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*禅語を味わう...031:枝上一蝉吟ず...

枝上一蝉吟しじょういっせんぎんず


八月も終わりにさしかかり、厳しい残暑もようやく少しずつ収まって参りました。
季節は二十四節気の「暑処しょしょ」、暑さがようやく収まる頃です。
七十二候では「天地始粛てんちはじめてさむし」。「さむし」とは、「縮む」「静まる」「弱まる」といった意味の言葉で、天地の暑さが収まり、本格的に季節が移り変わりはじめることを告げています。
さて、今月の禅語です。

枝上一蝉吟しじょういっせんぎんず...

木の枝に一匹の蝉が鳴いている。
今年は特に暑さが厳しく、夏の盛りの日中どころか、立秋を過ぎてもなかなか蝉の声を聴くことができませんでした。ここ、恵林寺でも、ようやくこの数日、蝉の声そして虫の声を耳にするようになりました。
蝉の声といえば、夏の盛りを現すもの、というイメージがあります。
確かに、「蝉時雨せみしぐれ」は夏の季語となっています。

しかし、蝉にはまた、「秋を告げる風物」という側面もあります。
八月の半ば頃、二十四節気でいう「立秋」の次候は、七十二候でいう「寒蝉ひぐらし鳴く」とされていますが、「寒蝉」は、秋の訪れを知らせる蝉との意味で、「秋告蝉あきつげぜみ」とも呼ばれているのです。


暦と季節感のズレは、お寺もそうですが、茶の湯や和歌、俳句、華道など、さまざまな分野で問題となるのですが、これは明治維新の後に行われた「改暦(明治改暦)」がもたらした問題だと考えることができます。
明治政府は、明治五年十一月九日に明治天皇の詔書みことのりと「改暦ノ布告」「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ふこうス」(明治五年太政官布告第337号)を発し、同年明治五年十二月三日をもって、新暦(グレゴリオ暦)の明治六年一月一日とすると宣言しました。
この布告は突然のことで、しかも年末、年の瀬も押し詰まってくる頃のことであったため、大きな社会的混乱をもたらしました。
当時の日本が採用していた暦「天保暦」(太陽太陰暦)は、精度からすれば、新たに採用されたグレゴリオ暦よりも高かったのですが、細かい調整が必要で、暦法としては極めて複雑でした。また、一日を等分するのではなく、日の出日の入りを等分する、「不定時法」が採用されていて、こちらも細かい調整が必要で、その煩瑣はんさであることによって嫌われた側面があります。
その後の日本は、今日のように、世界と密接な関係を持つ近代的な国家となり、国際社会との関係を考えるならば、この時の改暦は、結果としては良かったではないか、と言うべきかもしれません。
しかしながら、今日もなを続く暦と季節感の混乱には、この時の、あまりにも性急な改暦の導入が影を落としていると言えるかもしれません。

いずれにしてもわたしたちは、新暦と旧暦で一月ほどのズレを受け入れることになり、このズレのために暦と季節が合わなくなってしまっていますし、近年では、異常気象が続い、ますます季節感に混乱が生じています。
これは、いつか何らかの形で解決するべく積極的に取り組むべきことなのか、それとも、なし崩し的に受け入れていくほかないことなのか...難しい問題です。

さて、禅語・枝上一蝉吟ず...に戻ります。

「蝉の声」は、古くは「せみこゑ」で「せめこゑ」とされることがあるように(『枕草子』)、「責め声」の転じたものだとされることがあります。蝉の声は、しぼり出すような、苦しげな声に聞こえるところから、「め上げる声」、急調子で迫ってくる声と受け取られてきました。
寒蝉ひぐらし」は「カナカナカナ」と涼しげな声で鳴きますが、油蝉、熊蝉はまさしく「責め上げ」「逼めあげ」するような声で鳴き、暑苦しさもひときわとなります。

さて、それでは、ここで鳴いているのは、何蝉か?

実はこれは、場合によっては、とても難しい問題になりうるところです。
芭蕉の『奥の細道』には、

しずかさや岩にしみ入る蝉の声...

『奥の細道』

という句が収められており、よく知られた名句だとされていますが、この句に登場する蝉は何蝉なのか、ということで、かつて文壇を巻き込む大騒ぎが起きたことがあります。
事の起こりは、大正十五年(1926年)に、歌人・斎藤茂吉が、この句で歌われている蝉は「油蝉」であると断じたことに始まります(『童馬山房漫筆』雑誌『改造』九月号)。斎藤茂吉のこの主張に対しては、夏目漱石門下の小宮豊隆こみやとよたかなどから直ちに反論が起こり、この蝉が何蝉であるかということについての文学論争に発展します。
翌昭和二年(1927年)、岩波書店の岩波茂雄は、東京神田の小料理屋『末花』に一席を設け、当の茂吉と小宮豊隆を筆頭に、安倍能成よししげ、中勘助、河野与一、茅野蕭々ちのしょうしょう、野上豊一郎といった錚々たる顔触れを集めています。
馬鹿馬鹿しい議論のようでも、そもそも俳聖・松尾芭蕉の有名な句であり、しかもこれだけの顔触れが揃うと大変です。世間も大いに沸いたことだろうと想像できます。今日のマス・メディアを騒がすゴシップ・スキャンダルよりもはるかに面白く、有益で、岩波茂雄も巧に世論を煽りながらも、自社の格調を落とすことなく上手く立ち回っています。
斎藤茂吉に噛みついた小宮豊隆の主張は、「閑さ」や「岩にしみ入る」という表現は「油蝉」にはふさわしくないこと、そして何よりも、この句が詠まれた元禄二年五月二十七日は、新暦に直すと七月十三日(1689年)であり、油蝉はまだ鳴き始める前だ、というものだったようです。
当然のことながら両者は互いに譲らず、決定的な証拠もなかったため、この席では決着がつかず、昭和四年(1929年)仙台に本社を置く『河北新報かほくしんぽう』にこの件の詳細が寄稿されたものの結論は持ち越しとなり、最終的に、この句が作られた山形市の天台宗・宝珠山阿所川院立石寺ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじで、七月半ばに、じっさいに境内の蝉の採取が現地調査として行われ(小学校の子供たちが参加協力したそうです)、その結果、斎藤茂吉は、この調査の結果を受けて自らの誤りを認めて、芭蕉のこの句に登場する蝉が「ニイニイ蝉」であることを認めたのだといいます。よく知られているように、歌人・斎藤茂吉は精神科医でもあり、科学的な調査の威力というものを積極的に受け入れたことでしょう。


さて、それでは、この禅語に登場する蝉は、いったい何蝉か?

残念ながら、これについては調べようもありません。
禅語「枝上一蝉吟いじょういっせんぎんず」の出典を突き止めることはほぼできません。可能な範囲で調べてみると、
維摩ゆいま、口を開くにものうし、枝上一蝉吟ず」
という語に当たります。この語は、比較的よく知られた『禅林句集』『句双紙尋覓くぞうしじんみゃく』といったテキストに登場するほか、さらにさかのぼると『仏祖綱目ぶっそこうもく』(明代・心空居士朱時恩著)『古今圖書集成ここんとしょしゅうせい』(清・康熙帝こうきてい時代・陳夢雷編)に収録されており、そこでは南宋時代の役人であった錢象祖せんぞうそ(1145~1211年)の言葉となっています。
時代が遠く離れていて、しかも広大の中国の大地、役人は各所に任地が移りますから、どこの地域の、いつの季節の蝉か...これを調べるのは大変なことで、突き止めることは、ほぼ不可能でしょう。

ここでは、何蝉かということを勘案しなくとも、禅語として味わうことが可能ですから、これ以上は立ち入りません。というよりも、むしろ反対に、何蝉か? という読み込みも含めて、どうこの語に向き合うか、ということが禅の魅力でもあるのです。
居直るようではありますが、「禅語」の魅力は、どう読むのが「正しいのか」ではなく、お前はどう読むのだ? こう読みたい、いや、こう読まねばならぬ! というところを、自分自身の心の奥底で自問自答しながら、「正しさ」ではなく、より深く、より鋭く、より切実に、自分自身と向き合い、自分自身の「生きる」ということへと切り込んでいくところにあるからです。

維摩、口を開くに懶し、枝上一蝉吟...


「維摩」とは、伝説の修行者・維摩詰ゆいまきつのことです。出家することなく、世俗に身を置きながら修行する者を「居士こじ」と呼びますが、維摩詰は釈尊時代の印度、毘舎離城(ヴァイシャーリー)の商人にして富豪で、釈尊の在家の弟子となり、その優れた悟りの境地ゆえに維摩居士と呼ばれています。
維摩居士の悟りの境地は、大乗仏典『維摩経』に記されていますが、特に有名なのは、その「沈黙」です。
『維摩経』の中では、悟りの世界は「不二ふじの法門」として説明されているのですが、集まってきた菩薩たちがそれぞれこの「不二の法門」について語り、最後に文殊菩薩が説き、そしてその上でいよいよ維摩詰に向かって文殊菩薩が、その考えを問いかけた時、維摩詰は沈黙して一言も語ることがありませんでした。

「一黙、雷の如し」...

維摩詰のこの沈黙は、その場で文殊菩薩が賛嘆したのみならず、後世においても、「雷が天地にとどろくようだ」、と讃えられるものです。
わたしたちが、自分にとっ、最も大切な、最も切実なことがらを言葉にし、あるいは動作を通じて表現しようとする時、しばしばどうにもできず、途方に暮れ、ただ沈黙して立ちすくんでしまうように、悟りの法門は、言葉で説くことも、何らかの形で指し示すこともできないものです。ただ、長い年月にわたる修行を積み重ねる中で自ら修行して、自ら会得えとくするほかありません。
文殊菩薩は、悟りの「不二の法門」をそのよなものだと説いて見せたのですが、維摩詰は、沈黙することで、その姿を生きた形で、身をもって示して見せたのです。
悟りの法門とは、本来、説くことも指し示すこともできないのだ、と見事に悟りの「不二の法門」を説き明かした文殊菩薩の言葉を、真っ向から打ち砕くように、維摩詰は沈黙します。そして、そのように、文殊菩薩の見事な解説を徹底的に否定し去ることによって、かろうじて「不二の法門」がどのようなものなのか示す...維摩詰のこの沈黙は、わかる者にしかわからないものです。だから、或る者にはただの沈黙であり、或る者にとっては、耳をつんざくほどの、雷の如き沈黙として響くというのです。


さて、維摩、口を開くに懶し、枝上一蝉吟...


という時、「維摩、口を開くにものうし」とあるのは、まさしくこの「維摩の一黙」を指しています。「懶し」とは、「物憂い」、気が進まない、といった意味の言葉です。
維摩詰は、黙して語らない...
そのかわりに、木の枝に止まった一匹の蝉が鳴いている...
雷の如き維摩居士の「一黙」を、代わりに吟じる蝉は、ただ一匹。
ここに盛大な蝉時雨せみしぐれは必要ありません。「雷の如し」といっても、それはあくまでも聴く耳を持つ者にしか聴き取ることのできない、「沈黙の雷鳴」なのですから...
反対に、維摩居士の一黙を聴き取ることができる者にとっては、一匹の蝉の鳴き声の中に、確かに雷の如き「一黙」を聴き取ることができるのです。

蝉の生命は儚いものです。

土の中からこの世界に出てきて、僅か一週間ほどの生命です。その短い時間の中で、声を限りに鳴くのです。その声の中に「一黙」を聴き取ることができるか...
この句をじっくりと味わうために、ここでもう一度芭蕉翁の句を手掛かりにすることとしましょう。

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声...

『猿蓑』巻之二夏

元禄三年の夏。滋賀の幻住庵げんじゅうあんで、秋之坊あきのぼうという門人に示した句であるとされています(『猿蓑さるみの』巻之二夏)。『卯辰集うたつしゅう』巻第二夏に収録される時には、「けしきも見えず」と文言が変わり、「無常迅速むじょうじんそく」という標題が付されています。
この句を示された秋之坊は、金沢の門人で、芭蕉が『奥の細道』で金沢を訪れた時に、現地で入門した金沢蕉門の一人であるとされています。もと前田藩の武士でしたが、後に士分を捨てて落飾らくしょくし、秋之坊と称して蓮昌寺れんしょうじの境内に隠棲したといわれています。

「枝上一蝉吟ず」の一匹の蝉も、一週間ほどしかないはかない命を生きています。そして、鳴いている時には、死の影を感じさせることがありません。生命のある限り蝉は全身全霊で鳴き続け、そして呆気あっけないほどに潔く死んでいきます。
わたしたちは、そうした蝉の姿の中に「無常」を見、生死の儚さを見て取りますが、蝉にはそのような躊躇ためらいも、迷いもありません。
維摩詰の「一黙」が、すべての迷いを断ち切ったように、躊躇うことなく全身全霊で鳴き続ける蝉の声も又、わたしたち人間が迷い、悩み、立ち尽くすであろう、あらゆる葛藤かっとうを一切断ち切っています。あらゆる葛藤を断ち切る時、黙も語るもない、すべてを断ち切る「一黙」が響いているのです。枝の上で鳴く一匹の蝉の声の中に、わたしたちは「一黙」を聴き取ることができるでしょうか...

私事ですが、かつて、或る老師から小僧時代のことをお聞きしたことがあります。ともかく暑い夏のこと、ああだこうだ言うな、ただ坐れ!、動くな! と𠮟咤しったされて、夢中で坐っている時、蝉の声が耳に入る。いつしか、自分自身が一匹の蝉になって鳴いていた。蝉になって鳴き、蝉になって坐っていた。そんな話でした。年齢を重ねて、高齢となり、人生の終わりを迎える時に、小僧時代の、そんな思い出をありありと想いおこしながら、懐かしそうに駆け出しの修行僧であった私に昔語りしてくれた老師の温容を、今も思い出します。
迷・悟、凡・聖、得・失、是・非、善・悪、邪・正、すべてをなげうって、ただ、一瞬一瞬の生命に生きる。


枝上一蝉吟ず...


学び、参じるべきものの多い、見事な禅語です。

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