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強さと優しさをたずさえて。
強さと弱さを同居させる、
両方あっていい、
両方あるからこそいい、
それが私にはものすごく難しいことだったのだなあ、と感じることがありました。
お腹が張って苦しいとき、手を当てて何が言いたのか、お腹のニーズを聴いてみました。
「どうしたの?
話しを聴かせて。」
「哀しい
今さら遅いよ
なんでもっと早く来てくれなかったの?
助けて欲しかった
みんなのこと助けてきたけど
私は助けてもらえなかった
助かったよって言われたかった
ありがとうって言われたかった
褒められたかった
いい子だね、
ここにいていいよ
って言われたかった
みんなのお世話ばかりじゃなくて
わたしの話しをきいてほしかった
みんなを救いたかった
みんなが仲良くして欲しかった
でも役に立たなかった
涙とともに、お腹のなかのチャイルドがぽつりぽつりと言葉を吐き出して、
深い呼吸とともに安堵していました。
言っても大丈夫なんだ
言ってもバカにされない
言っても怒られない
言ってもいいんだ
大丈夫なんだ
大丈夫なんだね。
お腹の張りが和らぎ、深い呼吸とともに身体全体が緩んでいく。
強くいなきゃやられちゃう!
緊張していたチャイルドが、穏やかに健やかにリラックスしている。
私は、自分が弱いと感じていたからこそ、強くなきゃいけないと、本当のそのような弱さや恥の感情をしっかり味わうことは意外に避けていたようでした。
認めているようで認めていない
それくらいその感情を認めてしまうのは「怖い」ことだったのかもしれません。
だから夫に、あなたは優しいねとか、よく気がつくね、とか言われるより、あなたは強い、今まで出会った女性のなかでも最強だよ、と言われることを、1番の褒め言葉に感じていました。
それほど強くなりたい!と思ってそこを無意識に目指してきていたのでしょう。なんだか哀しくなります。
でもそれは本当の自分のなかにある弱さを認めたものではなく内側で葛藤していて、それだと外側でも同じような現象を起こしてしまいます。
分かりやすくするため具体的に言うと、かつての私は自分の「正しさ」を振り翳して、夫を論破してしまっていました。
気持ちがいいのは、自分の言い分に酔いしれている論破するまでの一瞬であり、夫の哀しそうな、寂しそうな顔を見たとき、自分のやっていることは間違っていると確信しました。
これは言い過ぎだと気づいて謝っても、傷つけてしまった、という事実に私は落ち込みました。
応援したくて話しを聴いているのに、結果的に真逆なことをしてしまった、と。
が、セラピーなどで内観していくうち、自分のなかで対立した感情があるままの状態であるうちは、他人にそれを投影してしまう、1番身近な人にこそ、ということがよく観えてきました。
自分の本当の弱さを認めていないから、夫の弱さも認められない、受け入れがたいから、無意識にそんなんじゃダメだよ、という「正論」で固めてしまっていたのです。
自分自身の弱さこそをしっかりと認め、内包できたとき、本当の強さと優しさで相手も包み込めるんだ、ということがわかってきました。
それと同時に本当に強い人は、ものすごく優しい人なんだ、ということをつくづく感じています。
私がメンターだと思っている方々は、本当に優しくて強いと感じます。
男性でも女性でも、相手を包み込む深い受容力と、積極的に他人のために動ける力を合わせ持ちながら、泰然と使命に向き合っていらっしゃる。
また、弱さを抱えてしっかり向き合ってきた人ほど、いずれは強くなる。
この言葉が思い当たる方は、きっと優しい方であり強い方です。
お読みいただきありがとうございます。