生きることは選択の連続で隠陽あって儚く美しい。
昨日、夫の会社に午前中だけ手伝いに行きました。
そして、まだ残量はたっぷりあるのだけれど会社ではいらない電池がいつも業務上たくさん出るのでもったいないな、と感じていました。
残量もたっぷりあるし、故障があるわけでもない、まだ生命を使い果たせる電池たち。
何か最後までその製品としての生命を全うさせたい、といつも思っていました。
昨年秋頃、「電池いりませんか?」と近隣で事情を話して声をかけ、喜んで引き取ってくれるところとは好循環が続いています。
が、他の場所では断られたこともあり、傷つきやすい私は毎回「いりませんか?」と声をかけるときはものすごいドキドキします。
忙しいときだけのバイトである私の勝手な発案なのでうまくいかないと、余計ドキドキします。
が、休日の昨日、いつも引き取ってくれる場所はお休みなので、休日でもやっているところは公共の場所だな、と近隣の女性センターに持っていきました。
すると、以前一度だけ私が持っていったことを職員の方が覚えてくださっていて、「以前お持ちいただきましたよね?電池はマイクなどいろいろ使うのでありがたいです。」と言ってくださり、ホッとしているうち大量の電池を引き取ってくれる運びとなりました。
あと少しの残りの電池も、帰りに知り合いのいる場所で快く引き取ってもらい、気持ちよく帰途に着くことができました。
これは小さな体験ですが、
ちょっと勇気を出して声をかけるか?
ちょっと躊躇うから声をかけないか?
大きな決断でなくても、私たちは日常的にこのわずかな違いが、自分が見たい世界を見れる流れを創っているのかもしれない、と感じました。
計画的にやらなければいけない責任や義務、対価が関わることは否応なく行動しても、まあ、どっちでもいい、やらなくてもやってもいいものほど、何かそこに儚く美しいものがあるように感じます。
例えば、
場所がわからず困っている高齢者が目の前にいたとき、
具合の悪そうな人が駅で座りこんで困っているとき、
ちょっと勇気を出して声をかけ、問題解決できれば相手も助かりますが、それを見届けることができたとき、こちらもとても爽やかで嬉しい気持ちをもらいます。
逆に声をかけて嫌がられたり、避けられて傷つくかもしれません。
闇を見るか、光を見るか、やってみないと分かりません。
でも、隠陽どちらも合わせもっているのが、生きるということであり人生です。
だからこそ生きるとは、隠陽あって儚く美しいのだ、と感じました。
逆に言うと傷つくことを恐れ過ぎると、儚く美しい風景を観る機会もぐっと減るのだな、と感じました。
傷つきやすい、風のような私が、自分に言い聞かせるような呟きです。
お読みいただきありがとうございます。