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瞑想15:「維摩経」不二法門

維摩居士

不二法門とは苦と楽、善と悪、迷いと悟り、煩悩と菩提これらは二項対立の概念であるが不二であるという説です。

しかしそうは言っても現に人は迷いのない日、苦痛を感じな時は少ないと思います。

楽しいときもあるけれども苦しいときのほうが圧倒的におおいのです。

楽あれば苦もあるというのが不二法門であるというそんな単純なものでもなさそうですし。

それでは苦とはどのような状態なのか楽とは興奮している時なのでしょうか。

強制された重労働は苦痛でありますが何故それが楽でもあるのか理解できません。

また苦痛は生じることはなく生じなければ滅すこともないというのです。

その説明はこうです。

本来は苦もなく楽もないのですが自ら苦を作り楽をつくっているというものです。

ではどうすれば苦でもなく楽でもない状態になれるのかわかりません。


こういう疑問や議論は当然感じるのがあたりまえです。

ただ「維摩経」を読む前提をわすれているのです。

前提なしに考えたり議論するのは不毛におわります。

人間だから苦とか楽が問題になります。

維摩居士が話すという条件の基に不二法門が成立するのです。

維摩居士には楽とか苦は気にならないというのです。

維摩居士においては苦が生じることも滅することもないのです。

だから苦も楽もある文殊菩薩がいくら不二法門を力説しても修行中だったのです。

本物である維摩居士を前においていくら文殊菩薩が熱演しても見抜かれるのです。

真理は言葉で表現できないのだというのが「維摩の一黙」の解釈であります。

偽物でなかったら以心伝心と言って維摩居士のまえでは言葉が通じるのです。

文殊菩薩たちが言行不一致だから維摩居士が無言だったのです。

文殊菩薩たちの言葉と行為に矛盾がなければそれは不二法門だったのです。

言行一致だったら言行不二と言い換えられます。

すなわち不二法門だったのです。

難しそうで不二法門もわりと簡単だたとおもいます。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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