不動心11 無念無相
無念とは何も考えないことであります。
無相とは姿や形が無いことです。
人間は何も考えないでいることはできません。
姿を消すことも出来ません。
しかし何も考えないでいることは可能なのです。
何も考えないことは放心していることではないのです。
スポーツでいうゾーンでしょうか。
何時も出来るわけではないのです。
極度の緊張状態に似ていますが心身とも硬直はしていないのです。
いわゆるシータ波の状態で意識はハッキリしているのです。
シータ波の状態では脳機能は活発に働いているのです。
特に注目したいのはシータ波は海馬と関係が深く短期記憶(ワーキングメモリ)を司るところなのです。
ワーキングメモリとは長期記憶に保存される前の記憶なのです。
パソコンでいえばCPU内にあるスタックに相当して、用が済めば消えてゆく記憶なのです。
ワーキングメモリとは行動中短期間だけ記憶され行動が済めばその記憶は消されるのです。
長期記憶とはスタックからハードディスクにデータを転送するようなもので時間がかかるのです。
脳でいえば海馬から大脳皮質に送られる時間を短縮するために一時的に海馬に保存された記憶で直ぐに消されるのです。
だから長期記憶に残らないので意識はあっても覚えていないのです。
それを無意識といいます。
このようなシータ波の状態を無とか無念といいます。
一方無相とは行動の自由を得るため性格を曖昧にすることもあります。
小説に登場する人物の性格は明確性と統一性が重要であると考えられています。
『坊っちゃん』は正義を愛する教師として描写されています。
所が『吾輩は猫である』の珍野苦沙弥の性格は表現に困るほど曖昧な言動が目立ちます。
積極的、行動的と言えず、さればと言って消極的、内向的でも無く、楽天家でも無く悲観的でも有りません。
無関心のようで繊細な気も遣う。
また隠すべく秘密とか弱点を持っている様子が無くても、特に明けすけで開放的とも言えません。
それでは支離滅裂な性格かと問えば、否と言えます。
まさに、掴み所の無い性格として表現されているのです。
これが漱石の作風で有り意図する所でも有ります。
言動は奇抜と散漫、多様性に満ちていますが、「不動心」の見せる外面的な一面なのです。
「無相」とは姿や形を無くすことです。
その意味でも理解出来ない珍野苦沙弥の性格は作品的にも目的を叶えているのです。
これまで相手に情報を掴ませ無い態度は相手に思考停止と行動の停止を生じさせると言いました。
「不動心」の一面でもあるのです。
漱石の作風でもあるのです。
ただ文学に成ると時間的な余裕が、思考停止を引き起こすのでは無く、
疑問と解釈の多様性を誘導して考えこませています。
それが漱石文学の魅力でもあります。
珍野苦沙弥の心の状態とは一言で言えば「無念無相」で、
外界の変化に即座に対応出来る状態にあるのです。
心の自由を保つためなのです。
型にはめられたくないからです。
迷亭は「吾輩の主人を評して君は割り切れない男だ」言いますが、
多様性を容認する寛容性の一面でもあります。
決断すべき時は即決するのです。
一見無関心な様で親切でも有るのです。
忘れて成らないのが吾輩の命の恩人は珍野苦沙弥で有ります。
生死の間をさ迷い、何度も放り出されながらも珍野苦沙弥の一言で寝床と食事が保証されたのでした。
その他にも、主人や家族の不在中に其れ迄食べた事の無い餅を食べて、
歯にくっ付いて飲み込むことも吐き出す事も出来ずに居る所へ、
誰かが家に近ずいてくる気配に、
焦れば焦るほど歯にまつわり付いて噛むことさえ難しくなってくる。
前足を使って取り出そうとするが姿勢が不安定になる。
そこへ遂に家族が帰って来て、子供は面白がる、みんなは笑う。
この危機も主人の「『まあ餅をとってやれ』」と言う一言で救われるのです。
珍野苦沙弥の言動は予測出来ない所に特徴が有ります。
突然怒り出す事は前に触れましたが、予測出来ないのは、相手がその場の状況を理解出来ないからです。
状況とはその場の「無言の劇」を理解出来ないと言う事です。
日常我々は経験的確率から相手を理解しているのです。
相手の習慣を統計的に集計してその総合を性格と言うのです。
現在ではA Iによって、作家の名前を伏せて、作品を読み込んでその作者を当てることが出来ように成りました。
その作家特有の単語や熟語の使用頻度等の特徴から確率的に特定するのです。
所謂作家の癖を抽出するのでしょう。
ただ漱石の作品に限っては難しいのではないかと思われます。
と言いますのは他の作家は自己のどの作品にも共通する平均的な癖が有ると言うことです。
その理由は、A Iも基本的にはA I的確率によるので、作者特有の言葉や単語、熟語等の使用頻度を計算したものです。
その点漱石の作品は小説によって単語、熟語の出現率が異なります。
『坊っちゃん』であれば「正直」が多いことは予想できます。
『吾輩は猫である』であれば「吾輩」が多い事は当然としても、漱石は作品毎に使う単語を意識的に多用しているように思われます。
『虞美人草』では「動」を含む語が非常に多く使われているのが分っています。
心の動揺、不安定さであり、不動心の動とは正反対の意味で用いられています。
『吾輩は猫である』では「風」の単語が多いように感じます。
風中、風采、風呂敷、御風味、風好、風邪、朝風呂、風然、風情、風来坊、横風、春風、横風、風波、冷風、矯風会、風流、松風、東風君、北風、遺風、風教上、風態、疾風、風通し、風体、古風、西洋人風、風変、一風、清風、薫風、塩風、美風、蛮風、風月等等、
見れば分かるようにあまり使われない、見られない聞きなれない単語が多いように思われます。
必要不可欠なものでは無い単語が多いのが特徴です。
風の単語が多いのには漱石の何か意図が有るに違い有りません。
禅語に「八風吹けども動ぜず」と言う言葉があります。
人の心を惑わすことに動じないといういみです。
勿論陰口や誹謗中傷に無感覚でいることでは有りません。
抑圧したり拒絶することでも有りません。
無視するのでもないのです。
素直に敏感に受け入れるのです。
執着しないと言ってもすぐに忘れることでも有りません。
外部の不安や苦の原因は消えて無くなってはいないのです。
又消そうとしては成らないのです。
消そうとして消えるものでは無いのです。
消そうと努力してはいけません。
その努力を漱石は「自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っている」のだと言います。
努力は傷口を大きくするだけだと言います。
努力することが執着なのです。
苦の原因を取り除こうとするのが執着なのです。
小さな苦を取り除こうとして、
無駄な努力をして苦悩をを大きくしているのだと漱石は考えるのです。
風とは見えないけれど、風によって風波が起こります。
木の葉がゆれたり、秋風は季節の移り替わりを知らせてくれます。
北風となれば防寒対策に忙しく成ります。
同様に見えない心も対人関係に風波を起こす事も有ります。
波の高さから、おお予想の風速を知る事が出来ます。
木の揺れる様子からも見当が付きます。
見える身振りや表情からも、見えない心の働きを知る事が出来るのです。
それでは、「無念無相」とは無意識的とはいえ経験的確率の計算をしているではないかと言われるでしょう。
これは相手の置かれている状況に注意を集中していても、
相手を強制的に自分のペースに引き込もうとの願いが無いのです。
「念じて」居ないから「無念」なのです。
相手の現在の置かれている状況から同意を得られるか、否かその確率を計算しており、
思考は休息はして居ないのですが、
石地蔵と馬鹿竹の話の様に策略や魂胆を働かせ自己の「思想」を強要しないから「無念」と言うのです。
誤魔化したりおどかしたりして自分の思い通りにしようと「想定」しない事が「無念無相」なのです。
自己の為では無く、相手の立場で考えているのです。
それでは、形を見て形無きものを知る具体例を『吾輩は猫である』の中から取り上げたいと思います。
漱石は「形を見て心を見ざる」(五)と言います。
我々は既に形を見て形無きものを何時も推測しています。
しかし形を見て形無きものが見えにくいものが有ります。
それが相手の立場に立って見る事です。
すでに触れましたが、格好の実例に今気付いたので紹介します。
それは吾輩の餅騒動です。
吾輩が誰も居ない間に餅を食べもがき苦しんでいる行為は誰が見ても何が起ったのか解ります。
この形有る状態から何を知るかが問題です。
見ているものは皆同じです。
其処から見え無いものを。
知る事の出来る人は稀だと言うのです。
子供は猫が動転している姿を見て面白いと言います。
経験の少ない子供はその外見のみを見て、猫の心が有るとすればその心を知ろうとして居ないのです。
猫の立場に立てば笑ってなどおれない事態なのです。
命に係わる危機的な状況であります。
漱石は此れを「形を見て心を見ざる」と言うのです。
ところが大人でも思わず笑ってしまいます。
外見だけに注意が集中され気持ちまで考えが向かないからだと思われます。
一方珍野苦沙弥は猫の立場に立ち猫の気持ちに成って状況を認識しているのが解ります。
人間が手助けしなければ解決しないと考えるからです。
猫の立場に立って考えていることが解かります。
漱石はこのような相手の立場に立って見えないものを見る訓練の方法を『吾輩は猫である』の中で 自己を知り、相手知る方法に付いてロールプレイング(役割演技法)に注目していたようです。
鈴木君と吾輩との無言劇に於いては、座布団の占有争いで、有利な立場に立っていたのですが、
黒猫との関係では茶園の占有で不利な立場に立たされていました。
攻守が逆転しています。
勝者と敗者の心理を理解しているのです。
勝者であっても、敗者の気持ちが理解出来るのです。
その逆もしかりです。
吾輩と黒猫の立場、役割が、吾輩と鈴木藤十郎の関係においては攻守逆転しています。
立場の違いで相手の心理を知るには現代では役割演技法が知られています。
ロールプレイング(役割演技法)は漱石の時代には無かったと思われますが、
『吾輩は猫である』では、朗読会で役割演技法の意義に付いて話題に取り上げています。
それは、東風君が毎月一回行っている朗読会です。
東風君は「『役を極めて懸合でやって見ました。』
『その主意はなるべく作中の人物に同情を持ってその性格を発揮するのを第一として、それに手真似や身振りを添えます。』
(中略)「なるべくその時代の人を写し出すのが主で、御嬢さんでも丁稚でも、その人物が出てきたようにやるんです』」
と言いますが、珍野苦沙弥によれば登場人物のその性格も理解していないと批評をしています。
与えられた役の人物に成り切ってこそ、意義があるのです。
最近は企業や学校でも取り入れられっています。
役割遂行の過程で相互の理解を深め、問題の解決や自己再発見の訓練にも役立させています。
このロールプレイング(役割演技法)は漱石の「無言劇」、「無言の芝居」に何処か似ている所は有りませんか。
セールスマンと購買者との会話も無言の会話が含まれています。
其の無言の部分を、指導者や参加しているその他の人の指摘によって埋めて行くのが訓練なのです。
セールスマンと購買者の役割を交代して立場の違う相手の身に成って対応することで、相互に理解が深まるのです。
何故、話が期待とは違った方向へ進んで行くのか、
対応の言葉の何処が間違っていたのか、
セールスマン本人の気付かない無言の部分(購買者の考え)を互いに補い合って訓練してゆくのです。
漱石は既にこの方法と理論を認識して実行していたのです。
何故今回A Iや人工知能を取り上げたのか、それは人間の心理と比較するのに非常に効果があるからです。
A Iは特定の目的に合った機能のみに限定したソフトウエア―を作ることが出来ます。
それに比べると人間の心理は幾つもの機能が複雑に絡み合っていて、
特定の機能のみの実験が出来ないからです。
例えばスマートスピーカーの機能の一部は人間の言葉を理解することを目的に作られています。
人間をスマートスピーカーの目的の為に利用しょうとはしないからです。
ところが人間は相手を理解しようとする時、相手の為という純粋なものでは無く、
石地蔵の話のように自己の目的遂行の為に利用するという目的が裏に隠れていることが多いからです。
或いは統計的確率を全く無視した願望的想像に由る理解と判断が起り得るからです。
目的が異なれば答えも理解も違って来ます。
禅ではこれを「一念」とも言います。
一つの目的に向かって集中して努力するからです。
ロールプレイング(役割演技法)を漱石が何故重要視するのか、
理性の独走を認めたくないからです。
推理の空回りを恐れているのです。
事実に基ずかない知的遊戯を制止する為なのです。
予測や推理は必要です。
しかしその予測が事実に基ずくデータによるものか、無いのか確認を徹底する事なのです。
漱石は練りに練った作戦戦略でも頭で考えるだけでは無く、現実のデータや情報の裏付けで検証する事が重要だと考えていたのです。
また臨機応変な対応が計画よりも優先される事を知っていたのです。
我々は他人の知覚や認識、或いは意識を直接意識することは出来ません。
例えば人の体温を正確に知ろうとすれば体温計を使うのが普通だと思います。
体温に正確に反応する水銀を間接的に利用して知るのです。
肌と肌を接して知る方法もありますが、それは正確性に欠けるのです。
知ろうとする人の体温によって、感覚はちがってきます。
またそれを第三者に知らせる方法が有りません。
第三者に知らせるには数字で伝えるのが正確なのです。
製鉄所の溶鉱炉の中の温度は温度計が溶けてしまいます。
ではどうして知るのでしょうか。
製鉄技術が出来た時から光の色で判断して来たのです。
それも最初の頃は人間が直接目で見て判断して来たのです。
ただ人によって判断が違ってきます。
そこで光の波長による屈折率の違いをプリズムを使用することで計測してきたのです。
化学物質の判定にも化学反応で変化する色で知ることが出来ます。
漱石はこのような間接的反応を巧みに使い分け人の心を知るのです。
正面から質問しても質問された本人自身気付いていない感情や思考は知ることは出来ません。
知られたくない考は隠すこともあります。
また重要なことは今現在に重点を置くのです。
今現在の反応が重要であり過去は問わないことです。
原因は過去にあっても過去を知るには時間がかかります。
むしろ過去を知ることは偏見や先入観に囚われ判断を誤るのです。
また綿密な計画も判断の誤りの原因になることもあります。
吾輩がネズミを捕る綿密な計画を立てる場面があります。
その作戦は失敗に終わったのです。
自信満々で立てた作戦、簡単に捕獲出来るものと考えていた思いはことごとく粉砕されたのです。
ここから教訓を得るとすれば理性は当てに成らないと言うことです。
現実は偶然で満ちているのです。
今現在の状況を理解して判断するのです。
珍野苦沙弥と鈴木藤十郎の会話において珍野苦沙弥は鈴木藤十郎の今現在の考えを聞き出し瞬時に応答しています。
微かな反応も見逃すことなく対応しています。
鈴木藤十郎君自身意識していない動機を感知し機敏に対応しています。
鈴木藤十郎君の現在の反応から今の考えを知るのです。
此れほど確実な事実はないのです。
珍野苦沙弥は予測はしているのです。
ただその予測を単純に信じるのではなく、会話のその場で確認しているのが解ります。
また予測がなければ問うことが出来ず、反応も引き出すことが出来ません。
何を問い何を知るのか瞬時に判断しています。
それは鈴木藤十郎君の言行不一致を知ることを目的にした問です。
言っている事と行為の違いは正確に知ることが出来ます。
知ることが出来ても本人は気付いていないのです。
問う方もどちらが事実か解りません。
言っている言葉を信じてよいのか、行為を真意と理解してよいのか迷います。
ただその双方ともその言行不一致に気付いていないことが多いのです。
そこで更に珍野苦沙弥は問を続けて確認しているのがわかります。
沢庵禅師は考えずに実行せよといいます。
しかし沢庵禅師も事前の準備、予測を怠ってはいないのです。
それは準備と練習、訓練です。
武士にとって当たり前のことはいっていないのです。
沢庵禅師が「心は一切使う必要が無い」という意味は事前に予測が立てられているからなのです。
吾輩の「不動心9 無言劇」も珍野苦沙弥と鈴木藤十郎の「不動心8 吞み込む飲み込まれる」も結末は完全に読まれていたのです。
だから咄嗟の事態に即応できるのです。
「心は一切使う必要が無い」のです。
今回はこれでおわりにしたいと思います。
『吾輩は猫である』の引用は青空文庫です。