気づいたら、そうであった、
4日間の京都から松戸に戻ってきた。
この4日間を振り返って、なんだかんだ京都生活で初めてのルームメイトがいるひびだった。
ルームメイトがいる生活は慣れてるんだけど、まだ京都のメンバーとは生活、というよりもなんだか特別で大切な時間、みたいな感覚?いつか終わってしまう時間、みたいな感覚があって、ちょっとそわそわしてしまう。
不思議だなと思う。
これはあくまで個人的で例えばの話なんだけど、家族、という関係はそこにいなくてもいる、というか、いつだって元気でひび生きてくれやと願い合ってる関係で、
恋人、という関係は、「いつか終わる」ことを前提に、「この人とは関係が変わって会わなくなってもいい」と思う人だなあと思っている節がある。(だから向いてない)
友人は、関係が変わっても、何かしら繋ぎ止められている部位がある感じがある。
恋人、はある種の選択の上で結ばれる関係で、家族や友人、は選択というか、気づいたらそうであった、みたいな関係な気がしている。
京都のルームメイトたちに感じるのは、自分の定義でいうところの友人であるのに、いつかこの時間は終わるんだろうな、という予感。
繋ぎ止めてくれるであろう部位がないかもしれない、ふっと会わなくなるときがくるかもしれない、そういう、かもしれない、がセットにある。
そう考えると、無性にさびしくなってしてしまった。
でもこのさびしさはネガティブなものというよりも、自分も人間として生きてんなあ、っていう実感を得られる、むしろポジティブなものとして受容できている。
そしてこのさびしさが、いままでことばにできていなかったけどあらゆる活動の根幹を支えてくれていたのかもしれないと思った。
このさびしさが支えてくれていたのか。
さびしさとともにあらんことを。生きてて良かった。ありがとうありがとう。