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どこにでもいる大学生の私はどうコロナと向き合うか

ただ自粛しているだけなのに「しんどい」

今の私の生活はおおむね平穏だ。日常を保つために日々戦ってくださっている多くの業界の方が私の生活の平穏を支えている。

だが、しんどい。

こんなことを言っていては日々を支えてくださっている人にあまりにも申し訳ない。情けない。確かに私は日本中を探したらどこにでもいる、ありふれた大学3年生の一人である。特筆すべき能力もない。今までの20年間、それなりにいろんなことがあったが、私のような無力な学生にこの状況が何とかできるとは思えないし、自分にできることは毎日できる限り家から出ず、できる限り健康に生きることのみである。

毎日がなんだかよくわからない社会の渦に巻き込まれつつ飛ぶように過ぎていく。情報はほんの数時間で入れ替わり、SNSでは人の心がささくれていくのを、自分自身がささくれていくのを、毎日毎日痛感する。3年になれば履修ができる、と楽しみにしていた大学の授業はどんどん延期になり、ついに先日、オンライン授業での講義が決まった。

「コロナ」というなんだかよくわからない、ものすごく大きなものに対して「私」という一人の人間はあまりにも小さく、弱く、何も持たなさ過ぎているのである。

そして、私はこのことを痛感するのがびっくりするほど遅いのだ。大学から課外活動の自粛を命じられてもう一か月を過ぎようとしているのに。自粛期間を休みと勘違いし、家でのんびり好きなことばかりしていた。今更そんなことに絶望しているなんて正直自分は何をやっていたのか。神様もドン引きである。

(とても今更なことのように思うがこの文章は自粛期間を創意工夫をもって少し楽しく過ごしている人を批判するものではない。私はエンターテイメントがなければ人は死んでしまうと思っているし、何よりこの状況で少しでも明るく、楽しく生きようと努力している人のことを私は尊敬している。これはあくまでも、「私」という個人があまりにものうのうと生きていたことへの反省をつづり、この先の長い自分との戦いにどのようにして勝利するか、を言語化した文章である。)

どうして「しんどい」のか

それは当たり前で簡単なことだ。その「しんどい」は前述したとおり「自分の無力さの痛感」にある。

この膨大な「なにもしない時間」をなににも生かせていないから、私はしんどいのだ。それは自分と今まで向き合ってきた中の新しい課題である。私は私に対する認識を改めた。私が生み出せるものは、今の時点ではとても少ない、と。逆説的に言うと私は世界を自分のできることで少しでもよりよくしたいと思っているし、物事はプラスへ向かうことができるとどこかで信じているのだ。小さいこどものように。

私のなりたい私は「生み出せる私」だ。あがいても、もがいてもなにも生まれないかもしれないが、それはこの先の自分が決める、だからまあいい、と思うことにしている。

「生み出す」人になるために

さて、せっかくの膨大な時間を無駄にしたくはない。コロナがどんなに憎らしくとも、自分にできることは相も変わらず、自宅にいて、健康に過ごすこと、この一点のみなのだから。

だから私は自分を磨く。自分を見つめる。唯一自分が思うように使える言葉を使う。その上で自分がやりたい、興味を持った、ことをとにかく徹底的にやる。

・ヘルシーなひとになる(体を動かすため。このまま家でデスクワークばかりしていたら、コロナに対抗するために自分ができる「健康でいる」ということすら危ういと感じたため)

・本を読む(積読消化はもちろん、コロナを通じて私自身が社会のことを知らなすぎると感じた。そういった意味でアウトプットを行う)

・自分のHPを作ってみる(半年前からやっているがうまくいっていない。これを機に決着をつける)

・英語に触れる(留学を一年前にした時の意識が大きく薄れている。英語の美しさを体験できるようになる)


もっともっとやりたいことは増えるし、触れるものも増えるだろう。今私はこの「おうち時間」を使って自分というコンテンツの充実化を図る。この先周りの人が「しんどく」なったときに、私というコンテンツがどこかで世界をプラスにする力を少しでも持つために。



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