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恵林寺焼き討ち事件...史料から見る(4)『信長公記』巻十五

恵林寺焼き討ち事件についての資料、今回は有名なものを採り上げます。

『信長公記』は信長の家臣であった太田牛一(1527-1610)が、晩年の慶長年間に書いたとされています。
信長の家臣であった人の残した記録ですから、当然、信長の立場から記されていることは言うまでもありませんが、資料としての価値は高いとされています。

『信長公記』における恵林寺焼き討ちの記録は、巻之十五にあります。原文は漢字仮名交じり文。

以下、原文の読み下し文、続いて現代語訳を付けました。

有名なテキストですので現代語訳が何種類もでていますが、ここでは自分の勉強のために、敢えて私訳を試みました。詳しくは、校注付きの原典、そして公刊されている専門家の訳文にあたってください。


『信長公記』第十五巻 


①読み下し原文

  恵林寺御成敗の事


さる程に、今度恵林寺において、佐々木次郎隠し置くにつきて、その過怠(かたい)として、三位中将信忠卿より仰せ付けられ、恵林寺僧衆御成敗の御奉行人、織田九郎次郎、長谷川与次、関十郎右衛門、赤座七郎右衛門、以上。右奉行衆罷り越し、寺中老若を残さず、山門へ呼び上(のぼ)せ、廊門より山門へ籠草(こめぐさ)をつませ、火を付けられ候。初めは黒煙立(たち)て、見えわかず。次第次第に煙納まり、焼き上(あが)り、人の形(かた)見ゆるところに、快川長老は、ちともさはがず、座に直りたる儘、動かず。其の外、老若、児、若衆踊り上り、飛上り、互ひに抱(いだ)きつき、悶へ焦(こが)れ、焦熱・大焦熱の焔に咽(むせび)、火血刀の苦を悲しむ有様、目も当てられず。長老分十一人果たされ候。其の中存知の分、宝泉寺の雪岑(せっしん)長老、東光寺の藍田(らんでん)長老、高山の長禅寺の長老、大覚和尚長老長円寺長老快川長老。中にも快川長老、是れは、隠れなき覚えの僧なり。これによって、去年、内裡(だいり)にて、忝(かたじけな)くも、円常国師と御補任頂戴申され、近代国師号を賜はる事、規模なり。都鄙(とひ)の面目これに過ぐべからず。
四月三日恵林寺破滅。老若上下百五十余人焼き殺され訖(おわ)んぬ...


②現代語訳

  恵林寺成敗の事

ところで、このたび恵林寺が佐々木次郎を匿ったことについては、その罪科を問うため、三位中将信忠卿に命じられて、恵林寺僧侶たちを処罰するための御奉行人として、織田九郎次郎、長谷川与次、関十郎右衛門、赤座七郎右衛門ら、これらの者が奉行衆としてやって来て、寺中にいた人々を、老若を問わず山門へ上るように命じ、廊門から山門まで乾いた草を積み上げ、火を付けさせた。
最初のうちは黒煙が立ちこめて見分けがつかなかったのであるが、少しずつ煙がおさまり、火が燃え上がって人の姿が見えるようになると、快川長老は少しも騒ぐことなく居住まいを正して坐を組んだまま動かなかった。その他は老いも若いも、稚児も若衆達も、踊り上り、飛上り、互いに抱き付いて悶えに悶え、焦熱地獄・大焦熱地獄の焔に咽び、火と血と刀に塗れる地獄の責め苦を悲しむ有様は、見るに忍びないものであった。
長老格の十一人が殺されてしまったのであるが、その中で分かっているのは、宝泉寺の雪岑長老、東光寺の藍田長老、長禅寺の高山長老、大覚和尚長老、長円寺長老、快川長老。この中でも特に快川長老は、世に名の知られた高僧であった。その名望により去年、天皇から忝くも円常国師と国師号をいただいたのであるが、近年では国師号を賜はるようなことは大変な名誉であり、都と地方とを問わずこれ以上の面目をほどこすことはなかったのである。
四月三日、恵林寺は破滅した。老若上下を問わず、百五十余人が焼き殺されてしまった...


*文中、快川国師の国師号が「円常国師」となっていますが、これは誤りです。快川紹喜は天正九年九月六日、正親町天皇から「大通智勝国師(だいつうちしょうこくし)」の下賜を受けています。
これは、天正九年から十年にかけて妙心寺住持を務めていた(再住)法嗣の南化玄興の尽力が大きかったとされています。
南化玄興は当初「大恵急性」という国師号を提案したのですが、儒者の坊城という人物の反対に遭い、「定恵円明」と「大通智勝」の二つの号を提案したところ「大通智勝」と決まったといいます。
ちなみに、南化自身も時代を代表する傑僧となり、師のために提案をした「定恵円明」の国師号は南化自身に下賜されました。

*この資料では、死者が百五十余名となっています。そして、快川国師のことについて特に記述がなされていますが、「心頭滅却...」については触れられていません。

*また、丁寧に読めば「焼き討ち」というのは、佐々木次郎を匿ったことの「過怠」を問うために寺僧を山門にあげて焼殺したことであり、厳密には恵林寺を焼き払ったとは記されていないことに気が付きます。この部分は、既に見た『甲乱記』の記述と一致します。『甲乱記』では、三門を焼いた時に、「魔風」が吹いて全山が延焼した、となっているのです。


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