人にどう思われるかより、自分がどうしたいか。
本来当たり前に思える、タイトルに書いたことが、昔の私は本当にできていなかったなあ、と昨日感じることがありました。
昨日は親戚の子たちと会うために1日郊外に出かけていましたが、せっかく近くまで来ているなら、とお墓参りも済ませました。
お墓は夫とはじめに住んでいたマンションのすぐ近くにあるので、4年前くらいは短期間でしたが、住んでいた場所でもありました。
駅に降り立つと、都内だけれど何かのんびりとした、忙しさを感じさせない街だよなあ、と思いました。
とは言え、駅を降りてすぐに巨大なタワーマンションがあり、私たちが引っ越したあとも続々と大きなマンションが新しく立っています。
人口はますます増えて、駅はいつも混雑しています。
それでも、何か都会の垢抜けた雰囲気はない、独特の緩さがありました。
が、湘南の、のんびりとした海近くに住んでいた私は、夫と結婚して都内の人の多さ、建物の多さ、物の多さに何か緊張する日々でした。
マンション暮らしも慣れなくて、巨大なマンションのなかにはエレベーターがいくつもあり、どれに乗ろうか、最初の頃はウロウロしてしまっていました。
エレベーター内で、どの程度ご挨拶したらいいのかしら、などといつも思っていました。
マンション内にはたくさんの人が住んでいるにも関わらず、エレベーターで軽く会釈するくらいで、ほとんど住人と言葉を交わす機会もないまま、引っ越しました。
人は周りにたくさんいるのに、深く関ることはない、距離感の遠さに、一層緊張と孤独を感じていたように思います。
お互い再婚で、夫は以前からそこに住んでいたため、どなたか夫の知り合いに見られているかもしれない、という、自意識過剰が私の中に発動していて、余計にいつもどこかで緊張していたような気がします。
新しい生活を楽しむぞー、イェーイ!
より、
夫はずっとここに住むつもりなのかしら?私はなんとなく緊張してしまって嫌だな、とか、他人にどう思われるかしら?みたいに他人軸で受け身であり、
自分はどうしたくてどうありたいのか?
この新しい場所でどう自分主導で動いていくか?
その意識が極めて薄かったなあ、と今は思います。
が、その頃の私は、自分を大きく変容させたい!!という意識がまだ少なく、それらの経験を経て、誰とどの場所にいても、もっと自分主導の人生にしていかないとダメだ、と感じる機会が増えていき、今のように自分軸を取り戻すことを考えようになったと感じます。
ある意味、受け身で居心地があまり良くない、という経験を重ねればこそ、自分主導の人生にしていきたい、と思えたので、そのプロセスは無駄ではない、すべての経験は貴重だと思います。
が、久しぶりにそんながっつり受け身な姿勢で自分が住んでいた街に降り立つと、
緊張感を感じさせない、緩い穏やかな街なのにな、と今は微笑んでしまいます。
そのあと住んだ都内のマンションが、オフィス街のどまんなかにあり、忙しなく、緊張感を感じさせる場所だったので、一層そう思のかもしれません。
また、次々と住む場所が移る機会があればこそ、周りに影響されてばかりいる自分を変えていきたい!と思うきっかけをくれたとも感じます。
自分の内側が外側の世界をつくっている。
外側に感じるものは、自分の内側の投影。
以前住んでいた街に降り立ち、こんなことを感じました。
冒頭の
人にどう思われるか?
より
自分がどうしたいか?
そこにいつもフォーカスしていたい、またそのような人が増えていき、満たされた人が多い社会であって欲しいと願います。
お読みいただきありがとうございます。