈の文化を集結し、発信する場となっている。

「文化の港 シオーモ」で塩竈市出身の棋士、中原誠のプロフィールや将棋盤、書、記念カップなどの写真を掲載している。中原は1968(昭和43)年、20歳で棋聖、1972年には大山康晴名人を破って史上最年少(当時)の24歳で名人になり、通算15期、名人位を獲得しており、十六世名人となった。

塩竈市の美術館、博物館、文学館、こども博物館などのWebミュージアムは、以下のURLで見ることができる。

山形県

天童市将棋資料館

山形県天童市本町1-1-1
023-653-1690
休館日 第3月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~18:00(入館17:30まで) 320円

http://ftp.bussan-tendo.gr.jp/museum/

将棋の駒の生産量日本一、日本製の木製将棋駒の90%以上を生産している天童市に、1992(平成4)年、天童市将棋資料館がオープンした。

将棋の駒には、歴史とロマン、伝統と技術が息づいており、将棋資料館では将棋のルーツ、日本の将棋の歴史、歴代タイトル戦、駒づくりの工程と伝統の技、天童が将棋駒の街になった理由などを展示、解説。

将棋のルーツは、古代インドで遊ばれていたチャトランガという「さいころ将棋」と言われる。日本に伝えられた時期は明確ではないが、平安時代の11世紀にはすでに伝来しており、その後、日本の将棋は独自の発展を遂げてきた。

将棋資料館では、将棋の原型であるチャトランガ、世界各国のチェスをはじめ、将棋と将棋駒に関する資料、駒工人(将棋駒職人)の作品、現代の名工の技が注ぎ込まれた将棋駒、過去の著名なタイトル戦の模様、タイトル戦の記念品なども見ることができる。

天童が将棋駒の街になったきっかけは、江戸時代末期。将棋は庶民にも広まっており、天童藩の家老、吉田大八守隆だいはち もりたかが困窮した武士の生活を助けるため、将棋の駒づくりを内職として奨励したことに始まる。

天童藩江戸家老の家に生まれた吉田大八は15歳で家督を継ぎ、大目付、武具奉行などの要職を経て、1867(慶応3)年に中老に昇格。要職を歴任しながら、朱子学者で海外事情にも精通していた安積艮斎あさか ごんさいなどに学び、藩の改革を図った。2万3000石余の小藩だった天童藩の財政は逼迫し、藩士の救済が急務であった。

大八は救済策の1つとして、藩士が将棋駒を製作することを勧めた。武士が内職することに反対もあったが、「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」と主張し、天童が将棋駒の産地になる基礎を築いた。

1868年に戊辰戦争が始まると、天童藩主の織田信学のぶみちは、織田宗家という家格を評価されて、新政府から奥羽鎮撫使先導役に任じられた。藩主の信学は病弱で、世子の信敏は若年だったため、中老の吉田大八が先導役名代になった。

天童藩は、旧幕府軍の庄内藩と攻防の末、陣屋が攻撃を受けて炎上するなど、奥羽鎮撫軍は苦戦。その後、奥羽各藩で奥羽列藩同盟が結成された。奥州は新政府軍に対抗する軍事勢力としてまとまり、天童藩は奥羽鎮撫軍の先導役を辞退し、奥羽列藩同盟に加盟せざるを得なかった。

吉田大八は責任を取り、漆山村(山形市漆山)に蟄居したが、奥羽列藩同盟は大八の身柄引渡しを要求。大八は自ら米沢藩に捕らえられ、「将棋駒の生産を天童に残す」との思いを抱きながら、同年6月、切腹。享年37。

将棋駒の製造は明治以降も続けられ、天童の特産品になっていく。歴史ドキュメンタリー短編映画『大八伝 〜天童を救った男〜 』が2020年に制作され、公開されている。

将棋の駒には、盛上駒もりあげごま(蒔絵筆を使用して文字を漆で盛り上げる)、彫埋駒ほりうめごま(文字を彫った溝に数回に分けて漆を入れ、木地の高さまで埋め込んだもの)など、製造技法、木材の種類、文字の書体によって、品質や風格もさまざま。

縁起物である飾り駒は贈答品として用いられ、天童将棋駒は1996(平成8)年、国の伝統的工芸品の指定を受けている。

将棋資料館はJR天童駅の1階にあり、資料館に隣接する建物が天童将棋交流室(無料で対局できる)。天童では広場、歩道、橋、マンホールなどで、将棋の駒がモニュメントやデザインとして使われている。

千葉県

関根名人記念館

千葉県野田市東宝珠花237-1 いちいのホール5階
04-7125-1111 (PR推進室)
休館日 火曜日(祝日の場合は開館) 年末年始
9:00~17:00   無料

明治から昭和初期に活躍した棋士の関根金次郎は、下総国葛飾郡の東宝珠花ひがしほうしゅばな村(現在の千葉県野田市東宝珠花)で生まれた。十三世名人となり、日本将棋連盟の前身の創設や実力名人制の導入を進め、「近代将棋の父」と呼ばれている。

出身地の野田市の複合施設「いちいのホール」に2004(平成16)年、関根名人記念館が開館した。建物の名称は旧関宿町せきやどまちの木であった「イチイ」に由来する。いちいのホールは旧関宿町役場庁舎を改装し、旧関宿町になかった図書館や舞台施設を備え、住民から待ち望まれていた関根名人の資料館を新設。

幼い頃から将棋好きだった関根金次郎は将棋ばかり指していたため、寺子屋を止めさせられたり、奉公先を転々とするが、将棋の家元の1つ、伊藤家の伊藤宗印(当時は八段で、後に十一世名人を襲位)の門下になり、将棋修行の旅に出る。

伊藤宗印が1893(明治26)年に亡くなり、伊藤家は断絶。すでに大橋分家は断絶していて、大橋本家の大橋宗金は棋力が低かったため、名人位は空位となった。

伊藤宗印が呼び掛けた将棋団体に参加していた棋士の小野五平は自ら将棋団体を立ち上げ、福沢諭吉、森有礼、服部金太郎(服部時計店、現在のセイコーグループ創業者)ら有力者を後援者に持ち、宗印との対局でも勝利する。

宗印が死去して5年間、名人位は空位となっていたが、小野五平が1898(明治31)年に十二世名人を襲位。

伊藤宗印門下の関根金次郎は小野の名人襲位に異議を唱えたが、67歳と高齢であった小野の死後、名人を継げばいいと、周囲からの説得で異議を取り下げた。しかし、小野は長寿で89歳まで生き、終身名人制であったため、関根は全盛期に名人を襲位することができなかった。

1921(大正10)年、53歳で十三世名人になった関根は、東京の将棋団体の統一に尽力し、「東京将棋連盟」(関根が名誉会長、土居市太郎が会長)が1924年に結成された。東京将棋連盟は日本将棋連盟の前身で、2024年は日本将棋連盟創立100周年に当たる。

関根名人記念館には、関根金次郎ゆかりの品である将棋の駒、将棋盤、遺品、将棋に関する文献や資料を展示。関根は1937年、世襲を排して、実力制名人をスタートさせており、「誰もが平等に将棋に親しめる環境を創る」という関根の信念を体現し、対局室を設置。将棋の女流名人戦が年に1回、いちいのホールの対局室で行われている。

大阪府

阪田三𠮷記念室 舳松人権歴史館内

大阪府堺市堺区協和町2-61-1 堺市立人権ふれあいセンター
072-245-2536
休館日 月曜日(祝日の場合は開館) 年末年始
9:30~18:30  無料

舳松へのまつ出身の将棋の名人(関西名人と称される)、阪田三𠮷の業績を顕彰するため設置し、阪田ゆかりの盤、駒、駒台、駒袋などの品々、記録写真を展示し、映像の『さんきい物語』などで人物を紹介。「さんきい」は三吉の呼び名だった。

阪田三𠮷は1870(明治3)年に大阪府大鳥郡舳松村(現・堺市堺区協和町)で生まれ、師匠にはつかず実戦で将棋の腕を磨き、ライバルの関根金次郎との名勝負は有名。没後の1955(昭和30)年に、日本将棋連盟から名人位、王将位が追贈された。

「阪田好みの駒」が展示されており、これは1917(大正6)年に大阪朝日新聞社主催の将棋大会の優勝者への賞品として将棋盤とともに提供されたもの。優勝者は大阪電光(マッチの製造会社)社長の加納楢太郎という人物で、阪田の後援者のひとり。駒の篆書体てんしょたいの文字は書家の中村眉山びざんの筆によるもので、眉山は阪田名人が発行した免状の代筆を多く手がけた。

駒の素材はツゲで、ツゲのなかでも高級駒材の「島ツゲ」で作られ、駒形は角張らず、全体に丸味を帯ている。駒袋には「王将」の刺繍文字があり、駒箱は黒檀製で「阪田好」と銘が刻まれている。

阪田三𠮷の生き様は、北條修司原作の舞台劇「王将」や阪東妻三郎主演の映画「王将」などで描かれ、人気を誇った。歌謡曲「王将」は作詞・西條八十、作曲・船村徹で、村田英雄が歌い150万枚を超えるヒットとなった。

現在、協和町と呼ばれている地域は、江戸時代は塩穴しおあな村と呼ばれ、明治になると舳松村字塩穴となり、1925(大正14)年に堺市と合併。

舳松人権歴史館は同和問題の啓発と学習を目的として、部落差別に関する歴史や実態を写真、実物資料、再現模型などで紹介するミュージアム。同和問題や人権関係の資料や小説などを取り揃えている。

大阪商業大学商業史博物館 アミューズメント産業研究所展示室

大阪府東大阪市御厨栄町4-1-10
06-6785-6139  大阪商業大学 商業史博物館
休館日 日曜日 祝日 創立記念日(2月15日) 年末年始 大学の休暇中 その他研究所が定めた日(休所日は予め掲示)
10:00~16:30   無料

商業史博物館は1983(昭和58)年に設置された商業史資料室・郷土史料室の施設と収集資料をベースに、1999(平成11)年に博物館相当施設の指定を受けている。

商業史博物館では、江戸時代に「天下の台所」として栄えた商都・大坂の歴史を当時の商業関連の備品や道具、古文書などを展示、解説する「商業史資料室」、河内の稲作と河内木綿をテーマに展示する「郷土史料室」がある。

アミューズメント産業研究所は大学として、日本初の余暇産業を研究する専門的研究機関で、展示室は2001(平成13)年に設置され、将棋、囲碁、麻雀、双六、国内外の民族玩具、ゲーム、ギャンブル、宝くじなどの遊び関連の資料を中心に展示。将棋関連の資料は、関西将棋会館にあった「将棋博物館」の所蔵品の一部を受け継いでいる。

関西将棋会館(大阪市福島区)は、将棋界で初めての「将棋博物館」を1982(昭和57)年に会館新設時に開館。江戸時代の将棋の家元、大橋本家に伝わる「大橋コレクション」や、十四世名人の木村義雄が私財で蒐集した「木村コレクション」、将棋関連の書籍、資料などを4階で展示し、会館5階には江戸城本丸の御黒書院を復元し、御城将棋おしろしょうぎの雰囲気を漂わせていた。

だが、将棋博物館は2006(平成18)年に閉館。同博物館の収蔵品は大阪商業大学アミューズメント産業研究所に移管されることになったが、大橋コレクションの資料、文書類は大橋宗家の子孫に返還された。

大阪商業大学商業史博物館のWebミュージアム「バーチャルミュージアム」では、日本商業史、近世大阪の商業資料の公開、博物館情報を提供はしているが、将棋などの遊技関連の写真などを見ることはできない。

兵庫県

ネットミュージアム兵庫文学館 兵庫ゆかりの作家 Webミュージアム

棋士 谷川浩司 兵庫県神戸市出身https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a428/
「ネットミュージアム兵庫文学館はWeb上の文学館で、兵庫を舞台とする文学作品や、兵庫ゆかりの作家の作品や来歴などを紹介している。

神戸市生まれ、神戸市在住の棋士、谷川浩司は1983年、21歳2ヶ月で名人位を獲得。藤井聡太に更新されるまで、40年間、最年少名人獲得の記録保持者だった。中学2年生で四段に昇段してプロデビューしたが、加藤一二三ひふみ以来、史上2人目の「中学生棋士」となった。

1997(平成9)年、35歳で通算5期目の名人位獲得によって「十七世名人」として永世名人の資格を獲得し、2022(令和4)年に現役のまま襲位した。将棋界の発展、棋士の親睦、将棋文化の普及を目的とする日本将棋連盟棋士会の初代会長となり、続いて日本将棋連盟会長に就任。

1989年、著書『ちょっと早いけど僕の自叙伝です』を27歳で著し、神戸市、兵庫県への思い入れにも触れている。「神戸文化栄誉賞」「兵庫県文化賞」などを受賞。熱心な阪神タイガースファンでもある。

スピード感あふれる棋風で、意表を突き敵の玉を寄せることから「光速の寄せ」「光速流」と呼ばれ、著書に『光速の寄せ』『復活』『構想力』『谷川浩司全集』などがある。

「ネットミュージアム兵庫文学館 兵庫ゆかりの作家」を検索する場合は、以下のURLで。

岡山県

倉敷市大山名人記念館

岡山県倉敷市中央1-18-1 倉敷市芸文館1階
086-434-0003
休館日 水曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:15  無料

大山名人記念館は、名人獲得期数は18期で歴代1位など、将棋界で前人未到の記録を次々に生み出した倉敷出身の棋士、大山康晴十五世名人の功績を偲ぶ関係資料を展示。1993(平成5)年に開館した多目的ホールの「倉敷市芸文館」の一角にある。

倉敷市芸文館は演劇ホールとしての機能を備え持つ市内随一の施設で、倉敷美観地区の南側に位置し、白壁の町らしいデザインを取り入れた黒と白の外観が印象的。

1923(大正12)年に現・倉敷市西阿知町で生まれた大山康晴は、将棋界にあった五大タイトル(名人、十段、王将、王位、棋聖)を独占し、通算1433勝(歴代2位)などの大記録を樹立した。通算勝利歴代1位は羽生善治の1570勝(2024年10月現在)。

十五世名人、永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将という5つの永世称号を保持し、日本将棋連盟の会長を長く務め、将棋の普及に尽力。倉敷市の名誉市民、青森県上北郡おいらせ町の名誉町民で、1990(平成2)年、将棋界初の「文化功労者」に選ばれた。

大山は、日本将棋連盟の関西本部の立ち上げた木見金治郎の門下。兄弟子で、既成の定跡にとらわれず「新手一生」を座右の銘とした升田幸三と熱戦を繰り広げた。

日本将棋連盟は「大山康晴賞」「升田幸三賞」を制定。大山康晴賞は将棋の普及や文化の振興のため貢献した個人・団体に与える賞で、升田幸三賞は新手、妙手を指した棋士や、定跡の進歩に貢献した者に与えられる。

大山名人記念館には数多くの優勝カップ類、名人書の掛け軸、大山が使用していた盤・駒・駒袋、トレードマークだった眼鏡などが展示され、名人戦などのタイトル戦で使用されていた対局用品一式、将棋史に残る名勝負や日常の写真なども公開。

書籍資料コーナーでは将棋関連の書籍資料を閲覧でき、倉敷市芸文館の和室会議室は、将棋の女流タイトル戦である大山名人杯倉敷藤花戦の対局場としても使われている。

改修工事のため、2024年11月21日まで休館。

「将棋のまち高槻」

大阪府高槻市

大阪市福島区にある関西将棋会館が老朽化のため、日本将棋連盟は大阪府高槻市への移転を2021年に決定。将棋で文化振興を目指す高槻市が誘致を提案し、固定資産税の免除、ふるさと納税制度で会館建設費の寄付を募るなどの支援策を打ち出していた。

高槻市には、戦国キリシタン大名の高山右近らが城主を務めた高槻城跡があるが、江戸初期の大名、永井直清が山城国長岡藩主から移封いほうされて1649(慶安2)年、播磨国高槻藩の初代藩主になった。

直清は城下町の整備、治水を行い、能楽など伝統文化への造詣も深く、城下で将棋が嗜まれていた。高槻城の発掘調査で1989(平成元)年、武家屋敷があった三の丸跡から江戸時代の将棋の駒47枚が発掘されている。

古くから将棋が普及していたことも「将棋のまち高槻」の根拠で、高槻市出身や高槻在住の棋士も多く、関西の将棋文化の発信地を目指している。

将棋のタイトル戦の誘致も進め、2019(平成31)年から6年連続で王将戦の誘致に成功し、2023年には名人戦も行われた。

市立の小学校全41校の1年生に、2022年から高槻市産の木材で作った将棋の駒を配布。棋士が学校で出前授業を行うなど、幼少期から将棋に親しめる環境を整えている。

高槻市は、将棋を通じた文化振興と心豊かな地域社会の形成を目的とした全国初の条例「高槻市将棋のまち推進条例」を制定し、2024(令和6)年11月から施行。「将棋のまち高槻」の魅力とにぎわいを高める起爆剤としている。

「棋士のまち加古川」

兵庫県加古川市https://www.city.kakogawa.lg.jp/soshikikarasagasu/shiminbu/ippanzaidanhojinkakogawawerunesukyokai/31699.html
兵庫県加古川市は将棋が盛んな地域で、子どもから大人まで熱心な愛棋家あいきかがいて、さまざまなイベントが開かれている。

「棋士のまち加古川」を掲げ、将棋を取り入れた街づくりを推進し、人口約26万人の市に、加古川出身・加古川在住のプロ棋士が7名もいる。

日本将棋連盟の公式棋戦である「加古川青流戦」を2011(平成23)年に創設し、竜王戦、王将戦を誘致するなど、「棋士のまち加古川」を全国にアピール。加古川市では将棋文化に触れ合うため、小学校の授業に2021(令和3)年度から将棋を取り入れた。

加古川市ゆかりの7人の棋士は以下のURL参照。https://www.kakowell.jp/shogi.html

詰将棋博物館  Webミュージアム

将棋の家元、初代大橋宗桂は囲碁と将棋の専門家として、囲碁の本因坊算砂とともに織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。この大橋家(大橋本家)から大橋分家、伊藤家が誕生し、江戸時代、将棋家元三家が将棋界のリーダーだった。

将棋には、対戦相手と勝敗を争う「指し将棋」と、王手の連続で玉将を詰むパズル形式の「詰将棋」があり、詰将棋集は、将棋の家元から将軍に献上されていた。

現存する最古の詰将棋集は、徳川幕府誕生の前年、1602(慶長7)年に出版された初代大橋宗桂の『象戯作物』(象戯造物とも)である。

伊藤家初代の伊藤看寿(没後に名人位を贈られた)は1755(宝暦5)年、詰将棋の作品集『将棋図巧』(原書名は『象棋百番奇巧図式』)を幕府に献上したが、現在でも、兄の七世名人で、三代伊藤宗看が作成した『象戯図式』(『将棋無双』と呼ばれている)と並んで、最高峰の作品として知られている。

第二次大戦後、警察署に勤めながら将棋同好会を主宰した鶴田諸兄もろえは、1950(昭和25)年に詰将棋専門の月刊誌「詰将棋パラダイス」を発刊し、1962年には全日本詰将棋連盟(全詰連)を結成する。詰将棋の書籍を集大成した『古圖式総覧・全(古図式総覧)』を2002に刊行。

Webミュージアムの「詰将棋博物館」では詰将棋の歴史を解説し、詰将棋の図式、新作の作品集、詰将棋全国大会の情報などを紹介している。

詰将棋博物館のデータは、全日本詰将棋連盟の会長でもあり、詰将棋作家の門脇芳雄から、引用を許可されている。門脇芳雄は、伊藤宗看の『将棋無双』、伊藤看寿の『将棋図巧』の解説書『詰むや詰まざるや』を著すなど、詰将棋界の牽引し、全詰連のデータベース委員長として詰将棋データベースの作成に関わった。

「古典詰将棋の系譜」で、詰将棋の草創(江戸初期)、詰将棋の興隆(江戸前期)、黄金期の前夜(元禄-享保時代)、『将棋無双』と『将棋図巧』(享保―宝暦時代)、詰将棋黄金期の諸作品(享保―天明時代)、詰将棋衰退期(幕末-明治大正時代)、詰将棋の復活(昭和初期―現代)と、詰将棋の歴史を振り返ることができる。

*将棋のミュージアムを掲載していますが、漏れている将棋ミュージアムがあれば、ご連絡いただければ幸いです。
*記事を転載する場合は、以下のURLを記載してください。
将棋のミュージアムに行こう!
https://note.com/mzypzy189/n/n2c272b650ef4


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?