『不動智神妙録』秘伝の神髄:6
もう一度「不留」について説明します。
心を留めるとは剣術で言えば、ゲシュタルト崩壊を起こして、時々耳を塞ぎ、目を閉じて太刀に向かっているのと同じ事になります。
これ程無謀な行為はありません。
沢庵禅師の言いたい事は極言すれば一時も目を閉じるな、耳を塞ぐなと言っているのです。
目を閉じ耳を塞げば不安になり恐怖さえ感じるのは誰しも同じです。
また日常生活を例にとれば。
それは英語の学習法に多読といって、優しい英語の原文を辞書なしで読む方法があります。
途中で知らない単語が出て来ても、辞書で調べずそのまま続けて読むのだと言います。
まさに、この方法こそが沢庵禅師の心を留めては成らぬと言う方法なのです。
文章の意味はその国語の文法によって意味が決まってきます。
言葉を理解するにはその文脈や言葉の順序よって意味が違ってくるのです。
英語の主語と動詞の関係のように、主語+動詞は平常文であって、動詞+主語は疑問文になります。
英語の文法は良く知らないのでこのくらいで止めて置きますが、やはり辞書で調べていては連続性を中断する事になり、
寄り道していては順序が狂って仕舞うのです、それを心を留めると沢庵禅師はいうのです。
一気に読まないと連続性は保てず意味が解らなくなります。
これが講義とか講演などに成りますと途中で何か考え事や雑念が起こりますと、全体の意味がこわれます。
講義などで眠くなるのが変化のない単調な話で静かにゲシュタルト崩壊を起こしている証拠になります。
動きのない話はうわのそらでただ声が聞こえているだけです。
ゲシュタルト崩壊について誤解があるので一言注意をしておきます。
情報が大脳の処理能力を超えて一度に大量のデータを処理しきれないので頭が混乱するのだということではない。
むしろ入力情報が遅いために起こる混乱である。
それは話の間で連続性の中断による意味喪失なのです。
だから高齢の老人で話の遅い人がいます、この場合あまり間が長いと意味が解らなくなります。
そういいながら本文を読んでいたら知らない単語が出てきました。
「主一無適」という単語がそれで、論語からの引用ですが意識を集中して他に気をそらさないという意味でした。
一見心を留めないことと矛盾するようですが、辞書なしで読む方法のことです。
単語の意味は解っても、もう一度始めから読まなければ全体の意味はわかりません。
だから練習中ではやり直しが出来るから心を留めてもいいのです。
まず本文を読みましょう。
前回の最後のところから始めます。
「花紅葉を見ても、花もみぢと見る心が生じながら、そこに止らざるこころを専とする也。慈国の歌に、」
花紅葉を見て花紅葉と認識しても心は止まることはない。
例えば慈国が詩歌を詠んだ。
「柴の戸に匂はぬ花はさもあらばあれ詠てけりなうらめしの身や花は無心に薫じぬるを、
我は心を花にとどめ候てながめけるよと身をかへり見て、色にそむ心のいまだ尽せぬ事をなげく也。
一詠たりとも心をとめずば、過ちは有間鋪なり。
見とも聞ともなずとも、所に心をとめぬを至極とする也。」
大変面白いことを言っております、花を見て「心をとめずば、」過ちだと言っております。
動かない対象である花を見続けなければ過ちだと言いいます。
これまでは動かない対象である剣に心を留めてはいけないと言っておりました。
ところが「一所に心をとめぬを至極」とまったく逆の言葉が出てきます。
これでは言うことが逆になるようですが、「無心に薫じぬる」花を見る人の心が豊かに働いているのです。
よく読めば花紅葉の一か所に心をとめないから、「一所に心をとめぬを至極」という。
見る対象と見る人のどちらかが動いていればゲシュタルト崩壊は起こらないのです。
花を観賞して詩歌を作っていれば注意をそらすことは過ちになります。
さて敬の字を主一無適と註いたした、心を一心に取定てよそへちらさず一切のわざをするに、
其わざ一を主りてよそへ心をやらぬ様にして、刀にてうしろより斬るとも、其方へ心をやらぬを敬といふ也。
最肝要の事也。」
ここでは武士たるもの将軍家の意向をいかなる時も忘れず心して斬る時は斬れそれが最重要である。
「敬の字の心が眼たるべし。兵法にも敬の字心ある文也。
一心不乱と説き給ふ事、是敬の字の心なり。
敬白の鐘とて、三つ鳴して、合掌して敬白す。
夫仏とは唱へ上る也。此の敬自の心が則主一無適、一心不乱同義也。」
敬白とは手紙の最後に書く文字でその内容に嘘偽りはありませんと誓うことになります。
一心不乱とは全心身を集中して心と体は同じ目的に向いており乱れず迷いのないことです。
一心不乱と誓うといっても誰に誓うのか自己に言い聞かすことである、だから唱えることであるという。
「然れども仏法では、敬の字は至極の所にてはなし。」
しかれども仏法では徳川家に誓うことではありません。
「吾心をとらへて乱れぬ様にと習へ、修行稽古の位にて候。
此稽古年月積りぬれば、心を何方へ離ちやりても自由成位へ行也。」
修行稽古は善悪を忘れ一心不乱に行うことであり、年月を積めばどのように振舞っても間違うことはない。
「敬の字の心は、心のよそへ行を引留てやるまひ、やれば乱るると思ひて、
そっとも油断なく心を引つめて不自由で用が欠る也。」
誓うとは心の向くままに自由させておけ、油断したり情けをかけたり人情におぼれては心が乱れると思わなければ自由は手に入れられない。
「兵法にあてて云ば、太刀を打つけよ、打手に心なとめそ。
一切打予を忘て打てよ、人を斬れ、人に心ををくなよ。
人も空、我打太刀も空と心得、空に心はとめられぬぞ。
形ある物には自がとどまりて心が引るぞ。空にはとどまるべき様がなき也」
此の文を読む前提を知っておかなければ意味はわかりません。
それは建長寺開山大覚禅師が今の中国にいた当時、唐の乱で兵士に捕まった状況を頭に入れておかなくては行けません。
大覚禅師はお坊さんであり太刀は持っておりません。
ここでは無刀で立ち向かう心得を言っております。
だから「我打太刀も空」とは太刀を使わないということです。
更に敵も空だといい敵が居なければ戦うこともないのです。
敵に自己を空だと思わせるにはマジシャンのように注意を自己から逸らさなければなりません。
それには「無念無相」になる必要があります。
次回で詳しく解説します。
気が付いたところや疑問に感じたところがありましたらコメント欄で指摘してください出来るだけ対応します。
『不動智神妙録』秘伝の神髄:7へ続く
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。