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曾祖父と祖父

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曾祖父と祖父
1914年(大正3年)頃。42歳と15歳位と思われる。

今の時代って凄いわ~。白黒写真も簡単にアプリで色が付けられるのね。
知らなかった私が遅れているの?

さて、手紙の内容とは少し違っていましたが、曾祖父はハワイに渡った1年後に、アメリカ本土に渡ったもようです。
1905年(明治38年)~1926年(大正15年)頃まで米本土で暮らし、たまに日本に帰国していた事がわかりました。
また、ユニオン・パシフィック鉄道で働き、ワイオミング州シャイアン市で長く暮らしていた事もわかりました。他の都市にも居た様なのですが現在のところ、はっきりしていません。

祖父は、1914年(大正3年)~1925年(大正14年)はシャイアンで、1926年(大正15年)~1931年(昭和6年)はロサンゼルスに住んでいた様です。
しかし、1914年以前(小学校の集合写真の頃の事)が全くわかりませんでした。アルバムにはロサンゼルス郊外の田舎の学校と書かれていましたので、それが間違いなければ、LAのどこかでしょう。

祖父も曾祖父と同じくユニオン・パシフィック鉄道で働いていたようです。
1918年時にはUPRR CO. ROUNDHOUSE EMPLOYEEという記録がありました。 そして、その翌年に結婚していますが、妻となった人は写真花嫁だったそうです。

写真花嫁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
写真花嫁(しゃしんはなよめ、英語:picture bride)とは、日本からハワイ(王国・準州)またはアメリカ合衆国に移住した男性と写真・履歴書などを交換するだけで実際に会うことなく、代理による結婚式を行い、入籍によって査証を発給され、渡航した女性であり、また、この習慣を指す場合もある。1907年から1908年にかけて成立した日米紳士協約(英語版)によって再渡航・家族呼び寄せ以外の日本人の移民が禁止された後、現地の日系社会の存続・発展のために取られた措置であり、1924年の排日移民法の成立までの間に20,000人以上の写真花嫁が渡航した。ただし、米国では、個人の意思や感情を無視した野蛮な習慣であり、紳士協定に違反するなどとして、排日論者のさらなる反感を買ったため、1920年、日本政府は、旅券発給を妻が夫とともに渡航する場合にのみ限定し、事実上、この時点で写真花嫁の習慣は廃止された。


1922年(大正11年)のシャイアンのDirectoryにはClnrと出ているので、クリーニング屋か掃除業なのかよくわからなかったのですが、ネットのLibrary of Congress(米国議会図書館)で見つけた1923-24年時のDun and Bradstreet Reference Bookには、祖父の名&WIFEと書かれている横にDry Clgとあります。夫婦でクリーニング屋を営み、その後ロサンゼルスに移ってからテイラーをしていたのでしょう。

 

2023年2月18日追記

人生に偶然なんてものはなく全てが必然であると聞いたことがあるが、本当にそうなのだという気がしました。たまたま家系図について調べていたら岸本良信氏のサイトに辿り着きました。そこには国立国会図書館デジタルコレクションのリンクが貼ってあり、そこで先祖の名前などを思いつくまま検索していたら、様々な情報をまた拾う事が出来ました。

数冊の本に曾祖父の名前が見当たりましたが、以前見つけた乗船名簿にあった住所(私書箱)が出ていて、それがUP(ユニオンパシフィック)鉄道の邦人エージェントである脇本西村事務所と同じものだとわかりました。
シャイアンにはじめて入った日本人は1903年から1904年にかけて、脇本西村事務所からの鉄道人夫で、1910年頃には200名ほどの居住者があったという事を『アメリカ移民百年史(1926年)』で知りましが、脇本西村事務所の御陰でUPで働けていたのだと知り感謝の気持ちが溢れました。


さて、お給料に関しての興味があったので調べてみましたが、『在米同胞発展史 : 附・名士列伝(M41.12)』にある当該事務所の広告によると日給壱弗四拾五仙(1ドル45セント)
巴奈馬太平洋万国大博覧会  第1(大正2-3)』の広告では、壱弗六拾仙(1ドル60セント)以上や、三弗二廿五仙(3ドル25セント)以上の仕事がありました。
大正元年の1ドルが約2円とすると1ドル60セントは約3.2円で、仮に一ヶ月25日労働だとすると約80円の月給になりますし、3ドル25セントの計算だと約163円です。
レファレンス協同データベースによると大正末期の大卒のサラリーマンの初任給(月給)は50~60円とあるので、上記の月給はかなり高額ですね。



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