
他者がかけてくれる言葉、他者に自分がかける言葉から、自己理解を深めていく。
今年に入ってから、深い受容力をもった方たちに出会えたことが、私にとって大きな収穫でした。
受容力の高い人は、人を丸ごと包み込めるんだ、とそのような在り方を見せてもらえることで、私の人生の方向性がより明確になりました。
私は、昭和の時代に育ったせいか、母の影響か、
人の悪口は言ってはいけません、
相手の立場に立ってものを考えなさい、
みんなのことを考えられる人になりなさい、
他人の痛みがわかる人になりなさい、
と言われて育ちました。
大人しかった幼少期の私は、
「お友達にこんなことされて嫌だった」
とその場では何も言えず、帰宅してやっと母に言うと、
「そう、それは嫌だったね。」
という共感はないまま、
「お友達にはお友達の理由があるのでしょうから、そのお友達の立場に立って考えてごらんなさい。」
と言われました。
「私が何かよくないことをしていたのかもしれない。」
私が考えていきつく先は、
「私に原因があるんだ。」
という自分を責めることでした。
そして、母といつもそういう関わりが続くと、
自分のなかに湧いた感情はバツで、相手の感情は◯になり、それはそのまま、私の思いは正しくなくて、相手の思いが正しいんだ、という捉え方にになっていました。
自分の感情は取るに足らないもので、他者の感情こそ大切なんだと思い、他者に共感し自分の気持ちは無意識に蔑ろにしていました。
そうして思春期までは、親や周囲の期待に応え、学級委員をしたり、習い事ではリーダーシップを発揮して周囲をまとめ、母が希望する進学校の高校に合格した途端、私は拒食で何もできなくなる、という過去がありました。
自分の本当の気持ちをずっとないものにスルーしてきているから、自分が何を感じているのかよく分からない。
いつも頭に浮かんでいたのは、
生きている意味がわからない、
私は無価値だ、
誰からも愛されていない、
こんなに苦しいのに、なんで生きなきゃいけないんだろう、
そんなことばかりでした。
15歳で行き詰まった私は、無意識に自己探究の旅をはじめていました。
なぜ生きるのか?なんのために生きるのか?どこかに応えがあるのではないか、という切望感から、貪るように本を読みました。
たくさんの先人が、優れた書物を書き記してくださっていたおかげで、後ろ向きながらも生きる支えにしていたのかもしれない、と今感じます。
また、家族以外で心療内科の先生、カウンセラー、近所のおばさんなど、出会った大人が教えてくれたことは、
何をしてもしなくても、
あなたの価値は変わらない、
あなたは自分の感情を感じていい、
ということでした。
私が仲良くなっていた近所のおばさんと話していて、心底びっくりしたのは、
「こんなことがあって、嫌だったんだ。」
という話しをおずおずとしたときに、
「そんなやつのいうことは無視しなさい!
あんたみたいな言い返さない子はいい餌食になるだけなんだから、はっきり、きっぱりやめて!と大きな声で言うのよ。意地悪な子に負けちゃダメよ。自分の身は自分で守らなきゃ。」
と言ったときでした。
私の味方になってくれる人がいた、と涙が出ました。おばさんは、私が涙を流すほど嫌なことだったんだ、とよりプリプリ怒ってくれていましたが、そうではなく、私のことを丸ごとうけとめ、庇ってくれようとする味方の大人がいる、愛されている、と言う嬉しさで涙が止まりませんでした。
近所のおばさんの、やめて!と声をあげさなさい、自分を守りなさい、は、私が母親から言われてきた、他者のことをまず考えなさい、と言う教えとは真逆でした。
そうして、親の教えを真面目に守りすぎていたから、私は潰れてしまったんだと気づいていき、だんだんと自分の感情を感じる練習をしていきました。
でも、ずっとやらないできたから全然うまくいきません。それは私には難しいことでした。
大人になった今でも、自分の感情を感じるのが下手だからこそ、振り子が逆に行き過ぎると、モヤっとした気持ちを掬いあげようとするあまり、なんだか攻撃的なNOの言い方をしてしまったり、スマートにサラッと自分の意見を言う、はまだこなれないと感じています。
姪の子と一緒に食事をしていて、夫が私に「コーヒー」とカップを渡すとき、すかさず、「自分が飲みたいなら、自分でやりなよ。」と夫に毅然と言うとき、あっ、私の師匠はこの子だな、と感心してしまうことがあります。
感性の鋭い子どもは、周りをよく見ていて、大人がスルーしていることを、「それ、なんで?」と言うとき、この小さな疑問や質問にきちんと目を見て、自分なりの応えを持ち合わせている大人でありたい、と常々感じています。
なぜなら、私は、世の中の建前や常識、通念的な正しさみたいなものではない、生身のひとりの人としての大人の言葉にこそ、私は生かされてきた、命を吹き返してきた、と言っても過言ではない、と思うからです。
そうして、深い受容力を持った方は、
「ほんとだよね。」
「そうだねえ。」
とまず他者に共感できる。
間違っても、「あなたのその考え方が問題を引き起こしています」などの正論を言わない。
なぜなら、まず自分の感情に気づいて受容し、自分の心にスペースができてからでないと、他者に思いを馳せる、他者受容までいかない、という順番を心得ているからだと思います。
自己理解を深めるのは、だから私は悪くない、あの人が悪い、と他者攻撃をするためではなく、自分のことがよくわかるほどに、他者のこともよく観えてくるので、他者理解が自然と進むからだと感じています。
だから、他者攻撃する必要がなく、それどころか、私の姿に気づかせてくれたありがたい人になります。
他者がかけてくれる言葉を自分がどう受け取るのか、他者に自分がどんな言葉をかけているか、を注意深く観察することは、深い自己理解に繋がります。
結局、他人との関係は、そのまま自分との関係の延長に過ぎない、とつくづく思います。
そんなことを心に留めながら、この年末年始も他者との会話を楽しみたいと思っています。
誰もを癒す、
「そうだね」
という魔法の言葉をたずさえて。
お読みいただきありがとうございます。