孤独も、誤解も、分かり合えないも、みんな大丈夫。
最近、私が癒されてきたのか、以前より堂々としていられるようなときが増えてきているかも、と感じます。
本来人はみな孤独なのですが、「友達100人できるかな?」の歌を歌って育ったせいか(笑)、たくさんの人と繋がっていること、家族が繋がり、囲まれていることが良しとされる、と思い込んできたように感じます。
そして、大多数の人の人生の過ごし方が正解、のように思い込んできたようにも感じています。
が、今の私は夫がずっと出張続きだったりで、独りの時間が長くても、孤独を満たせていて、独りでいることに「不安」を感じなくなっています。
以前の私は長期で夫がいないと、なんとなく「不安」を感じていましたし、家に長く独りでいること自体が「不安」でしたが、いつのまにかそれもなくなっていました。
私は10代で深い病みを体験し、20代で離婚を、子どもとの離別を体験し、すでに大多数の生き方になっていないのに、いやだからこそ?親から求められているような「理想の普通の女性」(幻想)にならないといけない、でも実際にはなれていない自分を、無意識に罰しながら生きていたように感じます。
私は今年の春頃から、ヨガや奇跡のコース、という学びをはじめ、
神は人を、そのままの人を完全な人として、
ものすごい深い愛で愛してくださっているのだ、
と感じてから、少しずつ私らしい生き方を、自然に選択してきているように感じています。
〇〇でないといけない、
とそう思っていたものはすべて私の外側にあるものであり、私の内側から湧いてでてきたものではなかった、
大切なことは、罪悪感をなくすことであり、ゆるしていくことである、と思ったら、自我の「安心」を手に入れるためにしてきたことが、だんだんといらなくなっているように感じています。
かつての私は、未知なこと、大多数の人と違う生き方をするのは「不安」であり、「恐れ」があるから、無意識に「普通っぽい」(そんなものはないのですが)生き方を選択しようとしていました。
が今は、
孤独でも、
誤解されたままでも、
分かり合えなくても、
大丈夫。
自分の「安心」のためにそれを何とかしようとしなくていい、と感じます。
それをゆるしていくこと、
神を信頼すること、
本当に誤解を解くことが、分かり合うことが必要ならば、きっと良きタイミングでそれをやるときがくるだろうと観ていられることが、少しずつできるようになっている感じがします。
夫と再婚してから、他者から誤解されることがあると、以前の私はその誤解を解きたい!とエネルギーを無駄に消耗していました。
そういうことに拘っていたのこそ、自我が「不安」を感じたくなかったからだと思います。
懸命に私の自我は自分を守ろうとしていました。
が、自分と近しい人でなければ誤解が生じるのは仕方のないことですし、それは私の領域ではありません。
なぜ誤解を解きたかったのか。
それは、自分を「安心」させたかったからです。
私は自分の外、手の届かないところにまで手を伸ばしてコントロールしたいという自我の強さから、無駄に自分を疲労させていました。
私たちは、自由を求めています。
自由にのびのびと、
その人らしく生きるためにこそ生まれてきた、
と感じます。
だから、人の自由を奪うことはしたくないし、自分の自由も奪われたくないと思えば、ほとんどのことはコントロールする必要がない。
罪悪感を感じたり植え付ける必要もなく、ゆるし合っていくことが、安心して満たされた世界になるのでしょう。
一足飛びにはできなくても、そちらの世界に少しでも自分を寄せていきたい。
みんなが私は大丈夫と思える世界をつくりたい。
そんなことをとても感じているこの頃です。
唯一無二の神から愛されているあなたが、
安心してあなたらしく生きられるよう、
心から祈っています。
お読みいただきありがとうございます。
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