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武田不動尊...歴史資料から見る(1)『無孔笛(むくてき)』

今回は、新しく恵林寺の寺宝「武田不動尊像」についての記録を検討します。
「武田不動尊像」は、仏師を対面で坐らせ、武田信玄公の姿を等身大で写し、信玄公が自ら自身の髪を焼き、漆に混ぜて像の胸に塗り込んだ、と伝えられるものです。
織田信長による恵林寺焼き討ちの時には、寺僧あるいは村人が担いで持ち出し、難を逃れた、と言いますが、現在恵林寺の寺宝として知られるこの像についての詳細は、実はあまりよく伝えられてはいません。

noteのこのシリーズ『武田不動尊...歴史資料から見る』では、4月から『生誕五〇〇年 武田信玄の生涯』展に出展される武田不動尊像について、その資料を原典に当たりながら見ていきます。

第一回目は、明治36年に、この武田不動尊像を国宝指定の審査にかけるため、恵林寺から提出された資料を見てみます。

出典は、既にご紹介しました恵林寺第五十二世笛川玄魯老師の自筆語録『無孔笛』です。原文を読み下し文に整序し、簡単な語注を付し、最後に現代語訳を付けました。

①原典読み下し文

明治三十六年

一月卅日國宝調査書提出、但し其の筋ヨリ再三ノ達シニ由ル
   國寶参考品取調書
    山梨縣東山梨郡松里村
              恵林寺藏
一、名稱 武田不動尊
一、作者 大佛師康清作
一、製作 彫刻優秀彩色高雅
一、由緒 武田信玄公軍陣中之作
一、種類 佛躰木製物
一、員数 不動尊壱体矜迦羅(こんがら)童子制多迦(せいたか)童子各壱体
一、品質 珍木質彫刻物彩色品
一、形状 瞋目(しんもく)張牙(ちょうげ)降魔(ごうまの)貌(かお)、右手に利劔を執り、左手に鉄索を持し、背後火焔忿怒(ふんぬ)𠮟咤(しった)吠(ばい)、台上坐像、二童子嵓上(がんじょう)立像
一、寸尺 不動尊𠀋(たけ)ヶ二尺、巾二尺二寸 二童子𠀋ヶ三尺強

右、當寺霊屋ニ安置スル處ノ霊佛ニシテ、製作優秀品也。天正十年、織田氏甲州乱入ノ際、寺門放火ノ節、災ヲ免レ、儼然(げんぜん)、今日存在品ニシテ、徳川家康公之が爲に寺門ヲ再興シ、供養料ヲ附シ、尊崇不一(ふいつ)。維新前迄ハ、會式等は一國祭礼ニシテ毎村、祭代表アリ。彼ノ兵燹(へいせん)ニ罹(かか)リ全ク寺誌ノ徴(しる)スベキ無ト雖モ、口碑(こうひ)ニ信玄公謂ヘラク、我皃(かたち)不動尊ニ肖(に)タリ、之を模して像を製(つく)らば則(すなわち)ハ敵人乱入ストモ、敢テ不礼ヲ加ヘザル可(べし)ト。之に於て佛師康清ヲ陣営ニ召シ、指示製作シ、同時ニ祝髪シテ鬚髮(しゅはつ)ヲ焼キ、繪具(えのぐ)ニ和シ、手ヲ親ク彩色シ給フト云フ。精神製作両全(りょうぜん)ト云ツベシ。果然(かねん)、當時七堂伽藍全ク烏有(うゆう)ニ化スト雖モ、灰燼中特リ光ヲ放チ、儼然、于今(いまに)存在スルモノ也。是故ニ、文化年度一品(いっぽん)公猷(きんゆう)親王御染筆(ごせんぴつ)武田不動尊ノ扁額ヲ賜フ所以ナリ。
右、古社寺保存法ニ依リ、國寶ト指定サルベキ價値ノ有無、御鑑定下され度く御照會ニ基キ御届致候也
  明治三十六年一月 日 右寺住職圓山元魯(まるやまげんろ)


(注)不一:言い尽くせない。   祝髪:剃髪。
   一品公猷親王:上野寛永寺住職、天台座主を務めた、自在心宮院前天台座主准三宮一品舜仁入道親王(公猷入道親王)。東叡山寛永寺12世/輪王寺宮御門跡第10世/天台座主219世・同221世・同226世。柳沢吉保公と縁が深かった霊元天皇の皇曾孫。寛政元(1789)年~天保14(1843)年。実父は有栖川宮織仁(たるひと)親王、養父は光格天皇。


②現代語訳

一月三十日、国宝調査書提出。但し、其の筋からの再三の達しによる。

   国宝参考品取調書
    山梨県東山梨郡松里村
              恵林寺藏
一、名称 武田不動尊
一、作者 大佛師 康清作
一、製作 彫刻優秀にして彩色高雅
一、由緒 武田信玄公軍陣中の作と伝えられる
一、種類 仏体、木製物
一、員数 不動尊一体、矜迦羅童子、制多迦童子各一体
一、品質 珍木質の彫刻物、彩色品
一、形状 瞋目張牙降魔貌(目を怒らせ、牙を剥き、魔を退散させる貌)右手に利剣を執り、左手に鉄索を持し、背後の火焔は忿怒𠮟咤(怒気を含んで燃えさかる)、台上坐像、二童子岩上立像
一、寸尺 不動尊の背丈二尺、巾二尺二寸 二童子背丈三尺強

右は、当恵林寺の霊屋に安置する霊仏で、製作優秀なものである。
天正十年、織田氏の甲州乱入の際に寺門は放火されたものの戦災を免れ、今日、厳然と存在するもので、徳川家康公はこの像のために恵林寺の寺門を再興して供養料を下賜され、尊崇すること極まりなかった。維新前までは、この不動尊のための儀式は国を挙げての祭礼となり、村毎に祭の代表が立てられていた。
織田氏による戦災のために、寺誌としてこれといったものは残されてはいないが、口伝えの寺伝では、信玄公が「私は顔が不動尊に似ている。だから不動尊を模して像を造るならば、敵に乱入されるとしても無礼なことはされないであろう」と言われた、そこで佛師の康清を陣営に召し出し、指示して造らせ、同時に剃髪をして焼き、絵の具に混ぜて自らの手で彩色された、と伝えられている。その込められた精神も造りも、両方ともが揃った作だと言うべきである。
果たせるかな、焼き討ちによって恵林寺の七堂伽藍全てが失われてしまった時であっても、焼け跡の灰の中に独り光を放ち、厳然として今日まで存在するのである。このゆえに、江戸の文化年中には一品公猷親王猊下の御染筆による『武田不動尊』の扁額を賜ったのである。


右の通り、古社寺保存法に依り、国宝と指定されるべき価値があるかどうか、御鑑定いただきたく、ご照会に基づいてお届けいたします。
  明治三十六年一月 日 右寺住職 圓山元魯

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