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囲碁のミュージアムに行こう!【全国11カ所】

囲碁の国際大会で日本人が19年ぶりに優勝


日本の囲碁界にとって、2024年は新しい時代を告げる年となった。世界のトップ棋士が参加する囲碁の国際大会で、日本の代表選手が優勝。韓国と中国の棋士が世界を席巻している中で、主要な国際大会を日本勢が制するのは、2005年の「LG杯(LG杯朝鮮日報棋王戦)」で張栩ちょう う 九段が優勝して以来の19年ぶりの快挙だ。

棋聖、天元、本因坊の三冠(2024年10月、名人位を獲得し四冠)の一力遼いちりき りょう九段が2024年9月、4年に1度開催される囲碁の国際大会、「応氏杯(応昌期おう しょうき杯世界プロ囲碁選手権戦)」で、中国の謝科しゃ か九段を破った。応氏杯はオリンピックの年に開催され、優勝賞金は40万ドル(約5700万円)。

囲碁の国際大会は日本が主導して普及したが、ここ30年ほど低迷が続いていた。1988年に世界各国・地域の代表選手による囲碁の世界一を決める「世界囲碁選手権・富士通杯」が創設されたが、これはプロ棋士による初めての国際大会だった。

第1回から5回までは日本勢が優勝していたが(武宮正樹、林海峰りん かいほう趙治勲ちょう ちくん、大竹英雄)、1997年の小林光一を最後に日本勢の優勝は途絶え、2011年に開催した第24回大会で終了してしまった。

現在では、ワールド碁チャンピオンシップ、LG杯などの世界戦があるが、日本勢、日本人の優勝は久しく、韓国、中国の後塵を拝してきた。かつては世界トップの実力だった日本勢だが、囲碁棋士を目指す子供が減り、低年齢の層が薄い。

国際的な大会に、日本のタイトル保持者が参加する機会が少なく、国際舞台での対局経験が少なさがレベルの低下を招き。韓国や中国との差が付いてしまった。

今回の一力遼の優勝は囲碁人気の回復のためにも朗報で、一力自身「決勝は自信を持って臨めた。世界一というのは自分だけでなく、日本全体の悲願だと感じていた。今までやってきたことが形になった」と感慨を述べている。

世界一を祝したパネルが日本棋院会館に掲げられている

『源氏物語』『枕草子』にも囲碁が登場

囲碁の歴史は、およそ4000年前、中国で始まったと言われる。囲碁は、紀元前2300年以前、古代中国の皇帝の尭帝ぎょうていが天文や易の研究のため囲碁を発明したとか、中国の皇帝が子どものしつけに用いるため囲碁を創案したという説がある。

紀元前479年に亡くなった孔子の言葉をまとめた『論語』に囲碁についての記述があり、春秋・戦国時代(紀元前770~前221年)、囲碁は戦略の立案や政治に役立ち、人生の機微を学べるゲームとして人気が高まった。

日本には5世紀頃に伝わったとされているが、はっきりしたことは分かっていない。奈良時代(710年~794年)に吉備真備きびの まきびが遣唐使として派遣され、囲碁を持ち帰った逸話があるが、636年に完成した『隋書・倭国伝』に、日本人(倭人)は囲碁を好むと記されており、日本への伝来は吉備真備以前であったことが明らか。

醍醐天皇は905(延喜5)年、紀貫之らに『古今和歌集』の編集を命じたが、囲碁に関する歌が登場していて、平安時代(794年~1185年)に貴族や僧侶の間で囲碁が好まれ、広まっていた。平安末期~鎌倉初期に描かれた「鳥獣人物戯画」にも囲碁の対局シーンが描写されている。

「鳥獣人物戯画」は京都の高山寺所蔵

和歌や書道に秀でていて、「三筆」の1人、醍醐天皇は囲碁も好きで、当時の一番の名手で、日本で初めて「碁聖」と呼ばれた寛蓮上人かんれんしょうにんと金の枕を賭けて対戦。嵯峨天皇が敗れ、部下に金の枕を取り戻させたという逸話も伝わっている。

藤原道長が栄華を極めた頃に書かれ、読み継がれている『枕草子』や『源氏物語』にも囲碁の描写が多い。1001年頃完成していたとされる『枕草子』には囲碁の対局への寸評が記され、囲碁ライターの先駆けとも言える。

1008年頃書かれた『源氏物語』では、桜の老木を賭けて姉妹が対局する場面が描かれており、宮廷や貴族社会で囲碁が人気で、武士の間でも広まっていた。

鎌倉・室町時代になると、各地の武士、豪農や商人にも浸透していく。安土・桃山時代、織田信長は1578(天正6)年、日蓮宗の僧侶、日海と出会い、囲碁の強さを見て「名人」と称えた。日海は寺にある「本因坊」という塔頭たっちゅうで生活していたので、後に本因坊算砂さんさと呼ばれるようになった。

豊臣秀吉は1588(天正16)年に、囲碁の強い者を全国から集めて競わせたが、優勝したのは本因坊算砂だった。囲碁も将棋も強かった算砂と大橋宗桂そうけい(大橋の姓は没後に使われた)は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3代に仕えている。

江戸幕府からお墨付きを得た囲碁と将棋

江戸幕府が誕生して10年ほど後の1612(慶長17)年頃、幕府は囲碁と将棋の達人であった本因坊算砂や大橋宗桂らに俸禄ほうろく(主君から与えられた扶持米などの給与)を支給し、囲碁と将棋は幕府公認の遊戯となる。

算砂と宗桂は囲碁も将棋も強かったが、やがて得意分野に特化し、算砂は囲碁に、宗桂は将棋を専門とし、算砂と宗桂の後継者はそれぞれ碁所ごどころ将棋所しょうぎどころ(将棋の家元が名乗っていた称号で、名人を世襲)を名乗った。

算砂は日本初の囲碁の書『本因坊碁経』を刊行。これは詰碁や手筋の問題を収録したものだ。

『本因坊碁経』は国立国会図書館のホームページで見ることができる。https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I027871103

囲碁は本因坊家、安井家(安井家一世は安井算哲)、井上家(井上家元祖は中村道碩どうせき)、林家(林家元祖は林利玄はやし りげん)の家元四家によって世襲された。本因坊家の外家がいけとして、水谷家(水谷琢元たくげん、水谷琢順、水谷琢廉、水谷順策)がある。

江戸城で囲碁の対局が行われた御城碁おしろごは、囲碁の家元四家の棋士によって1626(寛永3)年から始まった。8代将軍、徳川吉宗の頃、年に1度、11月17日に御城碁と御城将棋を行うことが制度化された。

御城碁は、家元四家の当主、跡目、七段以上の棋士が選ばれて対局したが、幕末の頃、本因坊秀策が1849(嘉永2)年から1961(文久元)年まで19連勝(19戦無敗)という記録を残しており、「本因坊秀策最強説」が誕生した。

1862年、江戸でコレラが大流行し、本因坊家でもコレラ患者が続出。秀策は周囲が止めるのも聞かず、患者の看病に当たったが、秀策は感染して34歳という若さで亡くなる。

江戸時代、「棋聖」と呼ばれていたのは四世本因坊道策(前聖)、十二世本因坊丈和(後聖)の2人であるが、秀策は2人に並び称される棋士だ。

将棋界では11月17日を「将棋の日」としたが、「囲碁の日」は語呂合わせから1月5日にしており、この日に全国各地で囲碁の「打ち初め式」が行われる。

江戸時代、囲碁と将棋は庶民にも広まり、女流棋士も誕生。庶民のたまり場であった床屋、風呂屋、遊郭にも碁盤と将棋盤が置かれ、1778(安永7)年に女流棋士の横関伊保が17歳で初段になり、その後、多くの女性棋士が有段者となっており、女性愛好者が増えていく。

昭和の後半、囲碁界を牽引した木谷門下


江戸幕府の支援を受けてきた囲碁界は、明治維新で基盤を失い、家元は拝領屋敷を返上し、家禄も返還することになった。本因坊家の十四世本因坊秀和は研究会を発足させ、多くの棋士が富裕者の邸宅に赴き、囲碁の指導をすることで糊口ここうしのいだ。

本因坊秀和の門下たちも囲碁団体を立ち上げ、欧米の文化や制度への傾倒が進む中、活動を続けた。

郵便報知新聞が1878年、囲碁の棋譜を掲載し、本因坊秀和の門下の村瀬秀甫(後の一八世本因坊秀甫)と中川亀三郎らが設立した囲碁研究会「方円社」が囲碁雑誌『囲棋新報』を1879年に発刊。家元が認定する段位制度ではなく、実力主義の級位制を取り入れ、囲碁の普及と近代化を図り、これを財界人も支援した。

明治初期、東京医学校(現・東大医学部)で、薬化学、数学などを教えたドイツの化学者、オスカー・コルシェルトは村瀬秀甫(本因坊秀甫)から囲碁を学び、囲碁の歴史と文化を紹介した『碁の理論と実践』を1881(明治14)年に出版し、初めて本格的に囲碁がヨーロッパに紹介した。

米国在住の日本人から囲碁を習ったアーサー・スミスが初の英文での囲碁入門書『The Game of Go』をニューヨークで1996(明治39)年に発行し、囲碁が海外でも知られるようになった。

大正期になっても、複数の囲碁団体が張り合っていたが、1923(大正12)年の関東大震災で各派は打撃を受け、碁界大合同の動きが進み、1924年に日本棋院を創立。大倉財閥の2代目、大倉喜七郎は囲碁界のために資金援助し、会館建設などに尽力した。

囲碁界は新聞社をスポンサーとしてファン層を広げ、トーナメント制、持ち時間制、コミ(込み)の導入などで近代化を図っていく。

コミとは、先手の黒が有利であるため、勝率を五分五分にするハンデキャップのことで、囲碁のルールの1つ。「コミ碁は碁に非ず」と批判する声もあったが、対等な立場で勝敗を決するため導入されるようになった。

昭和初期には木谷實きたに みのる呉清源ご せいげんが活躍し、画期的な戦法、新布石しんふせきを開発。これは、碁盤の隅よりも、辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な陣地を展開する戦法で、プロだけでなくアマチュアの間でも流行した。

二十一世本因坊秀哉しゅうさいは1937(昭和12)年、引退を表明し、本因坊家の権威と名跡を日本棋院に譲渡し、家元制から実力制の時代に移行。終身名人制での最後の名人、秀哉と七段であった木谷實との対局では、観戦記を川端康成が担当。この対戦を基に、川端文学の名作、長編小説『名人』を執筆している。

1939(昭和14)年から第1期本因坊戦が開催され、1941年に本因坊の座に就いたのは関山利一りいち(利仙と号した)。第2期本因坊戦で、関山は病を押して出場するが、体調が悪化し、棄権負けとなる。

木谷は木谷道場を主催し、全国から優秀な少年を集めて育成し、昭和30年代以降、弟子たちが昭和のタイトル戦をほぼ制覇するほどの勢いを誇った。

大竹英雄、加藤正夫、二十四世本因坊秀芳(石田芳夫)、武宮正樹、小林光一、二十五世本因坊治勲(趙治勲)、小林さとるらを育て上げ、木谷は日本棋院囲碁殿堂入りを果たしている。

囲碁棋士が目指す「七大タイトル」

実力制の本因坊戦を皮切りに、新たなタイトルが続々と開設され、現在、七大タイトルを争っている。囲碁の七大タイトルは優勝賞金順に「棋聖」「名人」「王座」「天元」「本因坊」「碁聖」「十段」となっており、棋聖が最高位。

囲碁の七大タイトルの開催時期

タイトル戦名  開催スタート時期
本因坊      1939年
王座       1953年
名人       1961年
十段       1961年
棋聖       1976年
天元       1976年
碁聖       1976年

タイトル戦の開催スタート時期は、新聞などで報道されている時期と異なるが、日本棋院のホームページの「沿革」に基づいて記載している。

江戸時代から続き、実力制に移行してからも最も長い歴史を持つ本因坊戦は2024年から優勝賞金が2800万円から850万円に減額されたため、序列も3位から5位に下がった。

本因坊戦を5連覇以上、あるいは通算10期以上獲得した棋士は、「永世称号」が贈られる。引退後または現役で60歳に達したときに「○世本因坊」を名乗る権利を得る。9連覇した棋士は年齢不問で、永世称号を名乗れる。

永世称号の有資格者は5人で、家元制最後の本因坊、本因坊秀哉(二十一世)の後を引き継ぎ、二十二世から命名される。

二十二世本因坊秀格  高川かく         9連覇 1952年~1960年
二十三世本因坊栄寿  坂田栄男  7連覇 1961年~1967年
二十四世本因坊秀芳  石田芳夫  5連覇 1971年~1975年
二十五世本因坊治勲  趙治勲   10連覇 1989年~1998年
二十六世本因坊文裕  井山裕太  11連覇 2012年~2022年

囲碁競技人口が減少し、雑誌も休刊に


2023年10月に発行された『レジャー白書2023』(日本生産性本部・編集発行)によると、2022年の囲碁競技人口は130万人で、2012年の400万人と比べて3分の1以下に減少。

将棋競技人口は2012年の850万人に対し、460万人と半分近くに落ち込んだが、囲碁競技人口の落込み幅は将棋より大きい。競技人口は将棋の3分の1以下の水準で、囲碁を楽しむ層が広がらないと、国際大会でもいい結果は残せない。

日本棋院発行の囲碁専門紙「週刊碁」は1977年に創刊され、棋戦情報、囲碁界の話題、上達するための講座などのコンテンツを提供してきたが、2023年9月4日号を最後に、46年の歴史に幕を閉じた。ピーク時の発行部数は約20万部に達したが、約2万部、10分の1に落ち込んでいた。

すでに日本棋院は、級位者(30級~1級)向けの総合囲碁雑誌「囲碁未来」を2022年3月号を最後に休刊している。1962年創刊の会員誌「碁」から「レッツ碁」にリニュアルし、1996年に現在の雑誌名に改称してきたが、約60年の歴史を閉じた。

囲碁界はここ数十年間、危機感を持ってきたが、地域ぐるみで囲碁を盛り立ててきた自治体も多い。その1つが沖縄県の宮古島市(旧・平良市ひららし)だ。

囲碁が盛んな地域として知られる宮古島では、囲碁大会「宮古本因坊戦」が1979(昭和54)年に始まって以来、46年間続いており、「宮古島市長杯サマー囲碁まつり」も開催されている。

宮古島出身の棋士には、昭和30~40年代に沖縄県のアマ碁界で活躍した下地玄忠、沖縄県内のアマ棋戦の全タイトルを取った池間博美(こすみ囲碁教室を主宰)、プロの女流本因坊(4期)、女流棋聖(5期)を獲得した知念かおりなどがいる。

沖縄県自体が囲碁が盛んで、琉球王国時代(1429年~1879年)に明国や清国と交易するうえで囲碁は欠かせないものだった。1609年の島津氏による琉球侵攻で、薩摩藩および江戸幕府の管轄下に置かれた以降も、囲碁は交流のツールであった。

江戸時代、江戸に派遣された琉球王国の一行に囲碁が強い者が随行していた。琉球王国の親雲上ぺーちん(琉球王国の士族の称号の1つ)の浜比賀はまひかは江戸で四世本因坊道策と1682(享保元)年に対局し、初の国際免状(三段)を与えられた。

その後、当時七段の屋良里之子やら さとのしが、後に五世本因坊となる道知と対局した記録が残っている。琉球王国では、囲碁は重要なたしなみであった。

囲碁普及に注力する自治体も増加


子供の能力開発や知力向上に役立ち、コミュニケーションの手段、ボケの予防にもなる囲碁を、地域振興に役立てようという自治体が増えている。囲碁の効用には、集中力が身に付く、創造力を育む、発想が豊かになる、などが挙げられる。

囲碁の効用


日本棋院のホームページにも、医学的実証、子どもの教育への影響が紹介されている。

地域ぐるみで囲碁の振興に取り組んでいる一例を紹介しよう。因島市(2006年に尾道市と合併して尾道市に)は1997(平成9)年、囲碁を因島市の「市技」と制定し、「囲碁のまちづくり推進協議会」を発足させた。

江戸時代、碁聖と謳われた天才棋士、本因坊秀策の生誕地が因島だったからで、2002(平成14)年から全国的にも珍しいプロ・アマが対戦する「本因坊秀策杯」を開催。

尾道市と因島市の合併後も、尾道市は囲碁を「市技」として引継ぎ、囲碁まつりを開催し、囲碁グッズを開発。「囲碁によるまちづくり」を進め、秀策生誕の地に、復元した秀策の生家を併設する「本因坊秀策囲碁記念館」を2008年に開館した。

秀策ゆかりの品や囲碁関連資料を展示し、碁聖・本因坊秀策生誕の地に相応しい「囲碁の殿堂」として囲碁文化を全国に発信するとともに、囲碁ファンの来館をプロモートしてきた。

囲碁にゆかりのある自治体が、2008年から「囲碁サミット」を実施している。第1回の参加自治体は秋田県大仙市、埼玉県北本市、神奈川県平塚市、山梨県北杜市、長野県大町市、京都府綾部市、広島県尾道市、宮崎県日向市の8市。

2023年度までに15回開催されているが、毎回参加しているのが平塚市、尾道市、日向市の3市だ。

これまで「囲碁サミット」参加したことがある都市は、北海道岩見沢市、秋田県大仙市、茨城県高萩市、埼玉県北本市、神奈川県平塚市、山梨県北杜市、長野県大町市、新潟県聖籠町、三重県熊野市、京都府綾部市、大阪府寝屋川市、岡山県倉敷市、広島県尾道市、島根県益田市、島根県太田市、香川県坂出市、香川県善通寺市、福岡県みやま市、福岡県柳川市、佐賀県鹿島市、佐賀県みやき町、宮崎県日向市の22市・町に及んでいる。

囲碁サミット開催都市

https://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/common/200146483.pdf

それぞれの自治体で、囲碁に親しむ囲碁人口の増加に取り組んできたが、囲碁愛好家の減少傾向を食い止められなかった。しかし、一力遼が国際大会の「応氏杯」で優勝したように、日本人、日本勢が世界大会で活躍し話題になれば、囲碁への関心が高まると期待される。

囲碁の総本山の日本棋院は、日本将棋連盟と同様、2024年に創設100周年を迎えた。これからの100年に向けて、囲碁が隆盛を極めるには、大胆な改革が必要ではないか。

囲碁は、将棋と違ってルールもほぼ世界共通の国際的なゲームだ。世界100カ国以上、4000万人以上の人々に親しまれており、プロ・アマ問わず国際棋戦が盛んに行われている。将棋と異なり、同じタイトルを男女が争うこともある。

世界的な広がりでは、将棋を遙かに超えている。国際舞台で丁々発止やり合うには、国際舞台の土俵に上がらなければいけない。

囲碁界でトップを走る中国や韓国では、プロの対局持ち時間はほぼ3時間まで、スピードが重要なポイントになっている。日本の棋聖戦と名人戦の持ち時間は8時間の2日制の対局だ。

持ち時間制がなかった時代から、ルールが変わり、時間の短縮化も実施されてきたが、見せるゲーム化、スポーツ化が進んでいる中で、スピーディな試合展開は避けて通れない。野球も試合時間を短くすることに知恵を絞っているが、他のスポーツや遊技と競わなくては、一部の愛好家の世界に埋没しかねない。

「コミ碁(先手・後手のハンディキャップを考慮した対局)は囲碁ではない」と言われた時代もあったし、「時間をかけて考え抜いた手でプロは対戦すべき」という考えもあるが、従来の伝統に囚われ過ぎると、井の中のかわずになるのではないか。

日本の囲碁文化を後世に伝えいくためにも、時代にマッチした改革、取組みが必要になってくる。国際大会での活躍が、国内での人気や認知度を高め、囲碁界を盛り上げることにつながるはずである。

歴代世襲制本因坊は21人


世襲制時代の歴代本因坊を以下に記す。十九世秀栄、二十世秀元は再就位。

世数     棋士
一世     本因坊算砂
二世     本因坊算悦
四世     本因坊道策
五世     本因坊道知
六世     本因坊知伯
七世     本因坊秀伯
八世     本因坊伯元
九世     本因坊察元
十世     本因坊烈元
十一世    本因坊元丈
十二世    本因坊丈和
十三世   本因坊丈策
十四世    本因坊秀和
十五世   本因坊秀悦
十六世   本因坊秀元
十七世   本因坊秀栄
十八世   本因坊秀甫
十九世   本因坊秀栄
二十世      本因坊秀元
二十一世  本因坊秀哉

下に記した4名は、跡目(次期家元)に指名されたものの、就位しなかった棋士。本因坊家で、正式な後継者とした場合、跡目相続の手続きが行われ、〇世跡目と称された。

四世跡目  本因坊道的 七段
四世跡目  本因坊策元 七段
十一世跡目 本因坊知策 五段
十四世跡目 本因坊秀策 七段

現在の七大タイトル保持者

棋聖    一力遼(27)   3連覇
王座    井山裕太(35)  3連覇
名人    一力遼(27)   ―
天元    一力遼(27)     ―
本因坊   一力遼(27)   2連覇
碁聖    井山裕太(35)  4連覇
十段    井山裕太(35)   ―
2024年名人戦手合終了時

囲碁殿堂は、日本棋院が創立80周年記念事業の一環として、2004年に発足した。有識者や棋士らで構成する囲碁殿堂表彰委員会が選考し、殿堂入りした人は囲碁殿堂資料館に顔のレリーフと功績を掲げ顕彰される。第1回は対象が江戸時代の人物に限定され、徳川家康、本因坊家の創始者、一世本因坊算砂などが選ばれた。

囲碁殿堂入りした人物

第1回(2004年)   徳川家康、一世本因坊算砂、四世本因坊道策、本因坊秀策(十四世跡目。十四世本因坊秀和の跡を継ぐことが決まっていたが、コレラに感染して34歳で亡くなった)
第2回(2005年)   十二世本因坊丈和
第3回(2006年)   大倉喜七郎、十四世本因坊秀和
第4回(2007年)   十八世本因坊秀甫
第5回(2008年)   十七世・十九世本因坊秀栄、二十一世本因坊秀哉
第6回(2009年)   瀬越憲作
第7回(2010年)   木谷実
第8回(2011年)   岩本薫
第9回(2012年)   安井算哲( 渋川春海 )、陳毅
第10回(2013年)  喜多文子
第11回(2014年)  橋本宇太郎
第12回(2015年)  呉清源
第13回(2016年)    寛蓮、井上幻庵因碩
第14回(2017年)   正岡子規
第15回(2018年)   正力松太郎
第16回(2019年)   坂田栄男、趙南哲
第17回(2020年)   藤沢秀行
第18回(2021年)   高川格
第19回(2022年)  川端康成
第20回(2023年)  中村道碩、牧野伸顕、加藤正夫

囲碁殿堂表彰
経歴(棋歴)と主な業績は以下のURLを参照。

囲碁殿堂表彰 | 棋院概要 | 囲碁の日本棋院

辞退者
呉清源は明治以降の人物を選考の対象とした最初の回に打診されるも「未だ修業中の身であるため」と辞退している。死後の2015年、遺族の許可を得て殿堂入りが決まった。

喜多文子は1921(大正10)年、女流棋士で初めて五段になり、大正時代の囲碁界の大合同や日本棋院の設立にも功績があり、多くの女流棋士を育てたことから「囲碁界の母」と呼ばれている。養母は、家元林家の分家の女流棋士で方円社に所属し四段であった林佐野さの

東京都

囲碁殿堂資料館

東京都千代田区五番町7-2 日本棋院地下1階
03-3288-8601
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
11:00~17:00(入館は16:30まで) 無料
囲碁殿堂資料館 | 棋院概要 | 囲碁の日本棋院

日本棋院は囲碁棋士を統括し、棋戦を運営している公益財団法人で、1924(大正13)年に創設された。350人強の棋士が所属しており、関西棋院所属を含めると、約500人のプロの棋士がいる。

江戸時代に幕府の庇護下にあった囲碁界は本因坊家、井上家、安井家、林家の家元四家が支配していたが、明治維新後、幕府の後ろ盾を失い、棋士たちは離合集散を繰り返す。新聞社が囲碁欄を掲載し始めると、囲碁団体は新聞社と提携して一門を維持していたが、1923(大正12)年の関東大震災で打撃を受け、大同団結の機運が高まり、翌年、日本棋院が誕生。

日本棋院80周年事業として2004年、「囲碁殿堂資料館」が東京の市ヶ谷駅近くにある日本棋院会館地下1階に開館し、囲碁関係の貴重な資料を展示している。

囲碁殿堂者を2004年から選んで顕彰し、顔のレリーフを作製し、棋譜、手紙、書籍、扇子など、ゆかりの品々を展示。第1回は徳川家康、一世本因坊算砂、四世本因坊道策、本因坊秀策(十四世跡目)が殿堂入りした。

徳川家康は諸大名、豪商、公家たちと碁を打ち、浅野長政、伊達政宗などが好敵手で、多くの「碁打ち衆」を庇護した。

資料館を一回りすると、囲碁の歴史、日本棋院の歩みが理解できる。『本因坊道策碁経』『本因坊定石作物』日本初の囲碁雑誌「囲碁新報」といった碁の書籍や雑誌、碁石、碁盤、免状、掛け軸、浮世絵、幕末の天皇、孝明天皇愛用と伝えられる菊花紋蒔絵碁盤、ガラスの碁盤など珍しい品々を公開。

家元四家の強豪によって打たれた江戸城での御城碁おしろごのジオラマがあり、本因坊など棋士たちが碁盤の裏に揮毫したサインが見えるよう、多くの碁盤が並んでいる。

囲碁を打っている「鳥獣人物戯画」の絵や、囲碁に関する映画や演劇などのポスターも収蔵。江戸時代、日本初の暦作りに挑戦した天文暦学者で、囲碁棋士の渋川春海(二世安井算哲)を描いた映画「天地明察」や、囲碁を題材にした漫画で演劇にもなった「ヒカルの碁」など、囲碁を扱ったエンターテイメントも多い。

神奈川県

木谷實・星のプラザ

平塚市見附町16-1 ひらしん平塚文化芸術ホール2階
0463-32-2235(平塚市文化・交流課 文化振興担当)
休館日 月曜日 年末年始
9:00~17:00  無料

「木谷實・星のプラザ」は2005(平成17)年に開設されたが、2018年の平塚市民センターの閉鎖に伴って中央公民館に移り、「ひらしん平塚文化芸術ホール」が2022(令和4)年に開館すると、同ホール2階に移転し、リニューアルオープン。

平塚市桃浜町に居を構え、若手棋士の育成に尽力した木谷實きたに みのる九段の人柄や功績、木谷一門の偉大な囲碁の功績を紹介することを目的に「木谷記念館」の建設を検討している。

木谷實・星のプラザの名称は公募によって決められた。プロが使う碁盤は縦横19本の線を持ち、交点(目)の数は361。碁盤の左上隅から数えて4番目、10番目、16番目の交点を星という。左から4番目、上から16番目の位置に石を置く場合、(4、16)と表記する。

9つの星の中で四隅の4つ、(4、4)、(4、16)、(16、4)、(16、16)を一般的に星と言い、碁盤の中心(10、10)は天元(てんげん)と呼ぶ。

昭和初期の囲碁界では、初手を、碁盤の隅の3線と4線の交点の小目こもく(こめとも)に打つのが良い打ち方であるとされていた。木谷實と呉清源は、初手を「星」に打つと、中央(天元)に向かって進出する勢いがあり、攻撃的な碁が打てることを発見。初手を「星」に打つ方法を「新布石」として発表し、これがプロだけでなく、アマチュアにも広がり、新戦法として定着している。

「星のプラザ」は、碁盤の星に注目した命名で、七夕まつりで有名な平塚では「星に願いを」込めて短冊に書くなど、星との関連が強い。

木谷は木谷道場を主催し、全国から優秀な少年を集めて育成し、昭和30年代以降、弟子たちが昭和のタイトルをほぼ独占するほどの成果を収めた。

大竹英雄、加藤正夫、二十四世本因坊秀芳(石田芳夫)、武宮正樹、小林光一、二十五世本因坊治勲(趙治勲)、小林さとるらを育て上げた。

木谷實・星のプラザは囲碁の世界を気軽に体感できるように、「木谷實の足跡・年譜」「木谷實と新布石」「木谷實と門下生」などのテーマで、木谷道場の模型、写真、資料を展示して木谷實の魅力を紹介している。

「将来の木谷記念館展示資料として囲碁文化振興に役立ててほしい」と、日本有数の囲碁コレクターで囲碁史研究家の水口藤雄氏が囲碁用品、絵画、陶磁、棋士揮毫扇子など約1万点のコレクションを平塚市に寄贈。その中には「玄宗と楊貴妃対局図」(中国製)や「亀型碁盤」(韓国製)、江戸時代後期の「木版」などが含まれている。

山梨県

北杜市囲碁美術館

山梨県北杜市長坂町長坂上条2575-19 北杜市役所長坂総合支所2階
0551-42-1405
休館日 日曜日 年末年始
9:00~17:00   無料
https://www.city.hokuto.yamanashi.jp/docs/22413.html

北杜市は、平成の大合併により北巨摩郡きたこまぐんに所属する8町村が合併して生まれた市で、全国で唯一の囲碁をテーマにした美術館が2006(平成18)年に開館。元・日本棋院職員で、月刊誌「囲碁未来」の編集にも携わった長森義則氏のコレクションが寄贈され、囲碁文化を後世に残そうと誕生した。囲碁美術研究家の長森氏は初代館長を務めた。

「暮らしの中の囲碁美術」をテーマとし、江戸、明治、大正、昭和、平成の囲碁に関する資料(浮世絵、陶磁器、書籍など)を公開。常設展示室、企画(特設)展示室の他に、気軽に囲碁の対局ができる「囲碁対局室」を併設。

図書コーナーでは、各レベル別の囲碁教本の他に、漫画『ヒカルの碁』を全巻取り揃えており、初心者や女性向けの囲碁教室も実施している。

江戸時代の囲碁の解説書『碁立指南大成』、囲碁番付表、囲碁をモチーフにした歌舞伎役者の錦絵、囲碁雑誌など囲碁に関する約1500点の資料を収蔵。囲碁図を多く描いた浮世絵師は江戸後期の歌川国貞(三代豊国)で、約30作品を残し、約25作品を制作したのが江戸時代末期の歌川国芳だ。

囲碁美術館の所蔵品を紹介する図録『囲碁文化万化鏡ばんかきょう』(1000円)を発行しており、副題は「江戸時代から現代までの主な囲碁美術と資料」。収蔵品をカラー写真で紹介、解説文は日本語と英語で表記されている。

美術館の入口にある「武田信玄と家臣高坂弾正対局石像」は桜御影石で、重さは1トン。囲碁美術館のシンボルとなっている。JR中央線長坂駅から徒歩2分の至便な場所にある。

静岡県

最福寺資料館「夢の実現堂」

静岡県伊豆市小下田1667
0558-99-0101
8:30~17:00  無料

伊豆半島の西側、伊豆市小下田こしもだにある最福寺は、近代碁の創始者として2006年に囲碁殿堂入りした十四世本因坊秀和が生まれた土屋家の菩提寺で、境内には「秀和誕生の地」の碑や資料館「夢の実現堂」がある。

観世音を本尊とする曹洞宗の古刹で、本堂の内陣天井には竜のしっくい画があり、春には、八重のしだれ桜「伊豆最福寺しだれ」が咲くことでも有名。

「秀和誕生の地」の碑は秀和生誕170周年を記念して1990年に建立され、二十三世本因坊坂田栄寿(坂田栄男)が揮毫した。碑の台座は碁盤の形になっており、石材は碁盤の木目に見えるような石を探して採用し、碁石も置かれている。

本因坊秀和は最福寺の隣りにある土屋家で1820(文政3)年に生まれ、父や当時の住職に囲碁を教わったと伝えられ、9歳のとき十二世本因坊丈和の門人となった。

秀和は、元丈(十一世本因坊)、家元安井家八世の安井知得仙知ちとく せんち、家元井上家十一世の井上幻庵因碩げんあん いんせきとともに、「囲碁四哲」と呼ばれている。

御城碁で19戦19勝無敗の記録を作り、跡目にしていた秀策(十四世跡目)がコレラに感染して死亡すると、秀和はひどく落胆したという。

明治維新後、家元制度が崩壊すると、秀和は東京・本所相生町の邸宅から退去し、借家住まいとなった。その直後、借家から出火して全焼し、倉庫で雨露をしのぐ生活に陥り、さらに家禄を奉還せざるを得なくなり、困窮の度が増した。

跡目だった秀策が亡くなった後、一門で強かったの村瀬秀甫(後に十八世本因坊秀甫となる)、次いで、中川亀三郎(秀和の師匠、十二世本因坊丈和の三男)であったが、秀和は13歳の長男、秀悦を跡目に指名した。

跡目の道を絶たれ、失望した村瀬秀甫は越後方面に遊歴に出て、1869(明治2)年に中川らと六人会を設立。秀和は1873年に亡くなり、長男の秀悦が十五世本因坊秀悦に就いた。

その後も、秀和の三男が十六世・二十世本因坊秀元、次男が十七・十九世本因坊秀栄になり、本因坊位は転々とし、家元の権威を失墜させた。

村瀬秀甫、中川亀三郎らは1879(明治12)年に囲碁団体の方円社を設立し、雑誌「囲棋新報」を発刊する。

本因坊家、方円社、さらに中川亀三郎門下の雁金準一かりがね じゅんいちらが設立した囲碁組織、裨聖会ひせいかいが誕生し、囲碁界は三派鼎立時代になるが、1923(大正12)年の関東大震災によって各派とも打撃を受け、大同団結して1924年に日本棋院が設立された。

最福寺境内にある私設資料館「夢の実現堂」には、秀和に関する資料のほか、町内の遺跡からの発掘品や幕末の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の書、小下田の隣りの土肥出身で、日本のカラー写真の草分け、長口宮吉おさぐち みやきちに関する資料も展示している。

新潟県

坂口安吾デジタルミュージアム

安吾 風の館(旧市長公舎)
新潟県新潟市中央区西大堀町5927-9
025-222-3062
休館日 火曜日(祝日の場合は翌開館日) 年末年始
10:00~16:00 無料

坂口安吾さかぐち あんごは昭和初期から第二次世界大戦後にかけて活躍した小説家で、無頼派、新戯作派しんげさくはと呼ばれた。文学における戯作の重要性を坂口は強調し、正統とされる文学に対し、洒落や滑稽を基調とした江戸時代の戯作(洒落本、滑稽本、人情本など)の精神を復活させようと考えで、太宰治、織田作之助なども無頼派と言われる。

坂口は純文学のほか、歴史小説、推理小説、文芸や風俗や古代史の評論、エッセイを手掛け、囲碁、将棋の観戦記も書いている。将棋や囲碁が好きで、特に囲碁は強く、京都滞在時には碁会所の席主として生活していたほど。

囲碁の呉清源と岩本薫(第3、4期本因坊薫和)との対局、将棋の木村義雄が塚田正夫に名人を奪われた名人戦、木村と升田幸三との対局、木村が塚田から名人位を奪回した名人戦などの観戦記は評価が高い。

「勝負の鬼」として十年間不敗だった木村義雄が塚田正夫に敗北したときの『散る日本』や1950年に第1期九段戦でトーナメントを勝ち抜いた大山康晴を主人公にした小説『九段』も著した。

坂口安吾は新潟市の中心部、中央区西大畑町に生まれ、父は憲政本党所属の衆議院議員。本籍である坂口家(現・新潟市秋葉区大安寺あきはくだいあんじ)は碁所の坂口仙得家の末裔と言われ、代々の旧家で富豪であったが、祖父の投機の失敗で明治以降に没落。とは言え、父は新潟新聞社(現・新潟日報社)社長なども務めた。

坂口安吾の生家の近くに1922(大正11)年に建てられた旧市長公舎に2009(平成21)年、「安吾 風の館」が開館した。遺族から寄贈された安吾の遺愛品や貴重な資料約8000点を収蔵し、さまざまなテーマで展示している。

2023年9月に「安吾 風の館」で開催された「安吾と囲碁」展の模様を「坂口安吾デジタルミュージアム」で見ることができる。

大阪府

大阪商業大学商業史博物館 アミューズメント産業研究所展示室

大阪府東大阪市御厨栄町4-1-10
06-6785-6139  大阪商業大学 商業史博物館
休館日 日曜日 祝日 創立記念日(2月15日) 年末年始 大学の休暇中 その他研究所が定めた日(休所日は予め掲示) 
10:00~16:30   無料

大阪商業大学の創業者、谷岡登は大阪市内で会計事務所を開いていたが、学校教育の重要性を痛感し、1928(昭和3)年、大阪城東商業学校を創立。大阪城東商業学校は、専門学校を統合しながら、大阪城東大学を開学し、大阪商業大学と校名を改称する。兵庫県の神戸芸術工科大学、愛知県の至学館大学(旧・中京女子大学)などを運営する谷岡学園の基礎を築いた。

谷岡登の孫に当たる谷岡一郎は、大阪商業大学学長で、ギャンブル学、社会調査方法論を研究する社会学者。『ツキの法則』『ギャンブルの社会学』『「社会調査」のウソ』『カジノが日本にできるとき』などの著書がある。

2006年に発足した囲碁史研究団体「囲碁史会」の初代会長で、日本棋院の「囲碁殿堂資料館」を、大阪商業大学のアミューズメント産業研究所が協力という形で共同運営している。

囲碁史研究団体「囲碁史会」の運営委員は、囲碁ライターで、囲碁史研究家の相場一宏あいば いっこうや、囲碁観戦記者(ペンネームは春秋子)で、囲碁史研究家の秋山賢司が携わっていた。

谷岡一郎は将棋界とも交流があり、日本将棋連盟の関西将棋会館の「将棋博物館」が2006年に閉鎖されたとき、所蔵品は大阪商業大学アミューズメント産業研究所に寄贈されている。

大阪商業大学の商業史博物館は1983(昭和58)年に設置された商業史資料室・郷土史料室をベースに、1999(平成11)年に博物館相当施設の指定を受けた。

商業史博物館の「商業史資料室」では、江戸時代に「天下の台所」として栄えた商都・大坂の歴史を当時の商業関連の備品や道具、古文書などを展示しながら紹介。「郷土史料室」では河内の稲作と河内木綿などについて解説。

大学として日本初の余暇産業を研究する専門的研究機関のアミューズメント産業研究所の展示室は2001(平成13)年に設置され、囲碁、将棋、麻雀、双六、国内外の民族玩具、ゲーム、ギャンブル、宝くじなどの遊び関連の資料を中心に展示。将棋関連の資料は、関西将棋会館にあった「将棋博物館」の所蔵品の一部を受け継いでいる。

関西将棋会館(大阪市福島区)は、将棋界で初めての「将棋博物館」を1982(昭和57)年、会館新設時に開館。江戸時代の将棋の家元、大橋本家に伝わる「大橋コレクション」や、十四世名人の木村義雄が私財で蒐集した「木村コレクション」、将棋関連の書籍、資料などを4階で展示し、会館5階には江戸城本丸の黒書院を復元し、御城将棋おしろしょうぎの雰囲気を漂わせていた。

だが、将棋博物館は2006年に閉館。同博物館の収蔵品は大阪商業大学アミューズメント産業研究所に移管されることになったが、大橋コレクションの資料、文書類は大橋宗家の子孫に返還された。

大阪商業大学商業史博物館のWebミュージアム「バーチャルミュージアム」では、日本商業史、近世大坂の商業資料の公開、博物館情報を提供しているが、将棋などの遊技関連の写真などを見ることはできない。

アミューズメント産業研究所の「過去の展示情報」の第5回「囲碁とその仲間たち展」、第17回「日本における囲碁の歴史と文化 ―本因坊算砂から本因坊文裕もんゆう(井山裕太)まで―」で囲碁が紹介されている。

岡山県

倉敷市まきび記念館

岡山県倉敷市真備町箭田3652-1
086-698-7612
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
10:00~16:00  無料

奈良時代の学者で、官僚の吉備真備きびのまきびは716(霊亀2)年、第9次遣唐使の留学生となり、翌年に入唐し、経書、史書、天文学、音楽、兵学などの諸学問を18年間学んだ。儒教の経典、天文暦書、音楽書など多くの書籍、日時計、楽器、弓矢などを携えて735年に帰国。

第12次遣唐使として752(天平勝宝4)年に再び唐に赴き、翌年帰国。その後、太宰府に赴任し、日本と対等の立場を求める新羅との関係が緊迫しており、筑前国(福岡県)に怡土城いとじょう(古代の山城で糸島市にあった)を築き、防備を固めた。

中央政界で権力を握っていた藤原仲麻呂が、孝謙太上天皇(太上天皇は譲位によって皇位を後継者に譲った天皇の尊号)と道鏡と対立し、乱を起して失脚すると(藤原仲麻呂の乱。764年)、吉備真備は奈良に戻り右大臣にまで昇進。

地方豪族出身者(下道しもつみち氏、岡山県西部の備中国びっちゅうのくにを支配)としては破格の出世で、学者から大臣にまでなった者は、近世以前では吉備真備と菅原道真の2人だけ。

第9次遣唐使の際、唐で学者、官僚として仕えており、書道や囲碁も嗜んでいた。吉備真備が囲碁を日本に伝えたとする説があるが、636年に完成した『隋書・倭国伝』に、「倭の人(日本人)は囲碁、双六すごろく、博打を好む」と記されており、吉備真備以前の6世紀前後に、囲碁は日本へ伝来していた。

倉敷市まきび記念館は、吉備真備の業績を紹介するため1988(昭和63)年に開館し、資料、写真、パネルなどを展示している。

中国の西安市(中国古代の諸王朝の都であった長安)に吉備真備の記念碑が建立されたのを記念して、中国風庭園「まきび公園」が1986(昭和61)年に倉敷市真備町に開園。その園内に「まきび記念館」が開館した。

まきび記念館には、遣唐使船の模型、吉備真備の肖像画、「吉備大臣入唐絵巻」などが展示され、「吉備大臣入唐絵巻」には囲碁の対局場面が描かれている。唐の囲碁の名人と吉備真備が対戦したという伝説もある。

吉備真備の菩提寺、吉備寺の近くに「まきび公園」は造られ、真備は当時としては長寿で、81歳で生涯を閉じた。

倉敷市、倉敷文化振興財団は「吉備真備杯くらしき囲碁大会」を開催しており、地元の囲碁愛好家が対局する市民大会で、プロ棋士が教える入門教室や指導碁も同時に実施する。

倉敷市の西隣りの岡山県小田郡矢掛町やかげちょうには「吉備真備公園」があり、巨大な吉備真備の像、囲碁盤、日時計、「吉備大臣入唐絵巻」が設置され、囲碁との関わりの深さを伝えている。

吉備真備公園

岡山県小田郡矢掛町東三成3872-2

広島県

本因坊秀策囲碁記念館

広島県尾道市因島外浦町121-1
0845-24-3715
休館日 火曜日 年末年始
10:00~17:00 310円

本因坊秀策しゅうさく(十四世跡目)は幕末に活躍した囲碁棋士で、江戸城での対局の御城碁で13年間、19連勝という大記録を打ち立てた。

秀策の出身地、尾道市因島外浦とのうらに、2008年に建てられた本因坊秀策囲碁記念館は秀策ゆかりの品々や、囲碁の歴史や文化に関する資料を展示し、碁聖と称された秀策の生き方や碁に対する心構えに触れられる。

秀策が生まれた桑原家は裕福な農家で、秀策が幼い頃、いたずらをした秀策を父が押し入れに入れたことがあった。秀策の泣き声が聞えなくなったので、母が心配して襖を開けると、薄暗い押し入れの中で無心に碁石を並べていたという。

母は囲碁を教えようと、4歳の頃から手解きをすると、みるみる上達し、7歳のときに、三原城主、浅野甲斐守忠敬ただひろと対局。棋力を認められた秀策は、竹原の宝泉寺住職の葆真ほしん和尚に師事し、9歳のとき浅野公の薦めで江戸へ赴き、本因坊家の十二世本因坊丈和の弟子になった。

11歳で初段の免許を得て、翌年帰国。浅野公より五人扶持を賜り、15歳で四段になり、名を秀策と改めた。18歳のとき、大坂で井上幻庵因碩げんあん いんせきと対局し、囲碁史上有名な「耳赤みみあかの一手」と呼ばれる妙手を秀策が打つ。

当時、八段だった幻庵因碩が優位に進めていたが、127手目の一手で幻庵因碩の耳が赤くなり、形勢が逆転し、秀策の勝利となった。

本因坊家は秀策を後継者にしようとするが、浅野家に籍があると頑なに固辞。本因坊家は浅野本家と三原城主の浅野忠敬に礼を尽くし、両方から了解を得て、秀策に再度後継者の話を持ちかけ承諾を得た。20歳で第十四世本因坊跡目になり、丈和の娘と結婚。21歳で御城碁に初出仕しゅっしし、このときから13年間、19連勝で負けることはなかった。

1862(文久2)年、江戸でコレラが大流行し、本因坊家でもコレラ患者が続出。秀策は患者の看病に当たったが、直前に母が亡くなり、肉や魚を食べていなかったことも重なり、コレラに感染した秀策は34歳という若さで亡くなった。

日本棋院は「囲碁の殿堂」制度を2004(平成16)年を新設したが、その第1回で、秀策は徳川家康、第1世本因坊算砂、第4世本因坊道策とともに「囲碁殿堂」に入った。

本因坊秀策囲碁記念館のホームページは充実していて、「本因坊秀策の生涯」を紹介している。

『碁聖 本因坊秀策』の小冊子(8ページ)には囲碁の歴史、秀策の歩み、ゆかりの品々の写真、対局の心構えの「囲碁十訣じっけつ」、囲碁の基本ルールなどが載っている。

https://honinbo.shusaku.in/_src/69399369/unesco-pamph.pdf?v=1725232540090

因島市は1997(平成9)年、囲碁を因島の「市技」として制定し、「囲碁のまちづくり推進協議会」を発足させた。

碁聖と謳われた天才棋士の本因坊秀策の生誕地が因島だったからで、2002(平成14)年には全国的にも珍しいプロ・アマが対戦する「本因坊秀策杯」を開催。2006年に尾道市と合併し、尾道市となったが、尾道市は「囲碁を市技とすること」を引継いだ。尾道市は棋聖、本因坊、名人、王座、天元、碁聖、十段の7大タイトルすべてを開催している。

「囲碁によるまちづくり」を進め、囲碁まつりを開催し、囲碁グッズを開発。「本因坊秀策囲碁記念館」には、弟弟子の石谷広策のために書いた「囲碁十訣」の書や、愛用の碁盤の裏に記した「慎始克終 視明無惑」(始めを慎み、終りに克つ、視ること明らかに、惑い無し)の銘、父母に送った手紙などが収蔵されている。

「囲碁十訣」は、唐代に活躍した王積薪おう せきしんの格言と伝えられ、秀策は座右銘とし、対局の心得としていた。

尾道市囲碁のまちづくり推進協議会はPR動画「囲碁のまち尾道」を作製。尾道を「寺のまち、海賊のまち、猫のまち、囲碁のまち」だと謳っている。

島根県

益田市立歴史文化交流館 れきしーな

島根県益田市本町6-8
0856-23-2635
休館日 火曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
9:00~17:00 情報発信エリアは無料 展示ルームの企画展は200円

島根県の西部、山口県萩市に接する益田市は、隣接する浜田市、大田市とともに「石見三田いわみさんだ」と呼ばれている。鎌倉、室町時代は益田氏が治めていたが、毛利氏の家臣となって萩に拠点を移し、江戸時代は浜田藩の支配下に置かれた。

中世の益田は日本遺産「中世日本の傑作 益田を味わう ー地方の時代に輝き再びー」に認定されており、益田市立歴史文化交流館「れきしーな」は益田氏、大内氏、毛利氏などと関わりが深い、歴史のある町を紹介する。

益田氏の七尾城跡や、益田氏の居館跡と考えられている三宅御土居跡みやけおどいあとから発掘された生活道具や、刀剣や陶磁器などを展示。

展示ルームでは企画展を実施。2024年6月~8月に開催された「益田のレジェンド ~郷土の偉人たち~」では益田が誇る3人の偉人を紹介。芥川賞候補にもなった『鳥羽家の子供』などの書いた作家の田畑修一郎、囲碁棋士の岩本薫和くんわ(第3、第4期本因坊で、本因坊薫和と号した)、芸能文化人の徳川夢声の足跡をたどり、年表、写真、日記帳、遺品、作品などを展示。

岩本薫和の本名は岩本薫。大正、昭和期の囲碁棋士で、1945年、広島に原爆が投下されたとき、広島市郊外の五日市で対局中だった。六番勝負で3勝3敗だったため、翌年の再戦で本因坊になり、薫和と号した。日本棋院理事長を務め、私財を投じてサンパウロ、アムステルダム、ニューヨーク、シアトルの囲碁会館設立に尽力。囲碁殿堂入りしている。

「れきしーな」は囲碁や昔の遊びを体験できるイベントを開催。益田市内をスムーズに周遊できるよう観光客に向けて情報発信し、日本遺産を中心とした益田市の歴史文化の案内や展示も行っている。

宮崎県

日向はまぐり碁石ができるまで Webミュージアム

宮崎県日向市 商工観光部 商工港湾課
宮崎県日向市本町10-5
0982-66-1025

囲碁を打つには碁石、囲碁盤、碁笥ごけ(ごすとも呼ぶ。碁器とも表記)が必要で、碁石は宮崎県日向市のはまぐり碁石(白石)が最上とされ、黒石は三重県熊野市の那智黒石が名品とされる。

4000年の歴史を持つ囲碁は最初、木や石が用いられたが、8世紀初めに編纂された『風土記』に、はまぐりの碁石が使われていたとの記述があり、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品や、天平文化(奈良時代)の美術工芸品を収蔵する正倉院には、聖武天皇愛用の象牙の碁石が収蔵されている。

平安末期の僧で、歌人の西行法師の歌集『山家集』さんかしゅうには、志摩国答志島とうしじま(三重県鳥羽市)の白石にまつわる歌が残されている。

明治時代になって庇護者を失った囲碁は廃れるが、新聞紙面に囲碁や将棋が掲載されるとファンは広がり、はまぐりの貝殻で碁石を製造するようになった。三重県桑名市で採ったはまぐりの貝殻を大阪で加工していたが、桑名で採り尽くし、日向のお倉ヶ浜で採れるはまぐり貝が注目された。

日向の貝殻を大阪で加工・製造していたが、地場で産業を興そうと、製造も日向で行うようになり、全国で9割以上のシェアを占めた。現在はメキシコ産の貝殻を使うことが多いが、100年を超える製造技術、伝統が日向に蓄積され、白石と黒石をセットで製造。

囲碁盤や将棋盤の盤材として、かやは古くから愛好家に最高級品として珍重されてきた。打ち味のよさ、木肌の美しさ、特有の香りなどが異なるためだ。日向の榧を使った日向榧碁盤は人気が高い。

囲碁にゆかりのある自治体や囲碁で町おこしをしている自治体が、2008年から「囲碁サミット」を開催しているが、毎回参加しているのが神奈川県の平塚市、広島県の尾道市、宮崎県の日向市の3市だけだ。

碁石や囲碁盤を製造してきた日向市は、囲碁と深い関わりを持ってきた。日向市のホームページの「日向はまぐり碁石ができるまで」には、はまぐり碁石とは何か、碁石の歴史と用語解説、熟練した技術を持つ伝統工芸士などの説明があり、「碁石の唄が聞こえる」「はまぐり碁石ができるまで」などのタイトルの動画をアップ。はまぐりの貝殻と碁石、碁石や碁盤の製造プロセスを映像で分かりやすく解説している。

黒木碁石店 Webミュージアム

宮崎県日向市大字平岩8491
0982-54-2531

碁石の製造で有名な日向市にある黒木碁石店は、1917(大正6)年に初代、黒木宗次郎が大阪の碁石職人に師事し、碁石作りを始めて事業を興した。はまぐりの貝殻をダイヤモンドドリルで丸くくり抜く「くり抜き工法」を開発し、生産性を飛躍的に向上させ、新技術を同業他社にも公開して、碁石業界の発展に尽力。

黒木碁石店は、白碁石、黒碁石、黒木碁石店の歴史、囲碁の歴史を写真を盛り込みながらホームページで紹介している。
第1章 白碁石編 奇跡のハマグリ碁石 ~日向産ハマグリ碁石~
第2章 白碁石編 シン・ハマグリ碁石 ~メキシコ産ハマグリ碁石~
第3章 黒碁石編 至高の“黒”碁石 ~三重県熊野市産 那智黒石~
第4章 黒木碁石店の歴史編 黒木碁石店の使命
第5章 囲碁の歴史編 偉人たちの人生の羅針盤

はまぐり碁石の製造工程、日本刀で囲碁盤の線を引く様子、碁笥(ごけ。碁石の容器)の内側を切り抜く職人芸の動画もアップしている。

沖縄県

★藤沢秀行記念館 閉館

沖縄県南城市知念久手堅304-1
098-949-7688  蒼SOU CAFE(そう かふぇ)
休館日 水曜日 年末年始
10:00~18:00  無料 現在、閉館
藤沢秀行は、初代実力制名人、王座、第1期天元、棋聖戦6連覇、史上最年長タイトル保持者(王座)などの実績を残した昭和を代表する囲碁棋士で、酒、ギャンブル、借金、女性関係など、破天荒な生活でも有名だった。

豪放磊落な棋風、物事にこだわらない性格で、自分の門下生以外の若手棋士の育成にも力を注いだ。囲碁の研究会『秀行塾』は来るもの拒まずで、誰でも受け入れた。

「最後の無頼派」とも言われ、藤沢の人柄を愛する者、政財界の支持者も多い。中国や韓国の若手棋士にも分け隔てなく教えたことから、中国や韓国でも人気がある。

2009年に83歳で亡くなったが、翌2010年、北京市中心部の囲碁雑誌「囲棋天地」社内に「藤沢秀行記念室」を開設され、藤沢が愛用した囲碁セット、揮毫した書などを展示。

書でも優れた才能を発揮し、書の展示会には多くの花や祝電が届いた。安芸の宮島、厳島神社の鎮座1400年に際し「磊磊」らいらいの文字を奉納している。

沖縄県南城市にある世界遺産、斎場御嶽せーふぁーうたきの近くに、藤沢秀行の書を展示するミュージアムとカフェが2013(平成25)年にオープン。藤沢と親交が深かったオーナーが開設したものだが、現在、閉館している。カフェのテラスからは目の前に神の島、久高島くだかじまが見えていた。

*囲碁関連のミュージアムを掲載していますが、漏れている囲碁ミュージアムがあれば、ご連絡いただければ幸いです。
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囲碁のミュージアムに行こう!
https://note.com/mzypzy189/n/n20d6c0a0bc60


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