*禅語を味わう...026:春色高下無し...
春色無高下
春のお彼岸も過ぎ、季節は春本番となりました。
今年は、冬の気候が温暖であったかわりに、立春を過ぎたあたりから寒さが厳しくなり、ときおり驚くほど暖かい日があると思えば、一転、冷え込みが厳しくなり、三月後半に、恵林寺の夢窓庭園「心字池」の水面に薄氷が張るようなこともございました。
さて、今回の禅語は、春にちなんで、「春色高下無し」です。
この語は、禅語としては比較的よく知られたもので、春のお茶の席の床の間で見かけることも少なくありません。
この語は、対句で味わうとよい語です。
春色高下無し...待ちかねた春がやって来ると、野も山も、里も街も春一色。
山梨では、少し高いところに上ると、甲府盆地を一望することができます。梅が終わり、桜の季節も間近になると、甲府盆地は一面のピンク色に覆われます。春になり、この景色を目にする度に、「桃源郷」という言葉が、現実の重みをもって心に浮かびます。
満開の花がもたらす春爛漫...
いそがしい日常の中で、なかなか花見などに出かけることができなくとも、ちょっと一息、戸外に出て花の姿を見るほどの余裕すらなくとも、誰もが何となく、ウキウキと弾む心に満たされる季節です。
「春色高下無し」という時には、誰のところにも、分け隔てすることなく春は訪れる、ということを意味しています。まさしく、「天地一杯」の春です。しかし、この語に対しては、野暮な説明よりも、もっとぴったりした歌があります、
誰もが知っている童謡『春が来た(はるがきた)』は、作詞・高野辰之、作曲・岡野貞一で、明治43年(1910年)発行の『尋常小学読本唱歌』に登場しています。
山にも、里にも、野にもやって来る春、そして、花が咲き鳥が歌う...すべてのものに恵がやって来て、すべてのものが喜びに満ち満ちる...まさしく「春色高下無し」の世界です。
さて、ここでさらに、対句となっている「花枝自ずから短長」を味わいます。
「春色高下無し」の素晴らしい世界で、もう十分じゃないのか?
確かにそれはそうです。しかし、この「花枝自ずから短長」を合わせて味わうことで、さらにいっそう春の訪れをじっくりと味わうことができるのです。
花枝自ずから短長...
花の枝には、長いもの、短いものがある...そう、それはそうですが、それで?
いえいえ、ただそれだけのことです。
うーん......
さて、この対句「花枝自ずから短長」については、確かに、様々な解釈が可能です。そして、じっさい、様々なことが言われたりもします。
たとえば、春がやって来ることは、一面の春で「平等一枚」の世界を指す。そして、花の枝には長いもの、短いものがある、というのは、一面の春であっても、そこには生きとし生けるもの、一人一人、一つずつ、自ずから違いがある、平等の中の差別の世界を指す、などなど。
いずれにしても、平等一枚のところと、差別個性とが調和しているところを表すという解釈です。
確かに、平等一枚では、その中に生きている大きいもの、小さいもの、強いもの、弱いもの、それぞれの個性が見過ごされてしまいがちになります。だから、平等の中にも差別を見て取り、差別がありながら、皆平等、というところが必要です。
仏教教理の言葉を使えば、「平等即差別」「差別則平等」のところ、あるいは「一即多」「多即一」のところです。
平等を表す「春色高下無し」は、差別を表す「花枝自ずから短長」と一つになって、はじめて「平等即差別」「差別則平等」、「一即多」「多即一」の調和を表すことができる、というわけです。
これは、確かにその通りです。しかし、ここで敢えて贅沢を言うならば、この説明の堅苦しさ、ぎこちなさが面白くありません。思わず歌を口ずさみ、スキップしたくなるような場面に至っては、説明ということがどれほど野暮で、無力なことか...
ここで、やはり詩人の力を借りましょう、
群馬に生まれた詩人・山村暮鳥(1884~1924年)の『風景 純銀モザイク』という作品です。
「いちめんのなのはな」が繰り返される9音9行3連の詩は、注意してみると、どの連も8行目には「いちめんのなのはな」とは違う言葉が入っています。
「かすかなるむぎぶえ(微かなる麦笛)」
「ひばりのおしゃべり(雲雀のお喋り)」
「やめるはひるのつき(病めるは昼の月)」。
「一面の菜の花」を前に、春を謳歌する私たちにも、笛の音が聞こえ、雲雀の囀りが聞こえ、振り仰ぐとうっすらと影の薄い昼の月が空にかかっているのが眼に入ります。
このように、笛の音に、雲雀の声に、普段は大して気にもとめることがない真昼の月に、ふっと心が向かうのです。これが、「花枝自ずから短長」の世界です。
「平等即差別」だの「差別即平等」だの、小難しい理屈を言ってないで、眼の前の花を見なさい、一面の菜の花だけれど、一輪一輪全部違う。耳を澄ませなさい、そこには笛の音が聞こえ、雲雀が春を歌っています。そして、うっすらとして存在感の薄い月だって、春のまっただ中。
「花枝自ずから短長」とは、このように、わたしたち一人一人が、ふっと立ち止まり、目をとめ、あるいは音に耳を澄ませ、香りを嗅ぎ、あるいはしゃがみ込んで足元の小さな花を見つめる、その瞬間を指すのです。この時、一面の春爛漫を楽しむ木や草や、虫たちや獣たちの喜びに共鳴し、響き合うものが、自分の中にもあることに気が付くのです。ともに生き、ともに喜び、ともに悲しむ...生きとし生けるものの生命に、直に触れる喜びがそこにはあります。「花枝自ずから短長」とは、そういうことではないかと私は思います。
さて、「春色高下無く、花枝自ずから短長」は、素晴らしい言葉ゆえに、圓悟禅師だけではなく、日本でも、夢窓国師、大燈国師ほか、大勢の優れた禅僧たちが言葉を寄せ、問答に持ち出しています。その中で、大燈国師の法を嗣いで大徳寺第一世となり、大徳寺の基盤を築き上げた徹翁義亨禅師(1295~1369年)は、「春色高下無く、花枝自ずから短長」の語を引いて、問いを仕掛ける修行僧に向かって、
と諭しています。
「春色高下無く、花枝自ずから短長」は、理屈でも何でもない、さあ、眼の前の春爛漫を楽しんだらどうだ、すべてはそこからだ、というのです...
私たちも、少し遅れてやって来つつある春を、心ゆくまで楽しみたいものです。