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私を大切にすることは、境界線を大切にすること。
以前、純度100%の私になる、と以下の記事で書きました。
これは、こういう小さなことの繰り返しになるのか、という気づきがあったので今回はそちらを書いていきます。
昨夜私は早々に寝ました。
前の晩眠れなかったので、今日は早く寝るぞ!と思っていたところに夫の帰宅が今日も遅くなりそうな連絡が入ります。
ご飯も食べるようだし、そしていろいろあったならば話しを聞いた方がいいだろうな、と感じていました。
が、あ、夫の感情のお世話を私がしていたらまた今日も夜が遅くなり、私がきつくなる。
私を大切に愛する、
ということは、私が幸せで満ちていること。
私が夫の感情のお世話をし続けることで私が疲弊するのは、夫も結果的には喜ばないはず。
思い直してご飯だけすぐ食べれるようにしておいて私は早々に眠り、今日は早朝気持ちよく目覚められました。
そして気づいたのは、これって境界線の問題だということでした。
夫が1人でできない感情処理を私に投げるのも、私がそれを当たり前のように受けとるのも、境界線がきちんと引けていないから。
夫婦ともに共依存家庭で育ち、境界線のない状態を日常、と認識してしまってきたので、わずかな違和感をしっかり感じとって掬いあげないと、すっと元のやり方に戻ってしまいます。
が、かつてと違うのは、無意識に投げられる感情をせっせっと拾い歩く私自身にも、人に無意識に投げてしまう私の感情にも、どこかの時点で、あ!またやってた!と気づくようになりました。
気づいた時点で軌道修正したり、
ごめんなさい、私の感情のお世話をさせてしまいました、
と人に謝ることができるようになりました。
そもそも無意識過ぎて気づいていないときは、謝ることさえできません。
人間関係を複雑にし、自分100%で生きれないのは、境界線がきちんと引けていないからだ、と感じます。
他人にパワーを使わなくなること、例えば夫の愚痴を聞き流すようになる、ということに私はどこかで罪悪感を感じていました。
夢中で痛みについて話す人がいると、同じくらいのエネルギーで向き合わないといけないような気持ちが、いつもどこかにあった、と感じます。
問題解決のための話し合いと、自分の痛みの再現の悔しさや哀しみを延々人に話すのは、似ていて全く違うものだ、と感じます。
問題解決の話し合いは、着地点がみえるので前向きな姿勢なため、ただ徒労するだけにはなりません。
が、延々続く、その人が元々抱えている痛みの発露が起因している話しを聞くのは、終わりが見えないため、人からパワーを奪い徒労させます。
その先に成長が見えるかみえないかで、関わる人のエネルギーの質が変わってきます。
セッションのように時間や目的が明確にない、近しい関係ほど、境界線をしっかり引いて対処していないと、自分に集中できなくなります。
人生が自分100%で輝いて生きられる状態は、このようなみえない土台が自分のなかにしっかりあってこそだ、と感じます。
私自身がより境界線に繊細になり、自分の土台固めをして、自分の人生を豊かに生ききろう!と改めて思う朝でした。
お読みいただきありがとうございます。