書道ミュージアムに行こう!【全国50カ所】
全国の書道ミュージアムを紹介
全国の書道ミュージアムを5つのエリアに分けて紹介します。1人の書家を紹介するミュージアムのほかに、書跡(書道の優れた作品や禅宗の僧が書いた書などをいう)の収集に力を入れている美術館も含めています。
書への理解を深めるために、書体、書の書家の書家や書道団体の歴史、書道界の現状と問題点について、「書道の歴史、書道界の問題点を追う」というタイトルのレポートを別途アップしており、参考にしていただきたい。
各ミュージアムには所在地、電話番号、休館日、開館時間、料金(大人の個人での料金)、URL、特色を記載。地域ごとの書道ミュージアムの数は( )内に示しています。
※閉館・休館・準備中の書道ミュージアムには★印を付けました。
解説は「だ・である調」で執筆し、敬称を省略しています。
この記事の文章は長いので、目次を見て興味あるミュージアムをチェックしてほしい。各ミュージアムのホームページにジャンプすると、さまざまな情報が得られる。
北海道
小原道城書道美術館
北海道札幌市中央区北2条西2丁目41 札幌2.2ビル2階
011-261-7888
休館日 月曜日 年末年始 お盆休み
10:00~17:00(入館は16:30まで) 300円
札幌を拠点に創作活動を行う書家、小原道城は「本物の美術品に触れることの意味の大きさ」を実感し、高校教員だった30歳から書道資料の収集を始めた。学生時代に、東京国立博物館で中国の書と拓本展を鑑賞して大きな感動を受けたことがきっかけだった。
40歳で高校の教員を辞め、書家として生きる道を選び、書道教授をしながら、書道研究団体「国際書道協会」を起こし、月刊書道誌「書の研究」を発行するなど、書の振興に努めてきた。
小原道城は「書」と「水墨画」を結び付けた世界を描き、大胆で豪快な書と、繊細かつ色鮮やかな水墨画の2つの芸術を融合させた作品を創作。書画一如と呼び、「書も絵で、絵も書、芸術というのは垣根がないのが正しく、奥が深い」と伝えてきた。
筆、硯、墨、紙の文房四宝や明、清、現代の作品、拓本類などを収集しており、「書道文化を普及し、書と親しむ機会を増やしたい」と、2013(平成25)年に小原道城書道美術館を開館する。
中国の明、清、現代の書300点、中国の文房四宝150点、中国書道史を彩る拓本400点、日本の江戸、明治、大正、昭和、平成の書800点、日本の絵画、水墨画200点、小原道城の書と水墨画500点、書道の書籍と美術全集800冊などを所蔵。
北海道の開拓に携わった人々の書の展覧会、明治の書の大家の展覧会など、多彩な企画展を開催し、書道ファンを楽しませる美術館を目指している。
金田心象書道美術館
北海道天塩郡幌延町字幌延102-1
01632-5-2720
休館日 月曜日 祝日(5月3日〜5日は開館) 年末年始
10:00~16:00 300円
金田心象は北海道の北部にある幌延町が生んだ書家で、国定の書道手本の揮毫者であった鈴木翠軒に20歳で師事しながら、北海道札幌師範学校(現・北海道教育大学)で学んだ。
小学校、中学校、女子高等師範学校の習字科の教員を経て、文部省に入省。習字の教科書執筆や学習指導要領の編纂などに携わり、賞状や式辞などの揮毫を担当した。大東文化大学や東洋大学で書を教え、「心画院」を創立する。日本書道界の重鎮で、日本芸術院賞を受賞している。
金田心象書道美術館(心象館)は、ふるさと創生事業として1990(平成2)年に開館。金田心象の作品や軌跡を紹介する美術館で、心象の書作品約1700点、硯や筆や陶器類など約400点を収蔵。
大型の書作品は1階に、小型の書作品と愛用品を2階に展示し、年に1回、展示替えを行う。VTRコーナーで作品を観ることができ、喫茶コーナー「書カフェ」では、落ち着いた雰囲気の中、広々とした外の景色を眺め、ゆったりとした時間を過ごせる。
書の北溟記念室~中野北溟作品展示室
北海道苫前郡羽幌町南6条2丁目(中央公民館内)
0164-62-1178(中央公民館事務所)
休館日 第4日曜日(変更される場合あり) 年末年始
9:00~17:30 無料
北海道の日本海側の北部にある羽幌町の西25キロメートルに浮かぶ焼尻島出身の書家、中野北溟は、「近代詩文書の父」と呼ばれる金子鷗亭に師事し、書を究めた。
中学校の教員、校長などを歴任するが、定年前に退職し、書の道に専念。生まれ故郷の北海道を愛し、2023年に100歳になったが、近代詩文書を中心に書家活動を続けている。
書の北溟記念室は中野北溟の常設展示施設で、北海道を代表する詩人、河邨文一郎や原子修などの作品を揮毫して展示。出身地の焼尻島が海に囲まれていることから、海に関する書作品も多い。
詩人の河邨は整形外科医で、札幌医科大学教授でもあり、医師から作家に転向した渡辺淳一は教え子の1人。原子は札幌大学教授で、北海道の縄文文化への造詣が深く、『縄文の花』『縄文の夜明け』などの詩劇や叙事詩を創作している。
近代詩文書は、現代文や詩歌を題材に、漢字とかなの調和を図りながら、新しい書を表現したもので、中野北溟の書は詩人たちから高く評価されている。北溟が1967(昭和42)年に創設した書道団体の天彗社は、題材や字体を自由に書く「近代詩文書」に力を入れた指導をしており、2年に1度、札幌市内のギャラリーで展示会を開催している。
北海道立函館美術館
北海道函館市五稜郭町37-6
0138-56-6311
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
9:30~17:00(入館は16:30まで) 260円
道南エリアにおける唯一の総合美術館として1986(昭和61)年に開館し、北海道内で4番目に設立された道立美術館。「道南ゆかりの美術」「書と東洋美術」「文字と記号に関わる現代美術」の3つのテーマで、近代以降のすぐれた作品を収集・展示する。
正面広場には近代彫刻の巨匠、ブールデルの大きな女性像、館内のホールにはロダンやルノワールなどの近代彫刻や、日本の近現代彫刻作品があり、訪れる人を出迎える。
函館美術館は、北海道松前郡(松前町)出身で、日本を代表する書家の金子鷗亭の作品も充実している。松前町は北海道の最南端にあり、江戸時代は松前藩の城下町で、藩の政治、経済、文化の中心地として栄えた。
常設展(ミュージアム・コレクション)には、道南の美術および現代美術を展示する「常設展示室」と、金子鷗亭の作品やコレクションを紹介する「金子鷗亭記念室」があり、年に数回展示替えを行う。
金子鴎亭は上京して、書家の比田井天来に師事し、上田桑鳩が結成した書道芸術社に参加し、「新調和体」論を発表。近代詩を書にする近代詩文書運動を起こし、六朝・北魏(220年の後漢の滅亡から、589年の隋の統一までの分裂が続いた時代。書では王羲之などが活躍した)の楷書、木簡などを研究。
現代書の向上発展に功績があり、書家としては西川寧に続き、2人目となる文化勲章を受章し、文化功労者でもあった。
函館美術館は企画展、特別展を実施し、美術講座や体験教室などのセミナーやイベントの開催にも力を入れている。五稜郭タワーの近くにあり、五稜郭公園を散策し、美術館のホールで彫刻を眺め、カフェで寛くつろぐこともできる。
山形県
國井誠海記念館
山形県山形市清住町2-7-41
023-644-1738
休館日 月曜日~金曜日 年末年始
10:00~16:00 300円
「現代書のパイオニア」と称されてきた山形出身の現代書家、國井誠海の書業50周年を記念して、1987(昭和62)年に開設されたミュージアム。
戦後新たに誕生した現代書の開拓者である國井は現代書一筋に制作を続け、1946(昭和21)年、現代書を研究する誠墨会(現・誠心社)を創設して弟子の育成に務めた。
従来の書壇の在り方に対し、「本物の書とは」「書芸術とは」を模索する書家が集まり、1984(昭和59)年4月に第1回産経国際書展を開催し、同年9月に「産経国際書会」を設立した。
創設メンバーは、現代書の大家の小川瓦木と國井誠海をはじめ、伝統書の十鳥霊石、林錦洞、山田松鶴らで、「いいものはいいんだ」とするクリーンな審査と、書芸術を通じて国際友好を推進するという2大目標を掲げて、新たな書道団体をスタートさせた。
國井誠海は、現代書を広めるため1970年頃から、ニューヨーク、ロサンゼルス、パリ、東京など国内外で個展を毎年開催するようになった。さらに国内外の大学で講義を行い、1998年に若手現代書家の育成のため「公益信託 國井誠海書奨励基金」を設立している。
國井誠海記念館では、國井誠海の生涯に渡る作品と歴史を一挙に観ることができ、現代書への理解が深まる場を目指している。2009(平成21)年の誠海の没後も誠心社(東京本部)は継続し、日本の伝統文化であり、芸術としての書(現代書)の普及に努めている。
誠海の作品は、ニューヨーク近代美術館(MOMA)や東京国立近代美術館など、多数のミュージアムに収蔵されている。
耐雪書道美術館
山形県東田川郡庄内町払田48-13
0234-42-3211
休館日 月曜日
10:00~17:00(12~2月は10:00~16:30) 無料
書道家で、篆刻(篆書体などの文字を、石や木にはんことして刻む芸術)家の佐藤耐雪が私財を投じて設立したのが耐雪書道美術館で、1982(昭和57)年に開館した。全国の支持協力者に支えられ、入館料無料で運営している。
山形県の最上川流域に広がる庄内平野の中央部から月のふもとまで、細長い形で広がっている庄内町に美術館はある。耐雪の書や篆刻作品を中心に収蔵、展示し、2カ月ごとに展示替えをして書芸術の世界を伝えている。
篆刻は書道芸術の1つで、篆書という古い文字などを用いて、石などに刻んで紙などに捺した作品や篆刻の技法を鑑賞するもの。1913(大正12)年生まれの耐雪は、「昭和の代表的篆刻家」である山田正平に師事し、篆刻と水墨画を学んだ。
耐雪は日展の書と篆刻部門で入選し、日展篆刻十傑に入り、後進の育成・指導、日本文化の海外への紹介に力を注いだ。
墨彩画も描き、身の回りのさまざまなものを絵にしている。墨彩画は、水墨画に水彩絵の具で彩色したもので、墨特有の力強さに、水彩の美しさが加味されて、華やかな絵柄に仕上げるところに特色がある。
耐雪書道美術館では書、篆刻、墨彩画のほかに、庄内在住の芸術家たちの個展なども開催している。
福島県
金澤翔子美術館
福島県いわき市遠野町根岸横道71
050-8882-9622
休館日 月曜日~金曜日 年末年始
10:00~16:00(入館は15:30まで) 800円
女流書家の金澤翔子は乳幼児期に敗血症にかかり、後にダウン症と診断されるが、書家の母(金澤泰子)に師事して1990(平成2)年、5歳で書道を始めた。
母の泰子は、大きな紙に般若心経を書かせることを思い立ち、翔子は276文字の般若心経を完成させた。厳しい指導で涙を流しながら書き続けたため、この作品は「涙の般若心経」と呼ばれている。
翔子が14歳のときに急逝した父が、生前「翔子が20歳になったら個展を開こう」と語っていたことから、20歳になった2005(平成17)年に銀座書廊で「翔子 書の世界」と題した個展を開催。
母は「生涯に一度だけ、翔子の個展を盛大に開いてあげよう。結婚はできないかもしれないから、結婚式と披露宴のつもりで、思い切って夫が残したお金を使って最高の展覧会とパーティーをやろう」と決意。豪華な図録を作り、帝国ホテルで記念レセプションを開催すると、この個展が話題になり、書家として注目されるようになった。
その後、東大寺、薬師寺、中尊寺、延暦寺、熊野大社、厳島神社、大宰府天満宮、伊勢神宮、春日大社、ニューヨーク、チェコ、シンガポール、ドバイなどで個展を開催。ダウン症という天与の宇宙を持って書の道を歩んでおり、「天性の明るさ」、「場を生み出す技術」が観る者の心を惹き付ける。
東日本大震災からの復興を願い、いわき市遠野町に金澤翔子美術館が2012(平成24)年に開設された。金澤翔子の初めての常設館で、代表的作品「共に生きる」を含め、被災地などで揮毫してきた、温かさと躍動感に溢れる約190点の作品を収蔵し、約50作品を常設展示する。
企画展示室(別館ギャラリー)では、季節ごとにテーマを持った展示を行い、金澤翔子の世界を紹介。翔子は日本福祉大学客員准教授も務めている。
東京都
台東区立書道博物館
東京都台東区根岸2-10-4
03-3872-2645
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 年末年始
9:30~16:30(入館は16:00まで) 500円
洋画家で、書家でもあった中村不折が40年余り、独力で蒐集した中国および日本の書道史研究上重要な約1万6000点のコレクションを有する書道専門の博物館。1936(昭和11)年、台東区根岸の旧宅跡に開館した書道博物館がルーツだ。
中村不折は、明治維新の混乱を避け、幼児の頃、父の故郷の長野県高遠に移り住み、漢籍、南画、書を学び、小学校の図画、数学の教師になった。上京して洋画を学び、日本新聞社、朝日新聞社に入社し、美術学校の校長にも就任している。
夏目漱石や森鴎外の作品の挿絵を描くなど、文人とも親交があり、中でも正岡子規とは日清戦争の従軍記者として共に中国へ赴くなど、仲が良かった。
このとき中国、朝鮮半島を巡遊し、考古資料への関心を深める。画業、新聞の挿画、書の収集や研究に精力的に取り組む。フランスに留学して洋画家として頭角を現したが、書に傾倒していく。
1908(明治41)年、多忙のため神経衰弱に陥り、温泉での療養中に、中国北宋の政治家で文人の蘇軾(蘇東坡とも呼ばれる)の弟の蘇轍(蘇軾とともに唐宋八大家と称される)が龍眠山の20の情景を詠んだ五言絶句の詩をリハビリの一環として書いていた。
この書を、正岡子規の高弟で俳人の河東碧梧桐に見せると、出版を勧められ、『龍眠帖』を世に出した。これが、当時の書道界に一大センセーションを巻き起こす。
不折の書は、デザイン性の高さと親しみやすいことから、店名や商品名のロゴに用いられることが多い。「新宿中村屋」の看板文字、清酒「真澄」や「日本盛」、「真澄」の醸造元をルーツとする「神州一味噌」のラベル、書道用品を取扱う東京・九段南の「筆匠平安堂」などに、不折の書が使われている。
不折のコレクションは、重要文化財12点、重要美術品5点をはじめ、東洋美術史上貴重なもの。重要美術品とは、文化財保護法の施行以前に、「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき、日本国外への古美術品の流出防止を目的として認定した有形文化財を指している。
殷時代の甲骨に始まり、青銅器、玉器、鏡鑑(金属製の鏡作製時に彫られる鳥獣神仙や花鳥・植物などの模様)、瓦当(軒丸瓦の先端の円形、半円形の部分)、塼(粘土を型に入れて成形し,焼成した煉瓦のこと)、陶瓶(陶器製のびん)、封泥(重要物品を入れた容器や文書を記した木簡・竹簡の束を閉じるときに用いる粘土の塊のこと)|などを収集。
璽印(中国では秦以降の天子が用いた印章、日本では天皇が用いる印章)、石経(せっきょうとも。古代中国で石碑や断崖に刻まれた儒教、仏教、道教の経典)、墓券(墓地のための土地売買の契約を記した文書)、仏像、碑碣(碑は方形のもの、碣は円柱形のものを指し、石碑のこと)、墓誌、文房具、碑版法帖(碑など金石文の書蹟から採った拓本のうち、書道のために保存・鑑賞するために仕立てられた書蹟)などを所蔵している。
書では、空海、最澄、菅原道真、紀貫之、武田信玄、織田信長、伊達政宗、伊藤若冲、小堀遠州、本阿弥光悦、徳川光圀、頼山陽、さらに同時代を生きた森鴎外、正岡子規、徳富蘇峰などの作品を収集している。
書道博物館は、中村家が維持・保存してきたが、1995(平成7)年に台東区に寄贈され、2000(平成12)年に再オープンした。既存の建物である本館と、寄贈後新たに建設した中村不折記念館からなり、不折の書は、中村不折記念室で観ることができる。
日本書道美術館
東京都板橋区常盤台1-3-1
03-3965-2611
休館日 月曜日 火曜日 年末年始
9:00~17:00 1000円
日本教育書道連盟は、1951(昭和26)年に開催された「文部省教員免許法認定講習会」(東京家政大学、日本女子大学の共催)の参加者を中心に結成され、「正しい書道教育のあり方」と「芸術書道の向上」を目指して活動を展開している。事業の筆頭に掲げていたのが日本書道美術館の創設で、全国書道検定試験の実施や展覧会の開催を行ってきた。
1973(昭和48)年に書道を専門とする美術館、日本書道美術館を開館。書芸術の地位向上のために美術館を創ることが肝要であると、詩人、歌人、書家、国文学者の尾上柴舟と、天台宗の僧侶で書家の豊道春海が唱え、両人の遺志を継ぎ、書道美術館建設運動が展開されてオープンに至った。
日本教育書道連盟は発足当初、日本芸術院会員の尾上柴舟と豊道春海を顧問とし、尾上柴舟に師事した書家の小山天舟が理事長に就任していた(後に日本書道美術館館長も兼任)。
日本書道美術館は、古筆、近代の書道名家の作品、現代の書道代表作家の作品など約5000点を収蔵。主な書跡は、世尊寺家第5世で能書家の藤原定信、本阿弥光悦、池大雅、良寛、平田篤胤、勝海舟、山岡鉄舟、樋口一葉、福沢諭吉、伊藤博文、犬養木堂(毅)、坪内逍遥など。
設定されたテーマごとに作品や品々を選び、古今の名蹟の作品だけでなく、他の芸術分野(絵画、人形、漆芸、陶芸など)との調和のとれた展示を目指しており、新春、春季、秋季の年3回、特別展を開催している。
★春敬記念書道文庫 準備中
東京都千代田区神田小川町3-2 書芸文化院
TEL:03-5281-0717
書家で、古筆研究家の飯島春敬は、手島右卿らと共に1945(昭和20)年12月、終戦後の混乱の最中、日本書道美術院を創設し、翌年、東京都美術館で戦後初めての書道展を開催し、書道界隆盛の基礎を築いた。
古典書道の学問的研究を目的として1949(昭和24)年に、「書芸文化院」を設立。戦後の混乱期、古美術類が粗末に扱われている中、伝来の美術品の真価を見直し、文化財保護の精神を喚起する運動として、同年11月に「平安時代名筆展」を開催し、国宝や重要美術品など約100点を展示。
翌1950年1月から、東京国立博物館の大講堂で毎月1回名筆資料を紹介して講義を行う「平安書道研究会」を結成した。同会は継続して開催され、800回を超えている。
書芸文化院は出版部を設け、日中の書道資料の出版に力を注ぎ、書道文化の普及に務めてきた(出版部は1972年に書芸文化新社として独立)。飯島春敬は『飯島春敬全集』『日本名筆全集』などの著書を著わし、1996(平成8)年に89歳で亡くなった。
古筆研究者でもあった飯島春敬は生涯をかけて仮名作品を蒐集し、日本最大の個人仮名コレクションとして知られ、書芸文化院の「春敬記念書道文庫」に収蔵されいる。一般公開は準備中。
★相田みつを美術館(2024年1月に閉館)
東京都千代田区丸の内3-5-1 東京国際フォーラムB1F
03-6212-3200
休館日 月曜日 年末年始
10:00~17:00(入館は16:30まで) 第2・第4金曜日と土曜日はナイトミュージアム10:00~19:00(入館は18:30まで) 1000円
詩人で、書家の相田は平易な詩を独自の書体で書いた作品で知られ、「書の詩人」「いのちの詩人」とも称される。旧制中学校在学中に書、短歌、絵に親しみ、卒業後、曹洞宗の禅僧に出会い、在家で禅を学びながら、本格的に書を修行した。
有力な書道展の1つ、毎日書道展に7年連続入選して書家として頭角を現したが、「ただ綺麗なだけでは、人を感動させられない」と、短く平易な言葉を独特の書体で書く作風を確立した。
相田みつを美術館は、みつを作品を所蔵し、みつをの長男、相田一人が館長を務めている。1996(平成8)年に銀座に開館し、2003(平成15)年に東京国際フォーラムの地下1階に移転。約300坪のゆったりとした空間に「にんげんだもの」「おかげさん」をはじめとする作品の原作約70~80点を常設展示し、年に数回、企画展を開催してきた。直筆の作品を楽しめるほか、体験型の展示やみつをのアトリエを再現したコーナーもあった。
東京国際フォーラムが長期大規模修繕工事に入るため、2024(令和6)年1月28日で閉館することになった。閉館後、オンラインショップは再開している。
書壇院ギャラリー(旧・吉田苞竹記念会館展示室)
東京都港区虎ノ門5-5-1 アークヒルズ仙石山テラス101
03-6721-5701
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始 展示会開催日はホームページに記載
9:30~17:00(入館は16:30まで) 無料
吉田苞竹は山形生まれの書家で、大正時代末期から書道団体の結成が相次ぎ、近代書壇史の始まる時期に、新鋭として活躍した。
1924(大正13)年、豊道春海が当時の多くの書家を結集して「日本書道作振会」が創立する。大規模な書道展を開催していたが、吉田苞竹、鈴木翠軒、川谷尚亭など8人の青年書家が「戊辰書道会」を1928(昭和3)年に結成し、書道界は二分され、その後、数多くの書道団体が誕生している。
吉田苞竹は同年、書壇社を設立し、書道雑誌『書壇』を発行し、書道の普及に力を入れ、中国の有名な碑帖などを掲載した著書『碑帖大観』全50巻を完成させた。比田井天来が「東の(吉田)苞竹、西の(川谷)尚亭」と称するほど、高い評価を受けた。
吉田苞竹は49歳で亡くなるが、その3年後の1943(昭和18)年、夫人の吉田菁菁は、苞竹の収集品、土地、家屋などの全財産を寄付して、財団法人書壇院を設立。書道展覧会の開催、月刊『書壇』の刊行などの事業を継続していたが、戦時中に中断。終戦後の1945年に『書壇』を復刊し、翌年12月に書壇院展を開催するなど、いち早く活動を再開した。
旧宅を旧吉田苞竹記念会館展示室としていたが、現住所に移転し、「書壇院ギャラリー」として生まれ変わった。吉田苞竹および財団法人書壇院が収集した古硯、書画、碑法帖、書籍などを所蔵、展示している。
荏原 畠山美術館
東京都港区白金台2-20-12
03-3447-5787
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
10:00~17:00(入館は16:30まで) 春季展・夏季展(4~9月)
10:00~16:30(入館は16:00まで) 秋季展・冬季展(10~3月) 1500円
荏原 畠山美術館
荏原 畠山美術館は「茶の湯の文化を広める美術館」として知られ、茶道具を中心に書画、陶磁、漆芸、能装束など、日本、中国、朝鮮の古美術品を展示公開する私立美術館。収蔵品は、国宝6件、重要文化財33件を含む約1300件に上る。
創立者の畠山一清は能登の国主、畠山氏の後裔で、東京帝国大学工科大学を卒業し、技術者としてポンプの開発に取組み、荏原製作所を興した。渦巻ポンプの発明のほか、送風機、水中モーターポンプなど数十種の製品を開発し、後に発明協会の会長も務めた。
事業のかたわら、即翁と号して能楽と茶の湯を嗜み、芸術品の蒐集に努めた。昭和の初めに旧・寺島宗則伯爵邸のあった白金猿町の土地約3000坪を購入し、奈良般若寺の遺構や、加賀前田家の重臣横山家の能舞台を移築して、私邸「般若苑」を造営した。
第2次世界大戦後、国宝の「林檎花図」(伝 趙昌筆。南宋時代)、「煙寺晩鐘図」(伝 牧谿筆。南宋時代)、「禅機図断簡」(因陀羅筆 楚石梵琦賛。元時代)をはじめ、大名茶人の松平不昧(出雲松江藩10代藩主。治郷)の茶道具や加賀前田家伝来の能装束など美術品の蒐集を行った。
文化的価値に鑑み、恒久的な保存を図るとともに、広く一般の鑑賞に対応するため、苑内の一角に美術館を建設し、1964(昭和39)年、畠山記念館が開館。2024年9月にリニュアルして「荏原 畠山美術館」に名称を変更した。
古筆や墨跡などの書作品も多く収蔵している。古筆は、主に鎌倉時代以前の書を指し、巻物の一部を切り取って掛け軸にして茶道の席に飾ることが多く、書を掛け軸にしたものを古筆切という。墨蹟は、墨で書いた文字で、日本では特に禅僧が書いたものを指すことが多い。
書関連の国宝は「離洛帖」(藤原佐理筆。平安時代)と、「大慧宗杲墨跡 尺牘(書状のこと)」の2点。大慧宗杲は宋代の禅僧で、精神性を重んじた禅僧の書が数多く日本に流入し、好まれた。
重要文化財では、「名家家集切」(伝 紀貫之筆。平安時代)、「寸松庵色紙」(伝 紀貫之筆)、「宗峰妙超墨跡 孤桂号」(宗峰妙超筆)があり、一休さんで親しまれる一休宗純の墨跡「尊林号」「応無所住 而生其心」(室町時代)も収蔵。春夏秋冬の季節の移り変わりに合せて年4回、作品の展示替えをしている。
★金子鷗亭記念創玄会館 金子鷗亭記念ギャラリー
東京都豊島区目白3丁目5-5
03-3953-8349
休館日 土曜日 日曜日 祝日
10:00~16:00 300円 (事前予約制)
(現在、一般観覧は休止中)
「近代詩文書の父」と言われる書家の金子鷗亭の住宅があった場所が、金子鷗亭が創始した書道団体、創玄書道会に寄贈され、多目的ホール、事務局などを持つ金子鷗亭記念創玄会館として建てられた。
3階の金子鷗亭記念ギャラリーには、復元された書斎、収蔵された作品集や書籍などの閲覧室、作品および資料保管室、視聴覚室などがある。ギャラリーでは鷗亭の漢字作品、詩文書作品などを展示しており、鷗亭関連の映像資料や、2000冊を超える蔵書を閲覧できる。
金子鷗亭は北海道松前郡小島村(現・松前町)で生まれ、「現代書道の父」「昭和の空海」と称された比田井天来に師事した。日本の美しい言葉、詩や俳句、随筆といった日常私たちが使う文学の中で感動した言葉を書にしよう」と、1935(昭和10)年以降、近代詩を書にする近代詩文書運動を起こした。
日本語の詩文を書の題材とし、書の表現も現代に相応しい表現をするべきだと主張する一方で、六朝(三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。222年~589年)と、北魏(前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。386年~534年)の楷書や、木簡(墨で文字を書くために使われた短冊状の細長い木の板で、主に古代東アジアで利用された)などの研究にも取り組み、書道界に貢献した。
書家の文化勲章の受章は、西川寧に続き2人目で、文化功労者でもあった。「全国戦没者之霊」「硫黄島戦没者の碑」「比島戦没者の碑」のほか、東京都江戸東京博物館、松前城の題字や、黒澤明の映画「蜘蛛巣城」のタイトル、日本酒「一ノ蔵」のラベルなども揮毫している。
大田区立熊谷恒子記念館
東京都大田区南馬込4-5-15
03-3773-0123
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~16:30(入館は16:00まで) 100円
熊谷恒子記念館 (ota-bunka.or.jp)
女性のかな書の第一人者として昭和期に活躍した熊谷恒子が生前に住んでいた駒込の居宅を改装し、亡くなった4年後の1990年に熊谷恒子記念館が開館した。上皇后美智子陛下にご進講されたことでも知られ、多くの書家を輩出している大東文化大学教授として書を教えていた。
恒子の自宅は1936(昭和11)年に建てられたもので、記念館は自宅の雰囲気をそのまま残し、幽玄な墨の世界を心ゆくまで鑑賞できるようになっている。恒子の優美な作品約170点を所蔵しており、展示会のテーマに合わせて公開し、ギャラリートークなどのイベントも開催している。
恒子の祖父は、幕末から明治期の京都を代表する文人で、書家、漢詩人、医師として活躍した江馬天江。父親の江馬章太郎は京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)などで教鞭を執った耳鼻科、皮膚科の泰斗。兄の江馬務は日本の風俗史、有職故実の研究者。
恒子は、銀座鳩居堂の支配人、熊谷幸四郎に嫁ぎ、子どもが習字を始めたのをきっかけに、自分も趣味で習うようになった。35歳頃であったが、祖父が書家でもあり、父も書の愛好家だったため、書の道を本格的に進むようになり、かな書を学ぶ中で、漢字の重要性を感じ、平安朝の伝統的な古筆を独習し、流麗で雅びな独自の境地を開いた。
1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災後に、多くの文士や芸術家が馬込に移り住むようになり、大正末期から昭和初期に100人を超える文化人が居を構え、「馬込文士村」を形成した。
作家や詩人である尾崎士郎、川端康成、萩原朔太郎、堀口大学、宇野千代、佐多稲子、吉屋信子、児童文学者の村岡花子などが住み、この界隈は現在、文化の香る街歩きエリアとなっている。熊谷恒子記念館のほか、尾崎士郎記念館、近代日本画の巨匠と称される川端龍子の大田区立龍子記念館などのミュージアムがある。
千葉県
成田山書道美術館
千葉県成田市成田640
0476-24-0774
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日) 年末
9:00 ~16:00(入館は15:30まで) 500円
成田山新勝寺大本堂の後方に「平和の大塔」がそびえており、眼下に自然豊かな成田山公園がある。その一角にある成田山書道美術館は、公益財団法人成田山文化財団が運営する書の総合美術館で、1992(平成4)年に開館した。
日本と中国の古今の書を中心に、6000点を超える収蔵品は、奈良時代から現代の書跡や書作品など、繊細なものから迫力あるものまでさまざま。名品も数多く所蔵しており、専門家だけでなく、一般の人も、多様な作品を鑑賞できる。
1階から2階部分にかけて、高さ20メートルの吹き抜けの空間があり、13メートルの原拓「紀泰山銘」(唐の玄宗皇帝の書)の全景が展示されており、迫力がある。2階の常設展示室は吹き抜けに沿って回廊式のギャラリーとなっていて、年に6~7回ほど展示替えをする。
古筆(平安、鎌倉時代の書作品)や古写経(天平期から南北朝時代)、中国の各時代の拓本類も充実していて、書家による作品だけでなく、文人、画家、作家、宗教家、政治家、教育者など、歴史に名を残す偉人の書跡や資料も多い。
幕田魁心書道美術館
千葉県富津市大堀1-7-8
090-8682-7364 (中山館長)
企画展開催時以外は電話での予約制。 無料
千葉県君津市在住の書家、幕田魁心の書を展示、紹介する私設美術館の「幕田魁心書道美術館」が2022年3月、富津市に開館した。
魁心の長女で、書家・水墨画家の中山明粋と、夫で書家の中山光晨が暮らす自宅を美術館にしている。
魁心は大東文化大学中国文学科を卒業し、千葉県の高校で書道教諭として30年、非常勤講師として千葉大学で13年間、書を教えた。毎日5時間筆を持ち、18歳から53歳まで書き続け、高校の教員を退職してからは、毎日8〜10時間、書に向っている。
6書体(篆書、隷書、楷書、行書、草書、漢字仮名交じり書)を極めるも、「いまだに美の極限に達するには至らない」という。「書とは心である。書の修行は心を鍛えることであり、書の成長は心と人間性を成長させていく。人が最も大切にしなくてはいけないものが心である」と説く。
国内各地、北京、ニューヨーク、パリなどで個展を開催。日本の文学、童謡を題材に書を書き表わす。松尾芭蕉の句「五月雨の降りのこしてや光堂」を揮毫して、中尊寺(岩手県平泉町)に奉納。
『極める!楷書―創作へのみちしるべ』『書になった童謡たち』『書の風景』のほか、妻で、書家の幕田翠玉》との共著『魁心が書く 奥の細道』など、多数の著作を上梓している。
白井市郷土資料館
千葉県白井市復1148-8 白井市文化センター3階
047-492-1124
休館日 月曜日 祝日 年末年始
9:00~17:00 無料(特別展は有料の場合あり)
白井市は千葉県の北西部に位置し、以前は農業地帯であったが、千葉ニュータウンに属しており、業務核都市に指定されている。白井市郷土資料館は郷土の歴史、芸術、民俗、産業、自然科学の資料の収集し、展示、紹介するため、1994(平成6)年、白井町文化センター(当時)のオープンとともに開館した。
白井市内各所で発掘された古代の遺物や市内の旧家で発見された逆刃刀(通常の刀とは刃と峰が逆向きに打たれた刀)など、古代から現代に至る白井の歴史が分かる品々が展示されている。
「白井の先駆者」の展示では、旧・白井村出身の書家、小川瓦木の書作品を展示している。小川瓦木は、前衛書道家として知られる上田桑鳩を師とし、桑鳩が1933(昭和8)年に設立した「書道芸術社」に加わり、20世紀の現代書の確立と発展に貢献した。書道芸術社には、近代詩文書を提唱した金子鷗亭、旅の書家とも言われた桑原翠邦らが参加している。
小川瓦木は上田桑鳩らとともに、1940年の「奎星会」の結成にも参画し、機関誌『奎星』の編集を担当。初代会長の上田桑鳩は「自己に忠実であらんことを」をモットーにしており、各会員の個性と創造性を重視し、現代書の新たな可能性を探り、旺盛な展覧会活動を続けている。
1977(昭和52)年、小川瓦木は書の伝統的概念を超えて、前衛書、現代書と呼ばれている書芸術を、自由な発想で探求する「東洋書芸院」を設立し、1984(昭和59)年の「産経国際書会」の設立にも参画。
キャンバス地に油彩やラッカーで描いたり、紙の上にろうを引き、その上に墨を流したり、象形文字を基にした書、非文字作品(文字から大きく離れた作品)にチャレンジするなど、先鋭的な作品を手がけた。
国内だけでなく、海外で個展を開催し、欧米の国際美術展に積極的に作品を発表。世界的に評価される数多くの作品を残しており、遺族は200点余りの作品を白井市郷土資料館に寄贈。展示替えをしながら、小川瓦木の作品が公開されている。
神奈川県
手島右卿記念館
神奈川県鎌倉市雪ノ下2-16-15 (鶴岡八幡宮の裏)
0467-38-7084
休館日 月曜日~金曜日 祝日(土曜日、日曜日の場合は開館) 年末年始
10:00~17:00 500円
https://yukei-museum.sub.jp/wordpress/
高知県安芸町(現・安芸市)に生まれた手島右卿は、川谷尚亭、比田井天来に師事し、「独立書道会」(現・独立書人団)を結成。
戦後の現代書の革新を牽引し、書を芸術として世界に拡めた。独立書道会の発足は1952(昭和27)年で、サンフランシスコ講和条約が発効したこの年が、真の意味で日本が独立した年とされる。1967年に「独立書人団」と名称を改め、その後、公益財団法人となった。
手島右卿は、漢字が持つ造形性を強調して、特に1~2字を取り上げて書作品にする「少字数書」を提唱。少字数書は「少字数の書」の意味で、1~4文字と限られた字数の造形美に注目し、同じ字であってもさまざまな表現ができると主張する。さらに、少ない文字に言葉の意味を込めて、創造性豊かに書を創作する「象書」で、書の新しい様式美を確立した。
「抱牛」は東京国立近代美術館に書家として初めて収蔵された作品で、手島右卿の書は東京国立博物館や東京都美術館、海外の数々の美術館に収蔵されている。
「昭和の三筆」と呼ばれた右卿は、専修大学に文学部が新設されたとき教授に就任し、日本書道専門学校を創設して、初代校長になった。昭和の三筆とは西川寧、手島右卿、日比野五鳳の3人を指す。
右卿の終の住処であり、書斎をそのまま残していた、鎌倉の旧手島右卿邸をリニューアルし、2023(令和5)年4月に記念館としてオープンした。門前には自ら揮毫した「抱雲荘」が掲げられ、春には裏山の山桜が満開となり、秋には樹齢数百年の紅葉が鮮やかに紅葉する。庭には、右卿の「天意」や妻で仮名書家の手島小華の「山桜の歌」の書碑がある。
右卿は晩年、鎌倉の地で仙人になったつもりで「いのちの書」を書いてみたいと述べており、自然を愛し、四季を感じながら、書の制作を続けていた。記念館では右卿の作品、臨書、愛用品と、妻の手島小華の作品も展示し、春秋2回、展示替えを行う。
茨城県
篆刻美術館
茨城県古河市中央町2-4-18
0280-22-5611
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 祝日の翌日 年末年始 その他の休館日もある
9:00~17:00(入館は16:30まで) 200円 3館共通券は600円(古河歴史博物館、文学館、篆刻美術館)
日本で唯一の篆刻専門の美術館で、大正時代に建てられた商家の3階建ての石蔵を利用し、1991(平成3)年に開館した。建物は国の登録有形文化財。篆刻は書道芸術の1つで、篆書という古い文字を用いて、石や木に刻んで紙などに捺おした作品や技法を鑑賞するもの。
漢字には5つの書体があり、最も古いのが篆書で、次いで生まれたのが篆書を省略した形の隷書。隷書から、続けて書いた行書と、字画を大きく省略して崩した草書が生まれ、さらに一画一画を続けずに方形に近い形で書く楷書が誕生した。
篆刻は、主に篆書の文字を印章(印、はんこ)として刻むこと。彫った印面に印泥(特殊なインクのこと)を着けて紙に捺した印影(印を捺して紙に残るインクの跡)を楽しみ、印章自体を鑑賞する。
古い時代の印章は金属(金、銀、銅など)や、玉(水晶、ヒスイ、メノウなど)、動物の角、牙、骨などの硬質な素材で作られていたが、中国の元代になって、加工しやすい石材が登場し、篆刻は明代に普及し発展した。
印章の起源は、紀元前5000年頃の古代メソポタミアと言われ、古代エジプト、インダス(古代インド文明)、古代中国でも利用されるようになった。シルクロード経由で中国に伝わり、日本での本格的な使用は飛鳥時代に始まり、奈良時代に広まった。
実用的な「紙」が発明されたのは西暦105年で、中国の後漢の役人だった蔡倫が、木の皮や麻などの植物繊維を砕いて漉いた製紙法が始まり。
元の時代に王元章(元代末期の画家、詩人、篆刻家)が花乳石(産地の地名から青田石、せいでんせき、とも言う)を発見して印を彫り、700年ほど前から、職人以外の人々でも容易に彫れるようになった。四書五経や漢詩などから語句を選んで文字を彫る篆刻芸術が開花した。
古河市出身の篆刻家、生井子華は印章業を営む家に生まれ、26歳の時に篆刻家になることを志す。書家で金石学(中国古代の青銅器や石碑などに刻まれた銘文を研究する学問のこと)の研究家の西川寧に師事し、篆刻の制作に没頭する。
生井子華の作品を展示する施設として開館したが、他の篆刻家の作品、篆刻に用いられる封泥(粘土の塊に記号や文字を刻んで、証明用としたもの)や印材、木印、陶片などを収集し、展示している。
篆刻の巨匠の石井雙石、二世中村蘭臺など、著名な篆刻家の作品も鑑賞できる。必要な用具や用材が準備してあり、篆刻の実技体験もできる(予約制。有料。土曜日、日曜日、祝日など)。
長野県
松本市美術館 上條信山記念展示室
長野県松本市中央4-2-22
休館日 月曜日(祝日の場合は翌平日、8月は無休) 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) コレクション展示410円
松本市は「岳都」「楽都」「学都」の3つの「ガク都」を目指し、北アルプスなどの山岳観光都市としての「岳都」と、音楽、学問に力を入れている。松本市美術館は「学都松本における心をひらく学びの森の美術館」として2002(平成14)年に開館した。
鑑賞の場、表現の場、学習の場、交流の場の4つのエリアを提供し、地域に根ざす総合美術館を打ち出している。地元の芸術家、文化人の名前を冠した展示室がいくつかあるが、その1つが書家の上條信山記念展示室で、2004年にオープンした。
松本市出身で、松本市の名誉市民でもある上條信山を紹介する展示室で、信山の生涯にわたる書道作品や資料を収蔵、展示している。信山は、明治から昭和前期にかけて活躍した能書家で、教育家の宮島詠士に師事し、清純にして都会的な独自の書風を確立。
長野師範学校の3、4年の時、最高賞を連続して獲得し、4年の時の審査は比田井天来が行っていて、審査後の講評で、「信山」の号を授けられた。
戦後、毛筆の書道は小学校の自由研究に位置付けられていたが、必修科目に復活させる必要性を訴え、書道教育の理論構築を進めて実現させた。東京教育大学(現・筑波大学)教授、日本書道教育会議議長などを務めた。日本芸術院賞(日本芸術院が会員以外の者に授与する賞のひとつ)を受賞し、文化功労者になっている。
松本市美術館の所蔵品は「作品を末永く保存し、今後の書教育および芸術教育に役立ててほしい」と信山、そして遺族が作品を松本市に寄贈したものが中核となっている。松本市美術館は、全国に点在している信山作品の調査と信山研究を続けている。
松本市美術館には、洋画家で、20歳過ぎに訪れた信州の蓼科高原の雄大さに感銘を受け、日本の風土、特に高原風景をテーマに92歳で亡くなるまで描き続けた「田村一男記念展示室」と、松本市の文人、池上喜作(百竹亭と号した)が近代文芸資料を中心に蒐集した「池上百竹亭コレクション展示室」がある。
驥山館(長野県)
長野県長野市篠ノ井布施高田380
026-292-0941
休館日 月曜日 祝祭日の翌日 年末年始
10:00~16:30 500円
長野市の南部、篠ノ井市にある書の美術館、驥山館は、幼いころから書と漢詩を学び、中国に渡って書の研究を究め、書道界に多大な足跡を残した川村驥山の秀作が常設展示されている。
驥山が5歳のときの傑作「大丈夫」から晩年までの作品を収集し、書道界初の日本芸術院賞受賞作「楷書酔古堂剣剣掃語」(1951年)や絶筆の「心」の人気が高い。
酔いに任せて、筆が自由に舞い遊ぶ驥山独特の狂草(思うままにくずして書いた書)は、書にあまり関心がない人も楽しめる。川村驥山は静岡県袋井市生まれだが、戦時中、篠ノ井に疎開し、晩年も篠ノ井で暮らしたことから、美術館が創られた。
川村驥山の作品80点のほか、近代日本の書道界を代表する書家の赤羽雲庭の作品70点、「奇石体」と呼ばれる独自の書風を確立した小坂奇石の作品50点、現代作家の作品104点を収蔵し、展示する。
赤羽雲庭は、西川春洞門下の七福神の1人、花房雲山に書を学んだ。
西川春洞の代表的な門弟を「春洞門七福神」と呼んだが、残りの6人は諸井春畦、諸井華畦、武田霞洞、安本春湖、中村春坡、豊道春海。
「昭和の三筆」の1人の西川寧は西川春洞の三男。
赤羽雲庭は「王羲之を書かせたら、雲庭の右に出る者はいない」と言われるまでになり、独自の境地を切り拓き、戦後の書道界で活躍。青山杉雨と並び称され、「赤鬼、青鬼」と呼ばれていた。
小坂奇石は「奇石体」「奇石流」という独自の書風を確立。大阪市東住吉区にある法楽寺の境内に「リーヴスギャラリー小坂奇石記念館」がある。
川村驥山は11歳のころ、明治天皇の銀婚式に「孝経」と「出師表」を献上し、天覧の栄とお褒めの言葉を賜っている。若いころ、書家として、全国各地を武者修行のように回り、文人墨客(書画や詩文を嗜み、書画を専門にする書家や画家)的な生活を送り、明治から昭和期の書道界の第一人者として活躍した。
佐久市立天来記念館
長野県佐久市望月305-2
0267-53-4158
休館日 月曜日・火曜日(祝日の場合は翌日) 祝日の翌日(土曜・日曜・祝日の場合は開館) 年末年始
9:00~17:00 310円
天来記念館は、生涯を書の研究に捧げた書家、比田井天来を顕彰し、書道の発展のため、博物館法の登録による日本初の書道専門美術館として1975(昭和50)年に開館した。
重厚な土蔵風の建物は白壁と鉄平石(長野県の諏訪地方、佐久地方に広く分布する輝石安山岩で、板状に剥がれやすい)で装い、書道の殿堂にふさわしい芸術的香りを漂わせている。
比田井天来が揮毫した作品や筆、落款といった関係資料、天来の妻の比田井小琴、金子鴎亭、手島右卿、桑原翠邦、次男の比田井南谷など、多くの天来門下の書家の作品も収蔵、展示している。
天来は、1872(明治5)年に佐久市協和片倉で生まれ、漢字や哲学を学び、古典を基本に据えた書法を追求。上京して日下部鳴鶴に学んでいた頃は、長鋒(穂先が長く、腰が弱いので扱いにくい)を駆使する「廻腕法」が主流で、これ以外の手法は邪道であるとして、誰も省みなかったが、中国古典の基本を学んでいた天来は、「廻腕法」では書けない字があることに気付いた。
さらに多くの古碑法帖、古墨蹟を研究して、古典の筆法「府仰法」(線を引く方向に筆を倒す書き方)を発見し、古典の書法を正しく再現できるようになった。
天来は弟子に、古碑法帖を自ら学ぶことが重要だと教え、師匠である自分の字を真似しないように指導し、手本を書かなかった。「書は芸術である」と主張した天来に学んだ弟子は、自分自身の書風を確立し、前衛書や少字数書、詩文書など、新しい書の表現を生み出していく。
現代書道の先駆けとなったことで、天来は「現代書道の父」と言われ、書道界に大きな足跡を残した。1937年、尾上柴舟とともに、書道界で初めて帝国芸術院会員(現・日本芸術院会員)になっている。
天来記念館には「天来・小琴展示室」と「門流展示室」があり、天来・小琴展示室は、年齢とともに変わっていく天来の書が理解できるように展示し、門流展示室は、天来門下の書道家の作品を紹介。
すでに名前を挙げた書家のほか、中野北溟、小川瓦木、石飛博光などの作品に出会うことができ、年に2回程度、展示替えを行っている。
山梨県
八ヶ岳泰雲書道美術館
山梨県北杜市長坂町小荒間1919
0551-32-6277
休館日 月曜日~木曜日 1階と2階の展示室は4月1日~11月末まで開館
10:00~16:00 1200円
八ヶ岳のふもと、JR小海線の甲斐小泉駅近くにある八ヶ岳泰雲書道美術館は、書家、柳田泰雲の作品を中心に展示するミュージアムで、建物の設計も泰雲自身が考えたもの。
3つの円形窓は日、月、地球を表しており、泰雲が1990(平成2)年3月に亡くなった半年後の9月に開館した。
3階は、柳田泰雲が最晩年の制作室として予定していたもので、書道団体の学書院の門下生や地元の書道普及のための道場として活用されている。3階バルコニーには「我が父なる国」と敬愛した中国への想いを込めて、朱塗りの四柱の東屋が作られている。
柳田家は江戸後期から儒学者、書家を輩出し、柳田正斎、柳田泰麓、柳田泰雲と受け継がれ、書が堪能な家系で、特に泰雲は楷書を得意とした。
東京・日本橋に生まれた泰雲は、日本書道作振会の文部大臣賞受賞を機に、父、泰麓の後継者となり、全日本学生書道連盟を創立し、現代書道二十人展の企画立案、日中の書道界の友好を図るなど、書道界に貢献した。
泰雲書道美術館の館長は泰雲の妻の柳田青蘭。21歳のとき、泰雲と出会って結婚。画家を夢見ていたが、書道を始め、書道の普及と中国との友好に力を注ぎ、学書院の院長を務め、目の不自由な人のための書道教室も開催している。
泰雲書道美術館には、柳田正斎、泰麓、泰雲、青蘭など、柳田家の書家による柳田書法の展示だけでなく、学書院の門人、中国書画家の作品も順次展示される。ホログラムを使って書を立体的に表わした作品も見どころの1つ。純金を使って書いた書は芸術性が高く、泰雲の代表作だ。
静岡県
MOA美術館
静岡県熱海市桃山町26-2
0557-84-2511
休館日 木曜日(祝日の場合は開館) 展示替え日
9:30~16:30(入館は16:00まで) 1760円(オンラインチケット1540円)
箱根美術館の創立者で、熱海美術館(後のMOA美術館)を開設した岡田茂吉は、1897(明治30)年に東京美術学校(現・東京藝術大学)予備ノ課程に入学するが、眼の疾病のために中途退学した。
前半生を実業家として、後半生は宗教家として足跡を残した岡田は幼年期から骨董、絵画に深い関心を寄せていた。
健康を快復してからは、蒔絵制作に打ちこむなど工芸技法の習得に努め、簪、笄など婦人装身具の意匠考案と販売事業で成功し、各種博覧会でも高い評価を得て、実業家としての地位を築いた。
しかし、身辺で不幸が重なり、関東大震災や世界恐慌などにより事業も傾き、哲学、思想、宗教の研究に没頭し、1935(昭和10)年に世界救世教のルーツとなる宗教を創始する。
優れた美術品は人間の本質に強く働きかけ、心を陶冶し、健全な社会を形成するという芸術観を持ち、美術品の収集を行い、日本文化を世界に発信する美術館の創設を目指した。
1952(昭和27)年に箱根美術館を開館し、1957(昭和32)年に熱海美術館を開館。岡田の生誕100周年にあたる1982(昭和57)年、約7万1500坪の広大な庭園内に位置し、初島や伊豆大島を見渡せる丘陵地に建つMOA美術館をオープンした。MOAは、Mokichi Okada Associationの頭文字を取ったものだ。
さらに2017(平成29)年に、現代アート作家で、建築家の杉本博司と、建築家の榊田倫之によって設立された建築設計事務所「新素材研究所」の監修で、特殊なガラスケースを使って作品を展示し、仕切りを意識させないようにリニューアルしている。
MOA美術館には日本、中国の書跡などの美術品のほか、絵画、彫刻、陶磁器、染織、漆工、金工、木工などを所蔵、展示する。尾形光琳筆「紅白梅図屏風」、野々村仁清作「色絵藤花文茶壺」、三大手鑑の1つとして知られる手鑑「翰墨城」の3点の国宝、重要文化財67点、重要美術品46点など、数多くの名品がある。
書の関連では、国宝の手鑑「翰墨城」高野切(伝 紀貫之)のほか、関戸本和漢朗詠集切(伝 藤原行成)、伝 菅原道真、伝 小野道風、一休宗純、夢窓疎石などの書跡を所蔵している。
岡田茂吉は『岡田茂吉墨筆集』『岡田茂吉全集』『自然農法解説書』などの著書も著わしている。
愛知県
春日井市道風記念館
愛知県春日井市松河戸町5-9-3
0568-82-6110
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00 ~16:30 100円
春日井市には古くから小野道風(とうふう)の誕生伝説があり、南北朝時代に記されたとされる書の奥義書『麒麟抄」や、江戸時代中期の国学者で、和漢の学を究め、医薬、博物、天文、宗教、地理、風俗にも通じていた天野信景の随筆集『塩尻』などの資料に記されている。
春日井市は、書聖、小野道風の偉業をたたえ、道風誕生の地と伝えられる小野朝臣遺跡碑が建つ松河戸町に、1981(昭和56)年、書を鑑賞する楽しさを伝える春日井市道風記念館を開館。書専門の美術館で、書道史の研究施設としての事業も展開している。
1815(文化12)年に尾張藩の藩校、明倫堂の教授としても活躍した漢学者、秦鼎の撰文(記念碑などに刻む文章を作ること)によって建てられた小野朝臣遺跡碑によると、18世紀末に、この地で道風生誕が信じられ、顕彰活動が行われていたことが伺える。
小野道風は平安時代中期の貴族、書家で、藤原佐理(さり)、藤原行成(こうぜい)とともに「三跡」と呼ばれ、道風の書跡は野跡という。
道風は、醍醐天皇の治世(885年~930年)に活躍し、それまでの中国的な書風から脱皮して、和様書道の基礎を築いた人物と評価されている。
奈良の興福寺の僧侶が中国の唐に向かうとき、当時の日本の文士文筆(筆を執って詩歌や文章を書く人、書くこと)を唐に対して誇示するため、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書と草書各1巻を携えており、日本を代表する能書家と認められていたことが分かる。
道風記念館の主な収蔵品の1つに「伝小野道風筆 本阿弥切」がある。近世初期に本阿弥光悦が1巻を所有していたので、その他の断簡(切れ切れになって残っている文書や書簡)もすべて本阿弥切というようになった。
道風の書と伝わるものや、藤原佐理や藤原公任と伝わる書、本阿弥光悦の短冊や、江戸時代、明治以降の書家の作品などを所蔵し、公開している。図書コーナーでは、書に関する図書を閲覧できる。
道風記念館の隣には観音寺があり、門の横には道風の像、境内には筆塚、小野道風誕生伝説地の碑がある。
晴嵐館 作品展示室
愛知県江南市大海道町青木22
0587-56-3170
休館日 木曜日 年末年始
10:00~16:00 300円
愛知県江南市に生まれた大池晴嵐は大正から昭和初期に活躍した中部地方の漢字書家で、上京し、東京・目黒の豊道春海を生涯の師とした。
郷里に戻り、高等学校の教諭として教鞭をとり、社中結社を集めて平心社(現在の東海書道芸術院)を創設して書道教育に携わり、文化センターの講師など社会教育にも精力的に取り組んでいる。晩年は漢詩作法を学び、独学で短歌、俳句を嗜んだ。
書道の後進の育成と自らの作品の散逸を憂い、財団法人晴嵐館を設立し、作品の保管展示、社会教育施設として、書道の美術館を開館。その後、書道研修施設(錬心講堂)を増設し、書道に関する図書、資料を収集して閲覧、貸し出しもしている。
作品展示室では大池晴嵐の書業を紹介し、拓本、文房四宝を常設展示し、「晴嵐の書」「郷土の書家」「台北故宮博物院の書画」などの企画展示や特別展示を行っている。晴嵐が作品制作のために散策し、思索を深めた庭園で四季を感じることができる。
★古橋懐古館
愛知県豊田市稲武町タヒラ8
0565-82-2100
一般公開を無期限休止
古橋家の初代は、約300年前に美濃国中津川から三河国の稲武村(現・豊橋市)に移住し、古橋家は豪農で、名主、酒造業もしていた。
6代目の古橋源六郎暉皃は1863(文久3)年に上京し、国学者の平田銕胤(平田篤胤に師事し、篤胤の養子、後継者となった)の門に入って国学に傾倒した。これを機に、国学者、儒学者、勤皇の志士、経世家などの書画や著書を収集する。
その後も、古橋家は収集を続け、8代目の古橋道紀の実弟、川村貞四郎が財団法人古橋会の初代理事長となり、各種の公益事業を推進してきた。
古橋懐古館は、明治維新の志士たちの遺墨をはじめ、古文書、和装本、書簡、骨董、民具資料などを5万点以上所蔵し、1971(昭和46)年に一般公開した。
書跡関係では、三河国田原藩の家老で画家の渡辺崋山、江戸後期の書家で漢詩人の市河米庵、幕末、明治期に足跡を残した坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、徳川慶喜、品川弥二郎、副島種臣など。明治の三筆の1人の中林梧竹、明治から昭和にかけて活躍した洋画家で書家の中村不折の作品も所蔵している。
江戸時代中後期に建築された酒倉・味噌倉を利用していた建物は消防法の関係で2018(平成30)年12月から一般公開を無期限休止となった。所蔵資料の整理保存や貸出、閲覧提供などの業務は継続している。
安倍晋三首相は、2014(平成26)年の国会での所信表明演説で、古橋家6代目の古橋源六郎暉皃のエピソードが取り上げている。
古橋暉皃は「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ」と悟って、植林、養蚕、茶の栽培など、それぞれの土地に合った産業を新たに興し、豊かな村に発展させた、という内容だ。
古橋家は、備荒貯蓄の精神(飢饉に備えて貯蓄をする)、共存共栄、家は徳に栄える、などの家訓を重んじ、文化を守ってきた。
岐阜県
日比野五鳳記念美術館
岐阜県安八郡神戸町大字神戸1220-1
0584-27-7320 (神戸町中央公民館)
休館日 火曜日 開館期間は「春季展」(4月下旬~5月下旬)と「秋季展」(10月下旬~11月下旬)
9:00 ~16:00(入館は15:30まで) 220円
現代仮名書壇の最高位にあった日比野五鳳は愛知県春日井市で生まれ、母が早世したため、岐阜県安八郡神戸町の祖父母に育てられた。
日比野五鳳記念美術館は1984(昭和59)年に開館し、五鳳の代表作品283点を所蔵。作品は春と秋の年2回だけ展示され、6月下旬から7月上旬に、絵画、彫刻、書、写真の4部門の神戸町美術展を開催している。
日比野五鳳は、漢字の美と仮名の美を統合した日本独自の書を目指し、清らかさと美しい品格を併せ持ち、豊かで味わい深い芸術の確立を追い求めた。自らを「岐阜のタニシ」と称し、素朴、実質を重んじ、遺された筆や硯に限らず、生き方そのものが清貧であった。
西川寧、手島右卿とともに、昭和の三筆と呼ばれ、日本芸術院会員、文化功労者になっている。
光ミュージアム
岐阜県高山市中山町175
0577-34-6511
休館日 火曜日・水曜日(祝日の場合は開館) 冬期間
10:00~17:00(入館は16:00まで) 1000円(手島右卿記念室は、別途100円の入室料が必要)
飛騨高山にある光ミュージアムは、信仰団体の崇教真光世界総本山が運営する総合ミュージアムで、1999(平成11)年に開館した。
マヤ文明をモチーフにした建物内に美術展示室、飛騨展示室、人類史展示室、書家の手島右卿記念室などの常設展示室があり、特別展、企画展も開催。
国宝「太刀 銘 康次」、国重要文化財「太刀 銘 了戒」、重要美術品「猿丸集断簡(伝)藤原行成」、「後陽成天皇宸翰御消息」など、約2000点のコレクションを所蔵し、美術展示室では横山大観、竹内栖鳳、菱田春草、川合玉堂、上村松園、鏑木清方、東山魁夷、加山又造、モネ、ゴッホなどの作品を収蔵、展示している。
手島右卿記念室は、「昭和の三筆」と称えられる現代書の先駆者、手島右卿の作品を展示し、業績を紹介している。昭和の三筆は手島右卿、西川寧、日比野五鳳の3人。
手島右卿は高知県安芸市に生まれ、比田井天来に師事し、中国や日本の古典で鍛錬を積み重ね、一字の漢字に想いや情景を込める象書による作品、芸術性の高い書を生み出した。
象書作品の代表作「抱牛」(1955年)「崩壊」(1957年)が世界で高い評価を受け、霊性の高い書「神」(1974年)「鶴舞」(1985年)「以虚入盈」(1987年)などを創作。手島右卿記念室には、若き日から晩年に至るまでの主な代表作、資料、愛用品を展示し、年に2~3回、展示替えを行う。
神奈川県鎌倉市は手島右卿の終の住処だった場所で、書斎をそのまま残してあった旧手島右卿邸をリニューアルして、2023年4月、手島右卿記念館がオープンした。
三重県
澄懐堂美術館
三重県四日市市水沢町2011
059-329-3335
休館日 月曜日 火曜日 展覧会開催期間
10:00~16:00(入館は15:30まで) 800円
澄懐堂美術館は全国でも数少ない中国書画専門の美術館で、澄懐とは、山水画の始祖とされ、5世紀前半、東晋から南朝宋にかけての隠者の宗炳のエピソードに由来する。
宗炳が、晩年、病のために湖北省の江陵に帰ったとき「あぁ、老いと病と倶に至る。名山恐らくは遍く遊び難し、ただ当に懐を澄ませて道を観、臥して以て之に遊ぶべし」(『宋書』・宗炳伝)と言ったことに基づき、心を静かに澄ませて、まぶたに浮かぶ山水を楽しむことを意味する。
政治家で、実業家であった山本悌二郎は「澄懐堂」を堂号(自分の書斎や家などに付けた、風雅な呼称のこと)とし、東京・目黒の自邸の玄関に翁同和(清末の政治家、書家)の書「澄懐堂」を掲げて、ここで『澄懐堂書画目録』を編纂した。
中国美術の保護と研究を目的に、明治から昭和初期にかけて蒐集したもので、2000件余の蒐集品から1176件を精選。宋、元、明、清の中国の名家を網羅している。
山本悌二郎のコレクションは、側近で実業家であった猪熊信行が引き継ぎ、1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲の直前に、猪熊の実家の三重県四日市市に移され、難を逃れた。
1963(昭和38)年に澄懐堂文庫が建設され、一般に公開するため、1994(平成6)年、澄懐堂美術館をオープンした。春と秋に展覧会を開催し、展示期間中、館員による作品鑑賞会を金曜日に行っている。
明代末期に活躍した書画家の董其昌、明末清初期の書家の王鐸、清代の書画家の金農、清朝末期から近代にかけて活躍した画家、書家、篆刻家の呉昌碩などの書蹟や、北宋の皇帝、徽宗の「双鯉図」、北宋の画家、燕文貴の山水画などを所蔵。
日本の儒者の遺墨や、硯の蒐集と見識に関して当代髄一の坂東貫山が持っていた古硯なども展示している。
新潟県
巻菱湖記念時代館
新潟県新潟市東区河渡庚296-33
080-4159-2581(株式会社 養玲社)
休館日 毎月29日~31日 お盆(8月10日頃~8月17日頃) 年末年始
9:00~16:00 平日 10:00~16:00 日曜日・祝日 500円
巻菱湖は江戸時代後期に越後国の巻駅(現在の新潟市西蒲区)で生まれ、書家、漢詩人、文字学者として活躍した。
巻菱湖記念時代館は、巻菱湖の書を中心に、 奈良時代から明治時代の書を観ることができる文字の博物館。2004(平成16)年に巻菱湖記念館として開館し、2009年に巻菱湖記念時代館と改称した。特色は、ガラスケース越しではなく、直に屏風や書軸などの作品を鑑賞できることだ。
巻菱湖の足跡を中心に、江戸時代の和本文化や江戸時代以前の書文化などの資料も所蔵し、テーマに応じて公開。巻菱湖の文字や江戸時代の木版文化をデジタル加工したものを販売し、グッズや商品のパッケージなどに使用できるようになっている。
巻菱湖は6歳のとき、白山神社(新潟市中央区)の境内にある天満宮に「天地」の2大刻字を奉納し、11歳には、長岡藩主の牧野忠精が巡村(村々の状況を視察するために訪れること)の際、新潟本陣に招かれて揮毫するなど、子どもの頃から人並みはずれた書の才能を発揮していた。
19歳で、文化文政期の書家、儒学者、文人の亀田鵬斎の弟子になるが、鵬斎は、菱湖入門にあたって学力と技量を試した結果、学問が足りておらず、文字の根源について理解していないとして、「書道は筆先の功を競うものとみてはならぬ、書論に通じ、かつ文字の根源を知るためには六書説文の学を修めねばならぬ」と説いた。
だが、菱湖の書技は非凡なものがあるとして、鵬斎は自分の書を授けないで、晋唐の名蹟を学ぶことを勧めている。
六書とは、漢字の成立と用法に関する6種の分類で、象形、指事、形声、会意、転注、仮借をいう。説文とは『説文解字』の略で、中国最古の部首別漢字字典。文字の成り立ちを説き、文字の本来の意味を記したもの。
菱湖の書技習得に関しては、生涯を通じて多種の法帖(紙に筆と墨で書かれた書蹟のうち、保存、鑑賞、学書用に制作されたもの)を臨書し、年代ごとに、さまざまな法帖から影響を受けた。31歳で江戸に行き、書塾の蕭遠堂を開いた。
平明で端麗な書体は書の手本として広く用いられ、「菱湖流」と呼ばれ、書風は幕末、明治の書道界に大きな影響を与えた。菱湖は市河米庵、貫名菘翁とともに「幕末の三筆」と称されている。
巻菱湖の特色は『説文解字』の研究など、文字学をベースにしており、五体を巧みに使うだけでなく、字体の来歴を正しく理解していたことだ。
五体とは、篆書(最も古い書体と言われているもの)、隷書(秦の時代に公文書で用いられるようになった書体。篆書を崩し簡単にしたもの)、草書(くずし字とも呼ばれ、隷書を簡略化した書体)、行書(草書のように、楷書と字形が異なるということはないが、続け書きが見られる書体)、楷書(一点一画を正確に書いて方形に近い字形の書体)をいう。
巻菱湖は、書道を学問として成立させ、当代随一の書家となり、明治時代の学校教科書や手本類の多くは菱湖の書風で、菱湖の門下生は1万人を超えていたという。
巻菱湖記念時代館では、巻菱湖の習字手本(法帖)を150種500冊以上所蔵しており、刷の良いもの、習いやすい文字をスキャニングや写真撮影によって、原寸大の手本を厚手のA4用紙に印刷して提供。隷書、楷書、行書、草書、仮名の5つの書体がある。巻菱湖の文字によるデジタル添削が受けられる通信教育も行っている。
新潟市會津八一記念館
新潟県新潟市中央区万代3-1-1 新潟日報メディアシップ5F
025-282-7612
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 祝日の翌日 年末年始
10:00~18:00 500円
新潟市の中心市街地で生まれた會津八一は、1881(明治14)年8月1日に生まれたことから八一と名付けられ、書家、歌人、東洋美術史学者、早稲田大学教授など、幅広い活動で知られている。
新潟市會津八一記念館は、新潟市出身の偉才、會津八一を調査研究し、業績を広く市民に伝えることを目的に、1975(昭和50)年に開館。日本海を望む西海岸公園に隣接した地にあったが、2014(平成26)年に新潟日報メディアシップに移転した。
會津八一の書作品を中心に書簡、原稿、筆や硯など書道具などの遺品、色紙や短冊などの複製品約3000点を収蔵、展示する。高潔な芸術家であり、情熱的な教育者であり、批判精神の強い学者であった會津八一を多角的に紹介するため、企画に合わせた展覧会、各種イベント、講演会を開催し、新たな発見ができる文化施設を目指している。
八一の残した言葉、思考、造形を、単に鑑賞するだけでなく、その奥に潜む八一自身の熱情、苦悩、抵抗、沈潜、祈りの日々を感じられるような構成にしている。東京・高田馬場の早稲田大学、早稲田キャンパス2号館には、會津八一記念博物館がある。
良寛記念館
新潟県三島郡出雲崎町米田1
0258-78-2370
休館日 4月~10月は休館日なし、11月~3月は水曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:00 400円
良寛は、越後出雲崎の名主、橘屋山本家の長男として1758(宝暦8)年に生まれ、幼い頃から学問に親しみ、22歳から岡山県の円通寺(現・倉敷市)で仏道修行に励んだ。
34歳のとき、「好きなように旅をするがよい」と言い残して世を去った生涯の師、国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。
空庵(仮住まい)を転々とした後、48歳のとき五合庵(現・新潟県燕市)に定住し、書を学んだ。その後、神社の境内の草庵などに住み、74歳で示寂(高僧などが死ぬこと)。生涯に渡って寺を持たず、貧しいながらも清らかな生き方を通した。
良寛記念館は、良寛生誕200年を記念して浄財を集め、1965(昭和40)年に完成。建物は東京工業大学の谷口吉郎博士の設計で、館内には良寛の遺墨、遺品、文献などを数多く展示する。
和歌、俳句、漢詩、書簡など、書き記した書、良寛を描いた小林古径、安田靫彦、川合玉堂などの絵画、良寛の逸話をテーマにした絵画などを所蔵し、特別展やギャラリートークを企画、開催。
良寛の遺墨と画壇の巨匠による絵画などを通して、温かい心を持ち続けた良寛に触れることができる。敷地内には五合庵を模した庵があり、良寛記念館の南側には、実家の橘屋山本家の墓地がある。
燕市分水良寛史料館
新潟県燕市上諏訪9-9
0256-97-2428
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~16:30 300円
人々に慕われ、自然の中に生きた禅僧であり、詩、歌、書をこよなく愛した良寛の心と、人となりに触れることができる史料館。
越後出雲崎で生まれた良寛は、備中玉島(岡山県倉敷市)の円通寺での修行の後、諸国行脚を経て、少年期の一時期を過ごした懐かしい場所(燕市)に戻り、国上山中の五合庵で只管打坐(雑念を捨て去って、ただひたすら座禅を組み、修行すること)に励み、修行の日々を送った。
後年、乙子神社の草庵(社務所)に移ってからも、生活は清貧そのもので、そうした中、詩歌を愛し、書に親しみ、「良寛芸術」と称される格調高い書を完成させた。
良寛と関わった当地の家々には良寛の遺墨等が家宝として大切に伝えられており、それらを公開する施設として1980(昭和55)年に燕市分水良寛史料館がオープンした。
良寛はいつも手毬を持ち歩き、子供たちと毬つきをして楽しんだと伝えられ、毬つきの詩や和歌も詠んでいる。
地蔵堂町の中村家に遺された良寛遺愛の「飾りまり」や、人生の大半を旅に費やした本荘藩(秋田県)の御用絵師、増田九木が描き、良寛が毬の詩を賛した「毬つきの図」も公開。春と秋の特別展では、重要文化財指定の遺墨などを観ることができる。
良寛の里(良寛の里美術館)
新潟県長岡市島崎3938
0258-41-8110
休館日 年末年始
9:00~15:00 500円
約3万平方メートルの広大な敷地に「良寛の里」が1991(平成3)年にオープンした。良寛の里には「良寛の里美術館」のほか、20世紀の日本の代表的な具象彫刻、絵画を展示する菊盛記念美術館、歴史民俗資料館、茶室の「指月亭」などがある。
良寛の里美術館は、良寛と愛弟子の貞心尼(俗名は奥村ます)の書や詩歌を中心に、ゆかりの文人墨客の作品を数多く展示。良寛をより深く知ることができるビデオルームや、習字・折紙を無料で体験できる体験コーナーもある。
良寛は晩年、島崎(長岡市)の木村家に身を寄せ、足掛け6年、地域の人々と穏やかな日々を送った。自らを厳しく律し、修行を続けてきた良寛が生涯で唯一気を許したといってもいい尼僧、貞心尼と出逢ったのがこの地、和島島崎だった。2人の交流は、良寛が74歳で亡くなるまで続く。
ロビーに面した中庭や、春に茶会が開かれる指月亭までの回廊などに木々が植えられ、鮮やかな新緑、白一色に染まる雪景色など、四季折々の彩りを楽しめる。
建物は2棟を重ね合わせた特殊な造りになっており、奥の大きな棟を良寛、手前の一回り小さい棟を貞心尼に見立てている。歩いて10分ほどの場所に、隆泉寺(良寛墓碑)や晩年身を寄せていた木村家などがあり、良寛ゆかりの史跡が残っている。
滋賀県
観峰館
滋賀県東近江市五個荘竜田町136
0748-48-4141
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:30~17:00(入館は16:00まで) 500円
観峰館は「書の文化にふれる博物館」として、公益財団法人日本習字教育財団が、書道文化の普及を目的に運営するミュージアムで、漢字が誕生するまでの歴史も紹介している。
主な収蔵品は「正しい美しい愛の習字」を基本理念とする書道教育を提唱した書家の原田観峰が収集した中国近現代の書画を中心に、日本の和本、教科書類や、西洋アンティークなど、2万5000点におよぶ。
中国の碑版法帖(碑など金石文の書蹟から採った拓本のうち、保存・鑑賞・学書用に用いられるもの)、瓦当(軒丸瓦の先端の円形または半円形の部分)、石碑の拓本、日本の書画など、書の文化を理解する上で貴重なものを収蔵。
清の康煕帝が揮毫した扁額が掛かる離宮の内部を再現した「避暑山荘展示室」、中国建築風のギャラリーの「書院展示室」、欧米のロココ調の家具、オルゴール、ピアノなどアンティークや資料を集めた「西洋アンティーク室」なども興味深い。「原田観峰記念室」では、原田観峰の作品を展示している。
福岡県生まれの書家で教育者の原田観峰は、幼少期から書道を嗜み、小野鵞堂の作品を手本として書の練習をしていた。実家は酒樽の製造を営んでいたが、経営が悪化して、東京に出て苦学した後、代用教員となり、小野鵞堂の設立した書道研究団体の斯華会に所属して、書を学び続けた。
戦後は福岡に戻って複数の幼稚園を開園し、日本習字教育財団を創立して日本全国で書道教育を推進。海外でも、30を超える国で書道を中心とした文化交流を行った。
1966年から1976年まで続いた中国の文化大革命の影響で、中国書画が多くが中国国外へ売り出されると、原田観峰はそうした書画を蒐集。その後、アメリカやヨーロッパのアンティーク、アフリカ、オセアニアの民族資料なども集め、それらが観峰館で展示されている。
ホームページには、バーチャルでミュージアムを観覧できる館内ガイドの「バーチャル観峰館」、文字の誕生から時代ととも変化した書の歴史を紹介した動画、「石碑拓本の採り方」の動画や、作者名・時代・作品分類などで作品が検索できるデータベースを備えており、書の世界を楽しめる。
観峰館の近くには、五個荘近江商人の古い屋敷がある「五個荘金堂地区」があり、近江商人博物館などのミュージアムがある。
近江商人とは、近江(滋賀県)に本拠地を置く商人のことで、特に近江八幡、日野、五個荘から多くの商人を輩出した。五個荘出身の近江商人は五個荘商人と呼ばれている。
奈良県
奈良市杉岡華邨書道美術館
奈良県奈良市脇戸町3
0742-24-4111
休館日 月曜日(祝日の場合は開館) 祝日の翌日(その日が平日の場合) 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 300円
奈良県吉野郡生まれの杉岡華邨は、奈良師範学校を卒業後、辻本史邑、尾上柴舟、日比野五鳳に師事した。高等女学校、大阪教育大学で書を教えながら、京都大学で文学や美学を聴講し、哲学者で仏教学者の久松真一から禅美術の思想を学んだ。
「王朝文学にあらわれた日本書道について」の研究を進め、平安朝のかな書の美とかなの表現の可能性を追求し、日本独自の書文化であるかな書の流麗にして精神性豊かな世界を追求し、かな書の第一人者になった。
奈良市在住の杉岡華邨から、奈良市が作品の寄贈を受けたのを機に、貴重な作品を永く後世に伝え、書道の発展に寄与するため、書道専門の美術館を2000(平成12)年に開館。ユネスコの世界遺産に登録された元興寺の旧境内に広がる「ならまち」に位置し、白い建物は古い町並みに溶け込み、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
杉岡華邨の作品や資料を「かなの雅」、「大和のうた 万葉の歌」など、期間ごとにテーマを変えて展示しており、書道講座も開催。
わらべ歌に合わせて、文字を書く映像が流れて、かな書きの美を伝えたり、墨色の濃淡や構図で、書の立体性や奥深さを表現できることなどを解説し、書の世界を分かりやすく紹介する。日本芸術院会員、文化功労者となり、文化勲章を受章した。
大阪府
藤田美術館
大阪府大阪市都島区網島町10-32
06-6351-0582
休館日 年末年始
10:00~18:00 1000円
長州藩(山口県)の萩で生まれ、明治期に藤田財閥の創始した実業家の藤田傳三郎は、明治以降、多くの文化財が海外に流出し、国内で粗雑に扱われていることに危機感を感じ、「大いに美術品を蒐集し、かたわら国の宝の散逸を防ごう」と決意して蒐集に乗り出した。
傳三郎の長男の平太郎、二男の徳次郎もコレクションを続けた。1954(昭和29)年に、大阪・網島の藤田邸の蔵を改築して藤田美術館を開館。2022(令和4)年にリニューアルオープンし、ガラス張りの開放的な外観に、内部は旧建物の部材を移築したモダンなデザインとなっている。
藤田傳三郎は、秋田県の小坂鉱山など鉱山業を中核とし、岡山県の児島湾の干拓事業を手掛け、紡績、鉄道、電気、新聞など、日本の近代化を推進する基盤事業に関わり、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の2代目会頭を務めるなど、大阪財界に大きな功績を残した。
傳三郎は、若い頃から古美術への造詣が深く、古代から明治にかけて、絵画、書跡、陶磁器、彫刻、漆工、金工、染織、考古資料など、多岐にわたる文化財を蒐集。国宝9件、重要文化財53件を含む、約2000件のコレクションを有している。
国宝の紫式部日記絵詞、国宝の曜変天目茶碗など、質の高いものが多く、茶道具に逸品が多い。
書関連の国宝では「深窓秘抄」や「大般若経(魚養教、薬師寺経)387巻」を所蔵し、重要文化財では、「古今和歌集巻第十八断簡(高野切)」、「熊野懐紙」、「古今和歌集断簡(筋切 通切」、「治承二年賀茂神社歌合」などを有している。
禅僧の書いた書を「墨蹟」、平安から鎌倉時代に書かれた日本の和歌などを記した書は「古筆」と呼ばれるが、重要文化財の「溪西広沢墨蹟」は、禅宗の僧侶、渓西広沢が記した書。藤田コレクションは、世界屈指の日本・東洋美術のコレクションと言われている。
リーヴスギャラリー小坂奇石記念館
大阪府大阪市東住吉区山坂1-18-30 法楽寺境内
06-6626-2805
休館日 展覧会会期中は毎週月曜日。会期以外は休館
10:00~16:00 300円
リーヴスギャラリー小坂奇石記念館は大阪市東住吉区にある法楽寺の境内にあり、山門を通って左奥にあるギャラリーとホールを併設した美術館で、1997(平成9)年に開館した。僧侶の網代傘をイメージしたギャラリー、手を合わせる合掌の姿をかたどったホール、明王殿に分かれている。
法楽寺近くの山坂を拠点に活動した書家、小坂奇石の記念館として、遺作400余点を所蔵し、毎年11中旬~12月初旬の1ヶ月間展示し、それ以外は絵馬、曼荼羅、仏教美術などの展覧会を実施している。
徳島県出身の小坂奇石は大阪に赴き、黒木拝石に師事し、関西大学専門部で書を学んだ(病気で中途退学)。日本書壇に一時代を築いた現代書道界を代表する書家の1人で、「奇石体」「奇石流」と呼ばれる独自の書風を確立した。
書道研究団体「璞社」の創設者で、奈良学芸大学(現・奈良教育大学)教授などを務め、書家としては、古絵巻、古筆の第一人者、田中親美に次いで日本芸術院恩賜賞を受賞した。
法楽寺の開基は平清盛の嫡子、平重盛と伝えられ、本尊は大聖不動明王。田辺地域にある法楽寺は「たなべのお不動さん」の名で親しまれており、小坂家の菩提寺でもある。リーヴスギャラリーは、現在、活躍している仏教美術関係の芸術家の作品発表の場にもなっている。
松永白洲記念館
大阪府藤井寺市船橋町5-10
090-4306-6109(松永 明)
休館日 火曜日~金曜日(臨時休館あり) 年末年始
10:00 ~15:00 無料 要予約
奈良県から大阪平野を流れる大和川を愛した書家、松永白洲は教育者としての仕事のかたわら、地元で創作活動を続け、『松永白洲書展作品集』などを出版している。
2002(平成14)年に89歳で亡くなったが、白洲の書の愛好家から「どこに行ったら見ることができますか」「元気をもらえる作品を見たい」といった声があり、白洲の育った屋敷を「松永白洲記念館」とした。制作に励んだ座敷の壁に大小の作品が飾られ、心安らぐ空間になっている。
遺作1740点を所蔵し、奔放で多彩な作品を季節に応じて展示する。白洲は自らを「大和川の男」と称し、号の白洲も大和川の砂にちなんでいる。書作品以外にも、薬、医療、鉄道関連の年代物の品々、資料も展示している。
江戸末期に建てられた建物は重厚な造りで、高い天井の太いはりが黒光りし、江戸時代、4代に渡り御典医(ごてんい。将軍家や大名などに仕えた医師)を勤めていたため、薬箪笥、往診に使った駕籠、漢方医学に関する資料、それ以前の庄屋時代の古文書などが豊富に残っていた。
明治時代の当主、松永長三郎が河陽鉄道の支配人を務め、鉄道敷設に貢献したことから、鉄道関係の写真、史料も数多く保存。河陽鉄道は、柏原駅(大阪府柏原市)-道明寺駅(大阪府藤井寺市)-古市駅(大阪府羽曳野市)間の路線で、1898(明治31)年に開業し、近畿日本鉄道(近鉄)最古の鉄道路線となっている。
兵庫県
竹野川湊館・仲田光成記念館
兵庫県豊岡市竹野町竹野422
0796-47-1555
休館日 水曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 無料
https://www.city.toyooka.lg.jp/kanko/miru/1002131.html
北前船の寄港地として栄えた豊岡市竹野は、焼き杉板を外壁にした町並みで、竹野川を少し遡った地域は川湊と呼ばれ、水に浮かんだような美しい町並みとなっている。
300年以上の歴史を持つ旧家で、庄屋(名主)や戸長を受け継いできた「住吉屋」を復元した歴史資料館が竹野川湊館で、地元では御用地館として親しまれてきた。
「住吉」の名は1615(慶長20)年の大坂夏の陣の後に、住吉大社の関係者ないしは周辺の人々が移り住んだことから、この名称になったとされる。1806(文化3)年に伊能忠敬が全国測量の際、この地を訪れて宿泊した。
翌1807年には寛政の三博士の1人、儒学者の柴野栗山が訪れて「睨満」という書を残している。
寛政の三博士は、朱子学が奨励された寛政期に昌平黌(湯島に設立された江戸幕府直轄の昌平坂学問所)の教官を務めた柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉を指す。岡田寒泉の代わりに古賀精里を入れることもある。
住吉屋は、幕末から明治中期まで「廻船業」を営み、北前船の船主として大きな財を成した。10代当主、永田萬蔵が家督を相続した1877(明治10)年頃からは北前船の代わりに、酒造、郵便局、鉱山、製罐所などを営み、竹野の発展に貢献した。
竹野町は、住吉屋の屋敷を歴史資料館として整備し、土蔵には、北前船の活気がわかる船主証明のための鑑札箱、荷物の売買に使われた売買仕切帳、大福帳、棒秤、住吉大社から運ばれた大仏などを展示。かな書道の重鎮として活躍した書家、仲田光成の記念館を併設している。
竹野町出身の仲田光成は、近代かな書道の第一人者である尾上柴舟に師事し、かな書道一筋に励む。
若くして古典を究め、鋭い線条による空間構成で、独自の「大字かな」(大きな文字のかなのことで、展覧会での作品発表が中心になり、書が壁面芸術になったため、現代的でダイナミックなかなの表現を追求した)を確立した。平安古筆を受け継ぎながら、清澄で「仲田流」と称されるかな書美で一時代を築いた。
「普段使いの字が美しくなければいけない」 が持論で、ペン習字や手紙文などの実用の書の重要性も説いている。「百歳現役」を標榜し、2003(平成15)年に104歳で永眠。250点におよぶ光成の書が寄贈され、亡くなる前年の2002年に仲田光成記念館は開館した。
和歌山県
和歌山県書道資料館
和歌山県和歌山市西汀丁61
073-433-7272
休館日 祝日 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 300円
「考える書写書道教育」をモットーとした書家、天石東村は書道教育の近代化を目指し、第1回全国書写書道教育研究大会を開催し、教育書道を振興を図った。小学校、中学校、高校の書道教科書を編集、執筆し、研究資料とその技法講座を数多く残している。
和歌山県書道資料館は、和歌山市に生まれた天石東村の書作品、愛用品などを中心に収蔵、展示する書道専門のミュージアムで、1992(平成4)年に開館した。
明、清時代の古書画、文房四宝(筆、墨、硯、紙の4つの書道具)、古今の有名な書籍など貴重な資料が揃う。
天石東村の書作品が約300点、中国書画、拓本、法帖が45点、国内書家の書作品が約130点。文房四宝では古硯24点、古墨17点、筆筒2点、水滴10点などを所蔵。
書道芸術と書道教育の双方に生涯をかけた東村の作風は、穏やかな性格そのままに温厚な書風に、空海と良寛の要素を加えて、流麗な風韻の書を完成させた。月刊誌『書の教室』や和歌山県中心の書写書道教育誌『書の友』『書苑』などを刊行。書道資料館はさまざまな企画展を開催している。
岡山県
林原美術館
岡山県岡山市北区丸の内2-7-15
086-223-1733
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
10:00~17:00(入館は16:30まで) 500円
林原美術館は、岡山の実業家だった故・林原一郎が蒐集した、日本をはじめとする東アジアの絵画や工芸品と、旧岡山藩主の池田家から引き継いだ大名調度品を中心とするコレクションによって生まれた美術館で、1964(昭和39)年、岡山城址に開館した。
収蔵品は刀剣、武具、甲冑、絵画、書跡、能面、能装束、彫漆、螺鈿、蒔絵、陶磁、金工など広範に渡り、収蔵品による独自の企画展を年4~5回、特別展を1~2回開催している。
林原一郎は水飴製造業を継いでこれを発展させ、日本最大の水飴工場をつくるなど成功を収めるが、学生時代から刀剣の鑑賞、研究に没頭し、日本および東洋古美術全般に眼を向け、精力的に蒐集。
一郎は52歳の若さで亡くなり、遺志をついで、林原健(林原グループ・元代表)をはじめとする遺族によって美術館が設立された。林原株式会社は、現在、ナガセヴィータに社名変更している。
国宝の「太刀 銘吉房」や「洛中洛外図屏風」(池田本)などが代表的な収蔵品であるが、書跡も充実している。
重要美術品(文化財保護法の施行以前、日本国外への古美術品の流出防止を目的として認定した有形文化財のこと)の後奈良天皇宸翰懐紙、後陽成天皇宸翰消息、古筆手鑑「世々の友」のほか、日本古筆手鑑、池田恒興宛織田信長判物(織田信長の書状)、千利休自筆書状、天樹院書状(天樹院は徳川秀忠と江の娘、千姫のこと)、池田光政自筆日記などを収蔵している。
三宅素峰記念館
岡山県倉敷市児島上の町1-14-15
086-489-5666 三宅素峰記念館(携帯直通)
休館日 展覧会により異なる
10:00~17:30 展覧会により異なる
倉敷市福江で生まれた書家の三宅素峰のアトリエだった児島の建物を活用し、長女の四宮京子が館長となって、2015(平成27)年に三宅素峰記念館を開館。三宅素峰の書作品だけでなく、絵画など他分野の展覧会も企画開催している。
素峰は神社の宮司の長男であったが、書の道に進み、指導者として長く教職に就き、近代詩文書を提唱した書家、金子鷗亭が中心となって、1973(昭和48)年に近代詩文書作家協会を設立すると、素峰は翌1974年に岡山県近代詩文書作家協会を創立した(2000年、岡山県近代詩文書道連盟に改称)。
「現代の書」の在り方を問い続けた金子鷗亭は、漢字・かな交じりの詩歌を書で表現する形式を確立し、多くの書家を育成した。
三宅素峰は、種田山頭火や尾崎放哉の自由律俳句などを素材にしており、素朴な書風に特色を持ち、漢字とかなが混じった近代詩文書を創作。ことわざや小林一茶の句など、なじみのある言葉を自由な筆遣いで表現してきた。
素峰は2004(平成16)年に亡くなり、数多く作品を遺す。遺作展が地元で開催されると、反響が大きく、それがきっかけで、三宅素峰記念館を開設。三宅素峰作品展のほか、日本詩文書作家協会展、写真展、藍染展などの企画展を開催している。
景年記念館
岡山県高梁市備中町布賀3543-3
0866-21-1516
休館日 月曜日・火曜日・水曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
10:00~15:00 300円
岡山県の中西部に位置する高梁市備中町出身の書家、川上景年を顕彰し、1997(平成9)年にオープン。川上景年の約700点におよぶ書作品と遺品、愛蔵品を収蔵している。
1903(明治36)年生まれの景年は8歳で上京し、書の道に入り頭角を現した。1933(昭和8)年に大道書学院を開設し、玉川学園の教員、玉川大学教授として後進の指導にあたった。
中国唐代の書家、顔真卿の書を研究し、特に楷書の筆法を分析して正統派の書法を確立。大道書学院は顔真卿の力強さ、安定感を兼ね備えた書法の顔法(顔真卿書法)を継承し指導している書道団体で、本部は東京都中野区にある。
川上景年はアメリカ、中国、ヨーロッパ各国との交流、書道文化の紹介に力を注ぎ、2003(平成15)年、99歳で逝去するまで、精力的に書道の発展に努めた。
景年記念館は、白壁を基調にした和風の落ち着いた雰囲気で、八角形の建物が特色。3カ月ごとに展示替えを行い、膨大な収蔵作品から約20点を展示し、来歴を紹介する。
記念館の隣には、童謡「山寺の和尚さん」やヒット曲「赤城しぐれ」の作詞で有名な民謡詩人、久保田宵二や、岡山彫刻界のパイオニアの宮本隆など、郷土の偉人の遺品や文化遺産、農耕機具や民具を展示する備中郷土館がある。
やかげ郷土美術館
岡山県小田郡矢掛町矢掛3118-1
0866-82-2110
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:00(入館は16:30まで) 200円
岡山県の南西部にある矢掛町は旧・山陽道の宿場町で、中心市街地には往時の町並みが残っており、今も本陣・脇本陣(共に国指定重要文化財)が勇姿をとどめている。
やかげ郷土美術館は本陣・脇本陣の雰囲気を生かした町家風のミュージアムで、16メートルの高さの水見櫓は町のシンボルになっている。
矢掛町出身の書家、田中塊堂、洋画家の佐藤一章の作品や郷土資料を展示している。田中塊堂は漢字の書を学んでいたが、独学で古筆を習得して仮名を究め、細字で書かれていた仮名の表現力を向上させ、現代仮名書壇の基礎を築いた。
田中塊堂は大阪に出て、日下部鳴鶴や比田井天来の薫陶を受けた川谷尚亭に師事して漢字の書を学び、かなは独学で学んだ。
「千草会」を主宰し、季刊誌『かな研究』を刊行。大阪古筆研究会を発足させ、書道を教えながら、教職に就き、高等学校や帝塚山学院大学教授として教壇に立ち、古写経の研究でも知られている。
地元住民や田中塊堂の関係団体から、塊堂作品が矢掛町に寄贈され、1982(昭和57)に田中塊堂記念館が開設された。その後、郷土の洋画家、佐藤一章の作品も含めた「やかげ郷土美術館」が1990(平成2)年に開館した。
やかげ郷土美術館には、書家の石井梅僊、日本芸術院会員、文化功労者で、文化勲章受賞者の書家の高木聖鶴、田中塊堂の弟子で、女性書家の先駆的存在の山田勝香の作品もある。
奈良時代に矢掛町周辺を支配していた下道圀勝の子として生まれたのが吉備真備で、やかげ郷土美術館には吉備真備の像がある。
吉備真備は遣唐使として多数の書物を持ち帰り、唐の制度や文化を日本の政治・文化に反映させた政治家で学者。唐で、経書と史書のほか、書、天文学、音楽、兵学などの諸学問を18年に渡って学び、日本に戻ってから、晋や唐の書を広めている。
広島県
ふくやま書道美術館
広島県福山市西町2-4-3
084-925-9222
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:30~17:00 150円
福山市出身の書家、栗原蘆水が蒐集した中国の明、清時代の書画や文房四宝(筆、墨、硯、紙)や印材、筆筒、水滴など1754点の貴重なコレクションを寄贈された福山市が2003年、ふくやま書道美術館を開館した。
2020年に商業ビルの営業終了により一時閉館し、ふくやま美術館の2階に移転し、リニューアルオープンしている。
ふくやま書道美術館の所蔵品には、栗原コレクションに加え、福山市ゆかりの書家、桑田笹舟、谷邊橘南、宮本竹逕、桑田三舟(桑田笹舟の三男)、村上三島などの書作品があり、多彩な書の展覧会を開催。落ち着いた雰囲気の中で、書画や文房四宝を鑑賞できる。
小野道風、藤原行成とともに「三跡」の1人に数えられる藤原佐理の最晩年の書「頭弁帖」を所蔵しており、重要美術品に認定されている。
重要美術品とは、文化財保護法の施行以前に、日本国外への古美術品の流出防止を目的に認定した有形文化財のこと。頭弁帖は、佐理が天皇に奏上したところ、天皇の筆頭秘書官である頭弁によって留め置かれていることに、嘆きや不審に思う心情が綴られた書だ。
栗原蘆水は百貨店に勤務していたが、書の道に進み、「現代書道の巨匠」と呼ばれていた村上三島に師事した。大阪で書道文化の普及や後進の育成に尽力し、日本を代表する書家として活躍した。
桑田笹舟は、日本かな書道界を牽引し、現代かな書の先駆けとなり、谷邊橘南は京都で活躍したかな書家。宮本竹逕はかな書の大家で、日本書芸院6代目理事長。桑田三舟は古今集など王朝の優美なかなを研究し、創造的作品を揮毫している。
福山市は書が大変盛んな町で「書のまち」と呼ばれており、漢字、かな、前衛の3つの分野で書家を輩出し、福山市出身の書家が中央書壇でも活躍してきた。
ふくやま書道美術館のホームページでは、所蔵している日本の書画、中国の書画、備後ゆかりの書家、文房四宝が写真付きで紹介されており、藤原佐理と重要美術品〈頭弁帖〉や桑田三舟について解説した「まんが」を公開している。
山口県
松陰神社宝物殿「至誠館」
山口県萩市椿東1537 松陰神社境内
0838-24-1027
年中無休
9:00~17:00(入館は16:30まで) 500円
吉田松陰が江戸・伝馬町の獄舎で亡くなった1859(安政6)年から100年目に当たる1959(昭和34)年に、吉田松陰の精神、思想を普及する拠点として、松蔭の書を展示する「松陰遺墨展示館」が松陰神社内に誕生した。
松陰百年祭記念事業の一環だが、2006(平成18)年に閉館。松蔭が処刑されて150年目の2009年、松陰の遺墨や遺品類などを展示し、松陰の思いを現代に伝える松陰神社宝物殿「至誠館」が開館する。
無料ゾーンでは、松陰の生涯、萩市内の史跡を古地図や写真を使って紹介するパネル展示などがあり、実物が展示されていない宝物に関しては、デジタル展示の「探求の文庫」で自由に検索でき、写真や解説にアクセスできる。ミュージアムショップでは所蔵宝物図録、各種書籍、オリジナルグッズなどを販売している。
有料展示室では、松陰神社に伝わる松陰の遺墨、遺品類など、貴重な宝物を分かりやすく展示。「留魂の間」では、刑死する前日に門下生・塾生に書き遺した遺書『留魂録』を展示し、全文を紹介。
『語諸友書』『永訣の書』も公開し、松陰の思いを伝える。『留魂録』に込められた意思は志士たちに受け継がれ、倒幕への原動力となった。
吉田松陰が残した珠玉の言葉から25を選出し、松陰神社境内の「学びの道」の両側に高さ1メートルほどの句碑を、吉田松陰殉節160年の2019年に新設した。
松陰神社の境内のマップと場所の案内をした『学び歩きマップ』は至誠館、神社の授与所、吉田松陰歴史館の3カ所で無料で配布。松陰の遺した言葉から選んで句碑にした25の名言集『学びの道 松陰先生語録』は300円で販売している。
徳島県
徳島県立文学書道館
徳島県徳島市中前川町2-22-1
088-625-7485
休館日 月曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始
9:30~17:00 310円(常設展)
徳島県立文学書道館は、文学館と書道美術館を複合したミュージアムで、文学常設展示室、書道美術常設展示室、瀬戸内寂聴記念室などがある。文学と書道に関する作品や資料の収集・保存や調査研究を行い、展示、紹介し、講座や実習の開催など、文化活動の場も提供している。
徳島生まれの文学者には瀬戸内寂聴、冨士正晴、武原はん、徳島で育った文学者には北條民雄、賀川豊彦などがいる。
徳島生まれの書家では幕末の三筆の1人の貫名菘翁のほか、小坂奇石、田中双鶴がおり、徳島ゆかりの書家には柴野栗山、中林梧竹(明治の三筆の1人)などがいて、作品やゆかりの品々を展示している。
小坂奇石の書作品300点余とコレクションと蔵書などが、娘の小坂淳子から寄贈され、800点余の書道関係の資料を所蔵しており、奈良市にある自宅の書斎を再現した「奇石窟」も設置されている。
徳島県海部郡美波町(旧・由岐町)出身の小坂奇石は、「奇石体」と呼ばれる独自の書風を確立し、奈良教育大学や高野山大学で教授を務めた。書家としては、古絵巻や古筆の第一人者、田中親美に次いで、日本芸術院恩賜賞を受賞。大阪市にはリーヴスギャラリー小坂奇石記念館がある。
徳島県立文学書道館では、書道企画展の開催や、書道関連のセミナー、展示作品の解説、書家を招いた講演も行っている。
愛媛県
村上三島記念館(今治市上浦歴史民俗資料館)
愛媛県今治市上浦町井口7505
0897-87-4288
休館日 月曜日(祝日の場合は原則翌日) 年末年始
9:00~17:00 520円 「大三島アートめぐりチケット」は、3館チケットと5館チケットの2種類がある。
3館チケットの対象施設は、ところミュージアム大三島、伊東豊雄建築ミュージアム、岩田健母と子のミュージアムで、1000円。
5館チケットの対象施設は、村上三島記念館(上浦歴史民俗資料館)、大三島美術館、ところミュージアム大三島、伊東豊雄建築ミュージアム、岩田健母と子のミュージアムで、1500円。
本州と四国をつなぐ架橋「瀬戸内しまなみ海道」の中央部に位置する大三島(上浦町)に村上三島記念館があり、1982(昭和57)年に上浦町歴史民俗資料館として開館。
1990(平成2)年に、展示室と収蔵庫を拡張するとともに、600席の多目的ホールを持つ上浦芸術会館を増築した。
大三島で生まれで、「現代書道の巨匠」と呼ばれる書家、村上三島の尽力で、西川寧、安東聖空、日比野五鳳、青山杉雨、小坂奇石といった当時の日本を代表する書家から書作品の寄贈を受け、現在では絵画(川端龍子など)も含めて所蔵数は約4000点と、他に類を見ない書のミュージアムとなっている。このうち村上三島の作品は約900点。
村上三島は、幼少期に両親とともに大阪府三島郡吹田町(現・吹田市)に移り住んだ。号の三島は、生まれ故郷の大三島と、大阪府三島郡という二つの地名に由来し、故郷への思いを物語っている。
1945年に、関西書壇の隆盛に貢献した辻本史邑(日本書芸院初代理事長)に師事し、日本有数の書道団体、日本書芸院の創立に参加した(三島は5代目理事長)。
日本の書道界は、唐以前の中国の書体を重んじていたのに対し、三島は、明末・清初に活躍した王鐸の連綿草(切れ目なく、延々と続け字にする書法)を研究し、篆書、隷書、楷書、行書、草書の五体を駆使して、躍動感に充ちた格調高い中に、温かさを加味した独自の書風を確立した。
五体、さらに日本独自のかなを書き分けることができる書家で、調和体(漢字とひらがな、線の太さ、動きのバランスを調和させて詩文作品を書いた書)の提唱者でも知られる。
書道界全体の指導者、書壇の重鎮として、後進に大きな影響を与えた。日本芸術院会員、文化功労者となり、文化勲章受章者でもある。
村上三島記念館には、古墨や硯などの三島コレクション、愛用の筆や落款などの遺品も展示。歴史民俗資料室では上浦町の歴史、産業、文化を紹介している。2005(平成17)年に村上三島が亡くなり、2007年には大阪府高槻市にあった三島のアトリエを移設して再現した。
今治市河野美術館
愛媛県今治市旭町1-4-8
0898-23-3810
休館日 月曜日(祝日の場合は原則翌日) 年末年始
9:00~17:00 310円
今治市出身で、1920(大正9)年に帝国判例法規出版社(現・テイハン)を創業した河野信一は、古今の書跡や典籍類を収集していたが、1968(昭和43)年、文化財と建物の建設費を今治市に寄付し、河野信一記念文化館としてオープンした。
その後、一部を改築し、現代美術なども展示できるようにして、館名を今治市河野美術館に改称している。
平安時代から現代に至る、俳人、歌人、画家、書家、茶人、僧侶、武将、政治家、文学者など、多様な分野で活躍した人物の書状、屏風、掛軸、古文書、典籍など約1万点を収蔵し、常設展、企画展を開催している。
金葉和歌集(伝 藤原為家)、茶湯秘伝書(古田織部)、源氏物語図屏風(伝 土佐光信)、松尾芭蕉の画賛、歌川広重の木版画のほか、朝倉義景、毛利元就、伊達政宗、松平定信など、武将や幕府の要人、大名などの書状も展示。
茶室の「待庵」・柿ノ木庵」は、河野信一の邸内にあった建物を移築したもので、茶庭(灯籠や飛石などを配置し、茶室と一体に造られた庭)に腰掛待合(茶会に集まった人を待たせる際の休憩所として、茶室の外の露地に設けられた腰掛)が設けられた本格的な茶室。
茶室の待庵は、山崎の合戦で豊臣秀吉が本陣とした妙喜庵の茶室、待庵(国宝)をそのまま写したもので、千利休の茶室と言い伝えられている。
高知県
安芸市立書道美術館
高知県安芸市土居953-イ
0887-34-1613
休館日 月曜日(祝日の場合は開館) 年末年始
9:00~17:00 330円 隣接する安芸市立歴史民俗資料館との共通券は550円
江戸時代、土佐藩家老の五藤氏が居住した安芸では、家臣のための塾、秉彜学舎を創設し、寺子屋にも力を入れて読み書き、学問を奨励した。その中から優れた書家を数多く輩出している。
明治期、川北村(安芸市)出身の川谷横雲は、「日本近代書道の父」と評された日下部鳴鶴に師事し、帰郷後は師範学校教員などを勤め、高知県内の書道の普及に尽くした。
弟の川谷尚亭は、漢魏六朝の碑版法帖(金属や石などに記された書蹟から採った拓本のうち、保存・鑑賞・学書用のもの)を研究した近藤雪竹に師事し、後に「現代書道の父」と呼ばれた比田井天来らの薫陶を受けた。
川谷尚亭は、大阪で甲子書道会を興し、『書之研究』『書道史大観』を発行し、書学の体系化を図り、近代書道の先駆的役割を果たした。
明治から大正にかけて、川谷横雲や川谷尚亭をはじめ、安芸町を中心に多くの書家を輩出しているが、昭和になり、現代書道に大きな足跡を残したのが安芸町(安芸市)出身の手島右卿だ。
手島右卿は、1958(昭和33)年ブリュッセル万国博覧会に「抱牛」を出品し、東洋的な精神性と現代感覚を融合した「象書」(少ない文字に言葉の意味を込めて、創造性豊かに書を創作する)を創始し、書道芸術の国際的な評価を高めた。
手島右卿の弟の高松慕眞や、手島右卿の末弟の南不乗も書家として活躍した。南不乗の尽力により、1982(昭和57)年、全国初の公立書道美術館として、安芸市立書道美術館が安芸城跡に開館する。
安芸市立書道美術館は、土居廓中(土居地区にある旧武家屋敷が多く並ぶ町並みのこと)の安芸城跡にあり、城郭風の白壁の建物は趣きがある。
江戸期の藩政時代から書が盛んで、大正後期から昭和にかけて、川谷横雲・川谷尚亭兄弟、手島右卿・高松慕眞・南不乗の3兄弟など、優れた書家を輩出し「書道の里 安芸」と呼ばれている。
約1600点の作品を収蔵し、100点程度を常設展示する。日本書壇を代表する作品の展示だけでなく、書道文化の継承と発展を目的とした「安芸全国書展」や「全国書展高校生大会」を毎年開催。全国の一般書家、著名な書家、物故書家の作品も紹介し、書道に関する資料や書籍も充実している。
佐賀県
小城市立中林梧竹記念館
佐賀県小城市小城町158-4 桜城館2F
0952-71-1132
休館日 月曜日 祝日(こどもの日、文化の日を除く。該当祝日が月曜日の場合は翌日) 年末年始
9:00~17:00 200円
佐賀県の中央部に位置する小城出身の書家、中林梧竹の作品や遺品を紹介するミュージアムで、梧竹の作品約700点と書道具などの遺品約50点を所蔵。3カ月から4カ月に1度の割合で展示替えをしながら、40点ほどの作品を公開している。
中林梧竹は1827(文政10)年に小城藩士の家に生まれ、幼い頃から書の才能を発揮。10代で江戸に遊学し、幕末の三筆と称せられる市河米庵や書画家で詩人の山内香雪に書を学んだ。幕末の三筆は他に、巻菱湖と貫名菘翁を指す。
藩士時代にも依頼を受けて、神社の鳥居や燈籠に揮毫し、明治維新後は書に専念し、1882(明治15)年、中国に渡って書を学び、漢、魏、六朝時代の碑の拓本を収集。2年後に帰国してから東京に居を構えた。
書は篆書、隷書、楷書、行書、草書の五体に渡り、長鋒柔毫(穂が長く、柔らかいため、扱いにくい)の筆を駆使して、規模の大きい闊達な作品を数多く残した。
各地を旅しながら多くの作品を残し、1913(大正2)年、三日月村(みかつきむら。現・小城市三日月町)で、87歳で亡くなった。著書に『梧竹堂書話』がある。
中林梧竹は日下部鳴鶴、巌谷一六とともに、明治の三筆、明治の三大書家と呼ばれている。ちなみに巌谷一六の6番目の子供が童話作家の巌谷小波である。
小城市の複合文化施設、桜城館の2階には、小城の石器時代から現代までの歴史、文化、産業を紹介、展示する「小城市立歴史資料館」があり、こちらは無料。
小城市教育委員会が作成した「梧竹マップ」を中林梧竹記念館のカウンターで無料配布しており、中林梧竹記念館のホームページの「梧竹デジタルミュージアム」の「中林梧竹とは」で、マップを見ることができる。
梧竹マップには小城市内に点在する中林梧竹ゆかりの地、揮毫した書が見られる場所など、24ヶ所を紹介。小城羊羹の老舗、村岡総本舗の店舗にも梧竹の書が掲げられている。
梧竹は82歳の1908(明治41)年に、現在の三日月町金田に、生涯の信仰の集大成として三日月堂(梧竹観音堂)を建立しているが、これもゆかりの地になっている。
沖縄県
★藤沢秀行記念館
沖縄県南城市知念久手堅304-1
098-949-7688 蒼SOU CAFE(そう かふぇ)
休館日 水曜日 年末年始
10:00~18:00 無料 現在、閉館
沖縄県南城市にある世界遺産、斎場御嶽に近い場所に、囲碁棋士の藤沢秀行(しゅうこう)の書を展示するミュージアムがあった。
白い外壁で高級感溢れる建物の2階にカフェ「蒼SOU CAFE」があり、オーナーと親交が深かった藤沢秀行の記念館を2013(平成25)年に併設してオープンした。カフェのテラスからは目の前に神の島、久高島が見える。
藤沢秀行は、棋聖戦6連覇、史上最年長タイトル保持者などに輝かしい実績を持つ、昭和を代表する囲碁棋士で、酒、ギャンブル、借金、女性関係など、破天荒な生活でも有名だった。
癌の手術以前は、アルコール依存症の禁断症状と戦いながら対局を重ねていた。「最後の無頼派」とも言われた藤沢の人柄を愛する人は多く、その書も人気があった。
安芸の宮島、厳島神社の鎮座1400年に際し「磊磊」の文字を奉納し、各地で個展が開かれていた。中国でも人気が高く、亡くなった翌年の2010年には、北京市に「藤沢秀行記念室」が開設されている。