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起きる出来事は自分の成長への学び〜どこにも否定はいらない〜
8月末にショックなことがあり、体調まで崩してしまっていましたが、おかげで自分を内観していったとき、私は自分自身を否定していた、と気づきました。
心の仕組みを学んでいくと、
反応するという箇所こそが私の痛みだ、
あれは私の問題でなくあちらの問題だから、そこに私がエネルギーを向ける必要はないのだ、
潜在意識では望んでいた方向に今いっているのだな、
などといろいろと見えてきます。
じゃあ心が整理され楽になるかというと、今回ならなかったのは、これだけ学んできたのに、仕組みが分かってきていたのに、私はまだ今までと同じパターンを繰り返していたのか!と、自分自身を否定していました。
自分自身の在り方にOKを出せていない、そんな自分も仕方ないよ、それだけ傷ついてきたのだから、と優しく認めてあげられなかったから、それで自分を罰していた、傷つけていことに気づきました。
自分責めするパターンを繰り返しているから、また自分責めするという、自分自身を萎縮させるやり方を無意識にしていました。
自分に心地よいことを日々与えていく
というキーワードを最近たまたまよく聞きます。
本当はたまたまでなく、私に今必要だから耳に入ってくるのでしょう。
私は小さな頃からネガティブなことが起きたとき、自分を責めることで、内側のモヤる気持ちを処理してきました。
そのやり方が、また顔を出していました。
意識的でいないとすっと馴染みあるやり方を採用してしまいます。
本質は、ネガティブなことが起きたときほど、
すべて八方良し
になる必要があるんだ、と感じます。
相手も私も環境も、
起こるべくして起こったのだから何が悪いわけでもない。
日々私たちは変化しているからこそ、そういうフェーズになったのだ、と感じます。
大事な自分の、それぞれの人にとってなりたい人生になるための学びのプロセスなのだ、と。
その人のプロセスはその人しか分からず、いや、本当はその人さえ分からず(もっと大いなるものにしかわからない)そこに他人のジャッジやアドバイスが入ると、その本来の美しい人生の流れを堰き止めてしまう、と感じます。
自分の人生の流れを大切にすることと、他人の人生の流れを大切にすることは=で繋がっていて、自分の人生を良くしたいと思えば思うほど、周囲の他人の人生も良くなることを望むのだと感じます。
私たちは、お互いに共鳴し合っています。
私が私を大切に扱えばこそ、同じように自分を大切に扱っている方と共鳴し合い、私が私を卑下していると、ジャッジやアドバイスをしたい人の欲求と共鳴してしまうのだ、と感じます。
私が私を扱うようにでしか、世界を見ることができないのだと思うと、私が私を愛することは、世界の中に愛をたくさんみることになるのだな、と感じます。
もし、人間関係で苦しい、辛い、ということが今あれば、とにかく自分を大切にする、自分を愛する、ということにだけまず集中することが、パラドックスのようですが、結果的に他人にも優しいことなのだ、と感じます。
拙い文章をお読みいただき、ありがとうございます。