オールド・ニュー
映画本なんかを読むと、著者の世代が上でも下でも、登場する固有名詞は、大体がおなじみのものだ。未見の作品ですら、なんとなくのイメージは浮かぶ。地方民がスクリーンで観られる映画の本数は、東京民にくらべて断然劣るが、ラピュタ阿佐ヶ谷の上映スケジュールを眺めてはギリギリと歯噛みできるだけの知識は備えていたりする。普段からプロデューサーや監督、脚本家、俳優等が著した本を読めば、映画史と人脈が自然と頭に入ってくるもので、橋本忍の言い分は眉唾だとか、中島貞夫の頭脳の明晰さだとか、個々の評価は措くとして、興味を持ったところから適当に手を伸ばすうちに、すこしずつピースが埋まり、おぼろげな地図が頭のなかにできあがってゆく。特に日本映画に関しては、著名なスタッフや俳優は、ほとんどが大手五社の出身だったり、何かしらのつながりがあったりするので、点と点が結び付きやすいということもある。
撮影所以後の監督についても、映画づくりのプロセスはちがっても、参照する作品だったり、バックアップするスタッフの名前は古い世代とリンクしている。阪本順治と橋本文雄、青山真治と田村正毅。などなど。もう何度目かわからない「BRUTUS」の映画特集で、山戸結希がフェイヴァリットに挙げていたのは、石井隆の『GONIN』だった。
だから、二階堂卓也のピンク映画史の本を読むと、その地層の複雑さにびっくりさせられる。消え物としての映画。作っては潰しの小規模エロダクションの無数のしっぽ。映画人の口の端に上ることすら稀な、アヴァンギャルドすぎるタイトルは、もはや扇情的ですらない。
その道の研究家が四方八方に手を尽くしてデータを揃えても、肝心のフィルムそのものが存在しないピンク映画とはちがって『ミュージック・ゴーズ・オン』(柴崎祐二著)に登場するミュージシャンのシングル、アルバムは、大半がタワレコやディスク・ユニオン、Amazonで手に入れられるものだ。にもかかわらず、見開きごとに知らない名前が散見する。本書は33人のミュージシャンのインタヴュー集で、わたしと同じ80年代生まれのoono yuukiやVIDEOTAPEMUSICのページを読んでも、音楽遍歴は見事なまでに重ならない。たとえばゴンチチの「世界の快適音楽セレクション」の毎週の選曲のように、音楽というジャンルの裾野の広さを実感させてくれる。
韓国人のNight Tempoの角松敏生愛は清々しく、シティポップの世界的なブームはまだまだ続きそうだ。細野晴臣と山下達郎の人気と影響力も想像以上のものがあり、このテのインタヴューの常連だった奥田民生の影は極めて薄く、嗜好性が先祖返りしている。最近の「サンデー・ソングブック」でも20代以下のリスナーのハガキが目立つし、タツローさんの喜びようは、ゼロ年代の鈴木則文のようでもある。
松山千春に絶えずのリスペクトを捧げる豊田道倫や、レコーディング帰りの車の中ではチェッカーズを流していた組原正のような、意外な好みがのぞくのも本書の魅力で、Super VHSの入岡佑樹は、菊池桃子を聴いて音楽観が変わったという。
〈“ダサいとかカッコいいとか、もう完全に従来の価値観では捉えられないんだな”と思ったんです〉
そろそろ映画界も蓮實重彥を忘れていい頃だろう。実のところ、体系化すらされていない(というか、し得ない)規範を、フォードやマキノなどの作家ならびに作品を以て具体例に代え、その正統性を主張するやり方が、何十年にもわたって援用されているのは、随分とおかしなことだ。蓮實は一度通れば十分で、一生付き合う必要はない。かつては「SNOOZER」での岸田繁の連載をバイブルのごとく熟読していたわたしだから、気持ちはわかるけれど、彼と距離を置いてからのほうが、音楽を広く楽しめるようになった。スネアの音にしたってトレンド次第で、いつの間にか、エイティーズのリヴァーブ感が〈この数年で全然聴ける〉ようになったという鳥居真道の例もあるしね。
Suchmosのブレイク時の特番のなかで、同じエレベーターに乗り合わせたYONCEとホムカミの福富祐樹(だったと思う)がダベるシーンは、今にして思えば示唆的で、たまたまテレビで観た『ゴーストバスターズ』のテーマ曲のベースのヤバさについて熱っぽく語るYONCEの口振りには、衒いが一切なく、爽やかだった。
後世のファンが書き換える歴史はどんなだろう?『その場所に女ありて』のようなニュー・スタンダードがいくつも生まれますように。