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虹を通して見えたオホヤマトトヨアキヅシマの縮図



1.虹と龍について新たな知見を得た甲辰の年


 2024年甲辰は虹と龍について新たな知見を得た年となりました。

 その前半は「龍神考」を書き続けてきた中で、古代中国での龍のイメージの中核となる龍の胴体が「蜃(みずち)」であり、その実体は「大蛤」との有力説が古来存在し、「蜃」や「蜃気楼」には「市」との関連性が認識されていたこと、さらに日本神話での龍の異称「和邇(わに)」は「船」の意味の南洋語に由来するとの説や龍神信仰と「市・商売繁盛祈願」の深い関係を示す社寺(博多の龍宮寺など)の存在から「(市を支える)船〜和邇〜龍〜蜃〜市〜船…」の連環に気づきました。

 その後7月からは、過去記事に述べてきた通り、海面に現れる虹や虹色に変わる雲など通常と異なる形で虹や虹色の雲を目にするようになったことから、「虹」とはいったい何なのかという問いが心中に浮かんできました。

 そこで改めて調べてみると、虹=龍とする考え方が古代中国からあり、「虹」蛇体の存在を示す「虫」と天地をつなぐ意味の「工」からなると知りましたが、それ以上に貴重な情報だったのは、虹が立った所や見えた所に市を開く考え方が中世日本の文献から確認されることを紹介するウィキペディア「虹」の記事です。

 虹は人界と神界(人類の遠祖)、此岸と彼岸(祖霊の居場所)との境界や架け橋などともされますが、その虹が立った所に市を開く考え方は、中世日本で市が墓場(祖霊の居場所)でも開かれてきた歴史や、古代中国の「虹=龍=あらゆる動物の祖」とする考え方とも整合性があります。

 お盆で祖霊を精霊船に乗せて見送ることや、「此岸」と「彼岸」という言葉も、両方の間は「船」で往来するものであることを暗示していますが、皇族方の納棺を「御船入りの儀」と謂うのも、上述の信仰思想に由来することが窺えます。

「御船入りの儀」の言葉が意味深長なのは、墓地とも考えられる縄文貝塚から出土する貝殻の約8割が市と関係が深い蛤(蜃=古代中国では龍の胴体)であり、蛤は細い粘液を蛇体のように出して潮流に乗って遊泳でき、その特徴が「船」や龍の異称「和邇(「船」の南洋語由来説)」を連想させるからです。

 そこで前述の「(市を支える)船〜和邇〜龍〜蜃〜市〜船…」という連環を次のように補足することができます:
「船(棺や祖霊の移動手段の含意も)〜和邇(南洋語「船」)〜龍(あらゆる動物の祖)〜虹(人界と神界の境界)〜墓(祖霊の居場所)〜貝塚(縄文時代の墓)〜蜃(縄文貝塚の貝殻の主体=蛤は船のように遊泳可能、二枚貝の蛤は等価交換=市の原則の象徴)〜市(蛤=貝塚=墓=神や祖霊=龍=虹が立つ場所)〜船…」

 この連環に気づき、2023年8月27日に神大市姫命(市を主宰する女神で稲荷神の母神)を祀る福岡県糟屋郡新宮町の夜臼地区の氏神、高松神社の傍に虹が立ったのを思い出しました。

かつて虹の立った場所に開かれていた市を主宰する女神で稲荷神の母神でもあるカムオホイチヒメを祀る高松神社(福岡県新宮町夜臼地区の氏神)を参拝後の帰路に目にした虹(2023年8月27日18時26分)


2.虹=龍をよく目にした2024年甲辰と数秘術的考察


 昨年は7月、8月、9月、11月、12月に虹を目撃してきましたが、11月は太陽とは反対の方向に現れる普通の虹の他に、太陽の真上に現れる逆さ虹(環天頂アーク)も久しぶりに目にしました。

 それは、所用で糟屋郡須恵町に向かっていた11月25日、福岡県須恵スマートインターチェンジ傍の高速道路下のトンネルを通り抜けたところで日暈と幻日の撮影を始めた時に、そのもっと高みに逆さ虹が出ているのに気づいたのです。

 後で地図で調べると、所用の前に参拝しようとしていた新生(あらお)交差点に隣接する大山祇神社の方向の上空に出ていたことが判りました。

 この逆さ虹が印象深かったのは、大山祇神が虹と関係のある神大市姫命の父神であること、この日が甲辰歳癸巳日で巳=蛇は龍の子や弟とも考えられてきたこと、「虹=龍」とする考え方の他に「虹=蛇」とする考え方もあること、また後で知りましたが、同日に皇嗣殿下の御誕生日に放送予定の記者会見が行なわれ、御誕生日当日の放送の中でも「皇嗣」という表現が「」付きながらも見られたからです。

皇嗣殿下御誕生日記者会見で記者から「皇嗣」の表現が出た2024年11月25日、須恵町新生の大山祇神社の方向の空に現れた日暈と幻日(枠外)、逆さ虹=環天頂アークを目撃、天御虚空(アマツミソラ)を連想


 皇嗣殿下についてマスコミが言及する際、頑なに「皇嗣殿下」ではなく「秋篠宮様」の表現で通してきたことからすれば、然るべき方向に「一歩前進」したと言うことができます。

 この変化には石破内閣の総務大臣に村上誠一郎氏が就任したことが寄与しているとする見方もあり、もしそうならば、このように「前進」させることが本来の保守政治のあるべき姿でしょう。


 その後11月27日にJR鹿児島本線で博多に向かう途中、福岡市東区の名島と貝塚の間から海に注ぐ多々良川を渡る時に虹が立ちつつあるのに気づき、もっと箱崎駅に接近中によりはっきりと虹が見え、古来イザナギノミコトが鎮まると信仰されてきた若杉山の方から立ち昇っていることが判りました。

イザナギが鎮まるという若杉山方向に出ていた虹(JR箱崎駅に接近中の電車内、昨年11月27日16時21分)



 その翌日の11月28日は弘法大師が唐から帰朝後最初に開いた真言密教寺院である東長寺に参拝すると、知人の参拝者から昨夕(27日)虹を見たと聞いて、私も見たと話していたところ、その知人と親しい別の参拝者は今朝(28日)二重の虹を見たと話し出して、三人とも驚きと感動がないまぜのひと時がありました。

 東長寺での不動護摩法要の一時間ほど前は曇天でしたが、そのうち晴れ間が見え出し、以後雨と晴れを繰り返していましたが、法要が終わるタイミングでは西向きの本堂に強い陽光が真っ直ぐ差し込んでいました。

 その時は周辺をビル群に囲まれているお寺の本堂内にいたので、虹が出ていても見えるはずはありませんでしたが、こういう天気からしてどこかで虹がしかも何度も出ていた可能性は十分あったはずです。

 それから程なくして12月2日に、前も述べた通り、朝方に二重の虹を夢に見て、その同じ日の夕方に立花山の六所神社辺りと北隣の三城岳及び前岳の谷間辺りから昇る二重の虹を実際に目にして正夢となったことで、皇嗣同妃両殿下の翌3日からのトルコ御訪問の「露祓い」の吉兆のように思われた次第です。

皇嗣同妃両殿下トルコ御訪問前日の2024年12月2日の夕刻、雌雄の龍の現れともされる二重の虹=虹霓が「露祓い」のように立ち昇っていた(虹は前岳・三城岳の谷間の方向、霓は立花山の六所神社辺りから)



 そして皇嗣同妃両殿下が無事御帰国になって間もない12月11日に悠仁親王殿下の筑波大学受験合格が発表されました。

 数秘術的観点からは2024年の12月2日も12月11日も「2+0+2+4+1+2+1+2(または1+1)=4」と同じであり、「4」は「1」から始まる物事が一旦形を整えるように定まることを意味していると思いますが、高校までの学業を経て大学受験合格という専門性を持つ学業の方向性が定まった悠仁親王殿下の状況に合致する数秘であるとも言えないでしょうか?

 同大学のHPで入試日程を調べると、悠仁親王殿下が受験された学校推薦型入試の日程は11月28日〜29日だったと知りました。

 弘法大師空海が真言密教の根本道場を開かれた高野山に由来する高野槙を御印とされる悠仁親王殿下には、11月28日に全国各地の真言寺院で月例の護摩供養が行なわれた不動明王の御加護もあったかもしれないと、東長寺護摩法要当時の天気から拝察した次第です。


 そもそも2024年甲辰の数秘は「2+0+2+4=8」で龍神信仰とも関係の深い「8」であり、上述の12月2日と11日の他に年月日の数秘が「4」となる日には
皇嗣殿下の御誕生日の11月30日(2+0+2+4+1+1+3+0=13→1+3=4)と、佳子内親王殿下の御誕生日12月29日(2+0+2+4+1+2+2+9=22→2+2=4)もありました。

 皇室動静を伝えるブログ記事などによると、皇嗣殿下御一家を誹謗中傷する複数のサイトや動画チャンネルが相次いで閉鎖され、それらが主張していた「愛子天皇論」も下火になってきたことにも、皇嗣殿下と佳子内親王殿下の今年の御誕生日の数秘「4」の影響が出ているのでしょうか?

 昨年は佳子内親王殿下のご様子を伝えるSNS投稿の再生回数が他の皇族方に比べて格段に多いとの指摘も目にしましたが、ご公務の数が多くとも一つひとつ丁寧に取り組まれる佳子内親王殿下の虚飾ではない内実を伴ったお姿を目の当たりにした国民の敬意と好感が確固たるものになった一年でもありました。

 他方、先日の皇居における新年一般参賀の際の愛子内親王殿下がお立ちの位置が昨年と同様に本来あるべき位置ではないとネット上でよく指摘されており、虚飾の印象操作によって「愛子天皇擁立」をゴリ押ししようとすればするほど愛子内親王殿下のイメージには逆効果となっていくでしょう。


3.筑波山の信仰と立花山(二神山)の信仰


 悠仁親王殿下の筑波大学合格の慶事を機に筑波という土地に関心を覚え、筑波山の信仰について調べてみたところ、大変興味深い気づきを得ました。

 男体山と女体山からなる双耳峰の筑波山イザナギノミコトとイザナミノミコトのニ神が御鎮座で(筑波山神社)、その「里の宮」「男女御座替の宮」として六所皇大神宮・六所神社跡(イザナギ・イザナミ、アマテラス、スサノオ、ツクヨミ、ヒルコ)があり、筑波山は男女川(ミナノガワ)の水源となっているそうです。


 以前から度々取り上げてきましたが、筑波ならぬ筑紫(福岡)の立花山はかつて「二神山(フタガミヤマ)」と呼ばれ、見る方向次第で主峰の井楼山と松尾岳または白岳が重なることで双耳峰に見えるので、イザナギとイザナミの二神が御鎮座と信じられ、その中腹にアマテラスの奉祀に始まり、後に五柱(熱田、宇賀、春日、賀茂、貴船)が合祀された六所神社があり、この山から続く丘陵を源とする湊川(ミナトガワ)が流れています。

 つまり筑波の筑波山と筑紫の立花山(二神山)の信仰は極めて似ているのです。

 箇条書きで整理してみましょう。
〜筑波山〜
双耳峰→筑波男大神と筑波女大神→イザナギイザナミ
・「里の宮」「男女御座替えの宮」=六所皇大神宮→アマテラス+五柱の神々
・「ミナノガワ(男女川)」の水源

〜立花山=二神山〜
・見る方向次第で「双耳峰」→イザナギイザナミ
・中腹に六所神社→アマテラス+五柱の神々
・「ミナトガワ(湊川)」の水源の近く

 以上列記しただけでも、一つひとつの地名や神社の社号、御由緒などが偶然ではない可能性を窺えます。


 双耳峰がイザナギとイザナミだけでなく、他の男女神や親子神として感得されてきた例は他にもあります。

 しかし筑波も筑紫も社号が同じ「六所神社」が御鎮座で、筑波では「伊勢神宮の分社」の「六所皇大神宮」とも謂い、筑紫の立花山の「六所神社」がアマテラスの奉祀に始まることまで一致すると、偶然で片付けるのは早計でしょう。

 尤も、筑波山の六所神社も立花山の六所神社もアマテラス以外の御祭神は異なりますが、両社とも「ロクショ」という言霊の必然性が意識されたが故に、御祭神が六柱になるように調整された可能性を考えるべきでしょう。

 筑波山の方は不勉強ですが、立花山の六所神社には日本における天台宗祖、伝教大師最澄が地元猟師の協力で独鈷寺を開創した伝説があり、最澄が天台宗布教の適地を探すべく投擲した独鈷の飛来に伴う不思議な出来事にこの猟師が遭遇したのが「鹿狩り」の最中だったとされ、六所神社の境内には樹皮が鹿皮の斑を連想させる「鹿子(カゴ)の木」(福岡県指定天然記念物)があり、「鹿」は「ロク」とも読み、その言霊が社号や御祭神の数などに意図的に使用されてきたことが窺えます。

イザナギ・イザナミが鎮まる二神山(今の立花山)中腹にアマテラスほか五柱を祀る六所神社本殿と福岡県指定天然記念物の鹿子の木に「六」=「鹿」=「ロク」の言霊が意識されている可能性(2022年4月)


 また筑波山からも立花山の麓からも、一字違いながら「ミナノガワ(男女川)」「ミナトガワ(湊川)」がそれぞれ流れていることも注目されます。

 しかも両者の言霊は、信仰思想上では実質的に同じ意味を持っていることを示唆しています。

 なぜなら、玄界灘に注ぎ込む河口に新宮魚港がある「湊川」は「水戸川」と書き換えることもできるからです。

 イザナギとイザナミのミトノマグハヒ(異性生殖)で生まれる神々の中にミトとも呼ぶ「水戸」の字を用いた「水戸神(ミナトノカミ)」が登場します。

 それはハヤアキヅヒコとハヤアキヅヒメという河口の男女神のことであり、この男女神もイザナギとイザナミの男女神と同じく神々をお生みになることが古事記に明記されているのです。

 この点を思い起こせば、イザナギとイザナミの男女神に見立てられる双耳峰から流れてくる川が筑波では「男女川」とされ、筑紫では「湊川=水戸川=ミナト川=イザナギ・イザナミの子孫たる水戸神(ハヤアキヅヒコ・ハヤアキヅヒメ)の男女川(ミナノガワ)」となる信仰思想が浮かび上がってきます。


4.オホヤマトトヨアキヅシマの言霊に籠る神々


「水戸(ミナト)の男女(ミナノ)神」ハヤアキヅヒコとハヤアキヅヒメの御名の中の「アキヅ」はトンボの古称であり、そのトンボを悠仁親王殿下は熱心にご研究になってありますが、「アキヅ」はイザナギ・イザナミのミトノマグハヒで生まれた日本列島の中核である本州=オホヤマトトヨアキヅシマ(古事記:大倭豊秋津島/日本書紀:大日本豊秋津洲)、別名はアマツミソラトヨアキヅネワケ(古事記:天御虚空豊秋津根別)にも含まれる言霊です。

 同じ言霊を共有する物事には互いに共通する面があるとするのが言霊の信仰ですが、悠仁親王殿下のトンボ=アキヅのご研究は将来的にオホヤマトトヨアキヅシマ=本州=日本列島の中核のご研究にもつながっていくのでしょうか?


 そう思ったのは、悠仁親王殿下がトンボ=アキヅのご研究を経て自然誌にご関心をお持ちになったからです。

 自然崇拝の日本神話(特に古事記上巻)は、自然界の諸要素を「神」と表現し、「神々(自然界の諸要素)」の相互作用を擬人化した「神話」の形で記している「自然誌」と言い換えられるからです。

 したがって自然誌の研究がそのまま日本人古来の自然観である日本神話の研究につながっていく可能性は自然な流れでもあると思います。


 さて、ハヤアキヅヒコとハヤアキヅヒメのアキヅオホヤマトトヨアキヅシマに含まれる理由として、イザナギとイザナミのミトノマグハヒ(異性生殖)でご誕生の水戸神(ハヤアキヅヒコとハヤアキヅヒメ)もともに神々をお生みになることが明記されている点を挙げましたが、そこに注目すると、オホヤマトトヨアキヅシマに含まれるオホヤマトの意味の一端にも迫ることができそうです。


 イザナギとイザナミのミトノマグハヒによりご誕生になり、自らも神々をお生みになったと古事記上巻に明記される男女神が他にもう一組いらっしゃいます。

 それは「山の神」オホヤマツミノカミ(大山津見神)と「野の神」カヤノヒメノカミ(鹿屋野比賣神)、別名ノヅチノカミ(野槌神)で、この男女神もハヤアキヅヒコ・ハヤアキヅヒメの男女神と同じように八柱の神々をお生みになります。

 そしてハヤアキヅヒコ・ハヤアキヅヒメのアキヅと同様、オホヤマツミノカミのオホヤマツ(=オホヤマト?)の言霊がオホヤマトトヨアキヅシマに含まれる可能性に気づきます。

 つまり日本列島の中核たるオホヤマトトヨアキヅシマには、イザナギとイザナミの間にお生まれの男女神で、自らも両親と同じく神々をお生みになったことが明記されることが共通しているオホヤマツミとハヤアキヅヒコ・ハヤアキヅヒメが意識されているのではないでしょうか?

 ならば、オホヤマトトヨアキヅシマは「山の神」と「水戸の神」、すなわち山々と河口(河川)が多いことが強調された地名とも言え、それは本州と、本州を中核とした日本列島全体の自然地理的特徴にも合致します。

 オホヤマトトヨアキヅシマに「野の神」カヤノヒメやノヅチの言霊が窺えないのは、誕生直後の日本列島は平野部があまりなかったためで、それは後に「山の神」と「野の神」によってアメノサヅチノカミ(天之狭土神)とクニノサヅチノカミ(國之狭土神)がご誕生になる展開からも窺えます。


 以上から、「水戸神」ハヤアキヅヒコ・ハヤアキヅヒメの存在を窺わせる筑紫の湊川河口の真東から約45度南の巽(辰巳の境界)にイザナギとイザナミが鎮まる二神山(今の立花山)の山頂、また真東から約30度南の正辰に標高も同じ夫婦のように並ぶ前岳と三城岳の谷間が各々位置し、その谷間の方向から冬至の頃の日の出を拝むことができるのが意味深長に思われてきます。

福岡県新宮町の湊川河口の真東から約30度南に標高もほぼ同じで夫婦のように並ぶ前岳・三城岳の谷間の方から昇る冬至の頃の旭、右はイザナギ・イザナミが鎮まる立花山=旧二神山(昨年12月25日7時35分)


 次に前岳と三城岳の谷間から福岡市東区三苫の綿津見神社(綿津見三神、豊玉姫命)に直線を延ばすと、それは真西から北に約15度(酉戌の境界、夏の始まりと終わりの頃の日没の方角)であり、逆に三苫綿津見神社から見た前岳・三城岳の谷間は冬の始まりと終わりの頃の日の出の方角に位置しています。

香椎宮と深い関係にある福岡市東区三苫の綿津見神社(志賀三神、豊玉姫ほか、旧称「八大龍王社」)は前岳・三城岳の谷間の真西から約15度北(夏の始まりと終わりの日没の方位)に位置(昨年8月8日夕刻)


 さらにこの直線は途中でオホヤマツミの娘カムオホイチヒメ(神大市姫)を祀る高松神社の丘も通過する興味深いラインでもあります。

三苫綿津見神社(豊玉姫他)→前岳・三城岳の谷間の直線(冬の始まりと終わりの日の出遥拝のライン)は新宮町夜臼の高松神社(神大市姫)の丘の隣の道路を通過(この写真は昨年12月31日8時2分に撮影)


 ワタツミの神々は「綿津見」や「海神」の表記で全国津々浦々に祀られていますが、三苫の綿津見神社の特徴は海神の娘で神武天皇の御祖母トヨタマヒメが御祭神に加えられ、皇室の四所宗廟の一つである香椎宮の神輿渡御奉賽の儀が古来あり、現在も隔年に一度の香椎宮神輿渡御の際は同宮の神職が三苫綿津見神社に遣わされていることです。

 これは神功皇后が対馬から新羅へ御出航の際に発生した暴風を鎮めるべく海神の神助を請うために放たれた三枚の苫(雨露をしのぐ船具)が当地に漂着したことで「三苫」の地名が生まれ、海神を祀られたとの御由緒に関係するように思います。


 対馬で最も有名な神社の一つ、和多都美(ワタツミ)神社もヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊=山佐知毘古)とトヨタマヒメの夫婦神を祀り、もう一つの海神(カイジン)神社の主祭神もトヨタマヒメだからです。

 以上から、オホヤマトトヨアキヅシマの「トヨ」、そして「ツシマ(ヅシマ)」(別名アメノサデヨリヒメ=天之狭手依比賣)の言霊も浮上してきました。

 
 これ以降は、夫婦のように並ぶ前岳と三城岳を「夫婦岳」と便宜的に仮称して、上記の発見を箇条書きにして整理しておきましょう:
オホヤマトトヨアキヅシマの言霊とそこに籠る神々
・「オホヤマト」→オホヤマツミ=山の神 
*カヤノヒメノカミ=野の女神
・「トヨ」→トヨタマヒメ=海の女神 
*ヒコホホデミ=山幸彦
・「アキヅ」→ハヤアキヅヒコ・ハヤアキヅヒメ=水戸(河口)の男女神
・「ツシマ(ヅシマ)」→対馬(津島)=アメノサデヨリヒメ
・ミナト川河口=ハヤアキヅの男女神→夫婦岳の谷間(冬至の頃の日の出)
・ミトマ綿津見社=海の女神トヨタマヒメ→山の女神カムオホイチヒメ→夫婦岳(冬の始まりと終わりの日の出)

 
以上で今後の探求のために留意しておくべきことは、オホヤマツミとカヤノヒメはともに陸の神々、ハヤアキヅヒコとハヤアキヅヒメはともに河口の神々なのに、トヨタマヒメとヒコホホデミは海の神と山の神で、本来の居場所が異なる点です。

 ただ見方を変えれば、そもそもの居場所が異なる海と山の神々の結合という点が却って重視、特別視されていることを暗示しているのかもしれません。


5.ツシマとオホヤマトトヨアキヅシマの相似性


 他方、対馬(津島)は山野や水戸という特定部分の地理環境ではなく、それらを含む島全体がアメノサデヨリヒメ(天之狭手依比賣)と女神のように擬人化されてもいます。

 これは古事記の特徴で、イザナギとイザナミがお生みの島々には擬人化した御名が付けられたものもあります。

 では、対馬(津島)をアメノサデヨリヒメと呼ぶことで、古事記は何を伝えようとしているのでしょうか?


 対馬はその地政学的環境から、古来朝鮮半島やそれ以遠の国々との交流、時には戦争の最前線の役割を担ってきました。

 そのような視点で対馬(津島)=アメノサデヨリヒメとする信仰思想を読み解くヒントになるのが、六世紀半ばに朝鮮半島の任那と百済を新羅から救うために派遣された大伴狭手彦(オオトモノサデヒコ)とその妾で、彼の船出を見送る際に領巾(ひれ)を振った松浦左用姫(マツラサヨヒメ)です。

 サデヒコとサヨヒメがサデヨリヒメと重なる言霊を持つことが注目されますが、神話に出てくる神々の神名と人物名に言霊の重なりがあれば、それは互いに何らかの関係性を暗示するものとして考察すべきです。

 サデヒコは朝鮮半島へは最終的に対馬=アメノサデヨリヒメから向かったので、サデヒコを最終的に見送った対馬=アメノヒメサヨヒメを準えた可能性が考えられます。

 あるいは上対馬+下対馬を「男女和合の対の島」と意識した上で、対馬の全体を「アメノサデヨリヒメ」と命名し、上対馬に「サデヒコ」・下対馬に「サヨヒメ」を割り振って準える考え方があったのでしょうか?

 それとも視覚的にサヨヒメが左右の肩から垂らした細長いショールのような領巾(ひれ)を振る姿が、左右(北東と南西)一列に並ぶ上対馬と下対馬の横長の二つの島に二重写しにされていたのかとも想像します。


 ここまでお読みになったところで、内容がオホヤマトトヨアキヅシマ=本州からだいぶ遠ざかったような印象を持たれるでしょうが、左右の肩から垂らした領巾を振る際、左右同時に同じ方向(上下)に振る場合と、左右それぞれ逆方向(例えば左は上、右は下へ)振る場合もありえますが、後者の様相に似た形をしているのが本州=オホヤマトトヨアキヅシマです。

 紀伊半島を中軸として西日本も東日本も細長く延びていますが、西日本は日本海にやや張り出し、東日本は逆に太平洋側にやや張り出しています。

 一方、本州がトンボ=アキヅの形を連想させるとの指摘は前々からありますが、トンボ=アキヅの肩から左右に伸びる薄く細長い羽と、肩から左右に垂らす細長い領巾を二重写しにしてみることもできるのではないでしょうか?

 もしも上述の見立てが成り立つ場合、ツシマ(ヅシマ)とオホヤマトトヨアキヅシマは似ていると考えられたのでしょう。

 前述のとおり、本州=オホヤマトトヨアキヅシマは「山の神」=オホヤマトと「水戸の神」=アキヅ、つまり山々と河口や港の多い島とすると、ツシマも山勝ちで「津」=港が多い「津島」であり、対馬の中央部(上対馬と下対馬の交差地域)にトヨタマヒメを祀る海神神社とヒコホホデミ・トヨタマヒメを祀る和多都美神社があることが、本州=オホヤマトトヨアキヅシマの地名の中央に「トヨ」の言霊があることに関係しているかもしれません。

 また外国の視点からしても対馬は日本(列島)の「窓口」だったのであり、その「窓口」を通した日本全体のイメージもまず本州=オホヤマトトヨアキヅシマから広がっていったことと思われます。

 ただ、対馬と本州はどちらも北東から南西に亘り横長い、また細長い陸地が二つ並びますが、対馬は水路で分かれ、本州は紀伊半島で接続しているという違いがあります。

 この西日本と東日本が繋がる部分、紀伊半島に古の人々がトンボ=アキヅの胴体を連想したのにはまだ他にも理由がありそうですし、オホクニヌシにまつわる神話は領巾(ヒレ)とヘビの類似性を暗示してもいることから、東日本と西日本は紀伊半島で交尾中の雌雄のヘビがそれぞれ北東と南西に延ばした上半身に見立てられ、そこに本州の別名をアマツミソラトヨアキヅネワケ(天御虚空豊秋津根別)とした可能性もありそうですが、これから先の考察は巳年の今年の課題としましょう。


6.筑紫の一角に見えたオホヤマトトヨアキヅシマの縮図


 最後にツシマとオホヤマトトヨアキヅシマの関係性に思い至るきっかけとなった福岡県新宮町の前岳と三城岳、湊川、三苫綿津見神社に戻りましょう。

 湊川と三苫綿津見神社を取り上げた理由は、それらに潜在する言霊と本州=オホヤマトトヨアキヅシマとの関連性に気づいたからでした:
・湊川=水戸川=水戸神(ハヤアキヅヒコ・ハヤアキヅヒメ)の男女川
・対馬と有縁の三苫綿津見神社=トヨタマヒメ(ツシマの海神、和多都美の神社)

 こうしてみると、消去法で「夫婦岳」にはオホヤマトの言霊の由来と考えたオホヤマツミとの関係があるかもしれませんが、「夫婦岳」を構成する前岳と三城岳がオホヤマツミとカヤノヒメの男女神に対応するかどうかは不明です。

 前出の高松神社の御祭神カムオホイチヒメのようにオホヤマツミの娘でも母神が不詳なケースがあるからです。

 次に湊川河口と三苫海神神社から見た「夫婦岳」の谷間は次の方角にあります:
・湊川河口→「夫婦岳」=真東から約30度南(冬至の頃の日の出
・三苫綿津見神社→「夫婦岳」=真東から約15度南(冬の始まりと終わり日の出

 逆に視点を「夫婦岳」からに移すとこうなります:
・「夫婦岳」→湊川河口=真西から約30度北(夏至の頃の日没)
・「夫婦岳」→三苫綿津見神社=真西から約15度北(夏の始まりと終わりの日没)


 ここで三苫綿津見神社→「夫婦岳」の直線が高松神社(カムオホイチヒメ)の丘を通過し、そして以前も指摘していたカムオホイチヒメ(=ウカノミタマの母)とトヨタマヒメ(ウガヤフキアヘズの母)の類似性(稲魂や穀霊の母)からしても、三苫綿津見神社〜高松神社〜「夫婦岳」の位置関係も偶然ではないと言え、よって「夫婦岳」にはカムオホイチヒメの父であるオホヤマツミが存在している可能性が窺えます。


 またミトマ(三笘)の地名にも「ミ(ナ)ト」=男女や水戸の暗示が窺えることにも気づきました。

 そもそも平安時代頃まで湊川河口付近の磯崎鼻という岬から三笘綿津見神社までの北東から南西に延びる細長い丘陵は高(北東)低(南西)二つ、また陰陽和合とも言える盛り上がりのある小島であり、しかも近世まで湊は旧三笘村の枝村だったことからして、筑波の男女川(ミナノガワ)や異性生殖=ミトノマグハヒに通じるようなミナトミトマにも相互に言霊の重なりがあると考えられます。

 この丘陵の裏手の海岸には「夫婦石」があるのをネット地図で確認できますが、そのこともこの丘陵に「夫婦(メオト)」「男女(ミナノ)」「水戸(ミナト)」「ミトノマグハヒ」などがイメージされてきたことを暗示するものでしょう。

 ちなみに、下の写真を撮影した場所である新宮町の湊坂展望公園(人丸配水池)から遥か彼方の対馬のヒコホホデミとトヨタマヒメの夫婦を祀る和多都美神社まで地図上で直線を延ばすと、この「夫婦石」を通過することも判明しました。

新宮町湊の磯崎鼻(右:北東)から福岡市三苫(左:南西、左端に三苫綿津見神社)に延びる丘陵は往古は小島で、湊は旧三苫村の枝村、湊には三苫綿津見神社を勧請した綿津見神社あり(昨年5月29日夕刻)


 すると、「夫婦岳」、三苫綿津見神社、湊川に潜在する言霊は、オホヤマトトヨアキヅシマ=本州を構成する可能性が出てきます:
・「夫婦岳」→オホヤマツミ=オホヤマツ(オホヤマト?)
・三苫綿津見神社→トヨタマヒメとツシマ=トヨ、ツシマ(ヅシマ)
・湊川→ハヤアキヅヒコとハヤアキヅヒメ=アキヅ


 今回便宜的に「夫婦岳」と仮称した前岳と三城岳は、ともに円錐形で標高もほぼ同じながら、片方はやや丸みを帯び、片方は尖った形ゆえに夫婦のようにも見えることからずっと気になっていましたが、具体的な文字情報がないので考察は保留にしてきました。

 近年になって湊川の河口から冬至の頃の日の出が「夫婦岳」の谷間から昇ることに気づいて日の出の写真を撮ってきた程度です。

 しかし、昨年の皇嗣同妃両殿下トルコ御訪問前日の12月2日に「夫婦岳」の谷間から立ち昇る虹を目にし、同11日の悠仁親王殿下の筑波大合格をきっかけに筑波山について調べてみたことで、ようやく「夫婦岳」の意味するものがイメージできるようになり、そこにも本州=オホヤマトトヨアキヅシマの縮図が見えてきました:
・新宮町の「夫婦岳」=北東尖った前岳+南西のやや丸めの三城岳
北東高い新宮町湊の磯崎鼻〜南西低い福岡市三苫の綿津見神社の「夫婦丘」
・ツシマ(対馬、津島)=北東大きな上対馬と南西小さめの下対馬
・オホヤマトトヨアキヅシマ(本州)=北東長い東日本と南西短めの西日本

「夫婦岳」=前岳(左:北東)と三城岳(南西)の谷間から昇る虹と筑紫の山波(昨年12月2日16時半)


 尤もこの「夫婦岳」〜湊川〜三笘綿津見神社がオホヤマトトヨアキヅシマの由来だと主張しているのでは勿論なく、この三地点はオホヤマトトヨアキヅシマの地名が包含する信仰思想の縮図の一例であることを示そうとしているのです。

 このような地形や言霊の組み合わせを意識した地区や地域は、他にも全国各地、読者の皆さんのお住まいの近隣やそう遠くないところもにあるはずです。

 そして、そのような地区や地域を具体的に発見して、それらの信仰風土を調べていくことが、オホヤマトアキヅシマがどのような信仰思想を表現している地名なのかを少しずつ明らかにしていくことにもつながるでしょう。

 それは他の島々や神々についても言えることです。

 また神話と自然地理の関係を探求する作業は、地政学や安全保障論に関する従来の唯物的側面への偏りから脱皮して、霊的側面からのアプローチも加味した思考と議論へと重層的に発展させていく上でも重要なことだと考えています。

 さらに日本と日本人の過去の歴史と現在進行形の事象の意味するものをより深く理解し、それらの事象が今後わが国に何をもたらすことになるのかを予見するための有効な一助になるとも確信しています。

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