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はなかり本

 ツイッターのMATSURI STUDIOのアカウントがZAZEN BOYSの情報を発信する主な拠点となったのはいつの頃からだったろう?と思い公式アカのプロフィール欄をチェックしてみると〈2011年1月からTwitterを利用しています〉とある。それ以前には公式ホームページを細めにチェックし、ツアーの開催日程とチケット発売日をメモするなどしていて、中でも向井秀徳のブログが何よりもの楽しみだった。世代的にIMAバンドには間に合わなかった私が近藤等則のファンになったのは向井氏の影響によるところが大きく、彼の絶賛する『TOKYO ROSE』というアルバムが廃盤であればこそ音像に対する幻想は尚のこと膨らみ、その飢餓感を打ち消すようにFree Electroや『空中浮遊』といったリーダー作のほか、デレク・ベイリー、ジーナ・パーキンスとの共演盤など、手当たり次第に関連作品を購入する日々は続いて、今もって聴き飽きることはない。かようにして向井氏のアンテナは若き日の私の指針のひとつであって、だからこそ彼のバンドがいつか盛岡を訪れた際のブログにおける「文化の香りがする」という表現には、私が両親、妹と館向町で暮らした時間を改めて肯定されたかのような感慨をおぼえた。ニューヨーク・タイムズが「2023年に行くべき52ヵ所」に盛岡市を選出するよりも十年以上前の話である。
 その栄えあるランクイン理由は作家のクレイグ・モドの熱烈な推薦によるもので、岩手県のホームページに転載された彼のニュースレターには、いかにして盛岡に魅せられたかが綴られているのだが、文章のフォーカスは街そのものよりも主にクレイグ氏の内面の昂りように定まっており、固有名詞を別にした街の特色に関する記述は最低限で、しかも他の地方都市におけるそれと大差ないようにすら思える。たとえばこんな具合に。

〈市街地は街歩きにとても適している。大正時代に建てられた西洋と東洋の建築美が融合した建造物、近代的なホテル、歴史を感じさせる旅館(伝統的な宿泊施設)、蛇行して流れる川などの素材にあふれる。城跡が公園となっているのも魅力のひとつだ〉

 誤解を避けるためにことわっておくと、私はクレイグ氏を貶めようというのではなく、むしろ微細な差異に気を留め、街が発するバイブスにシンクロした彼の感性こそが何より尊く、幸せなものに感じられる。大まかな諸要素だけを抽出してみれば絶対性に欠ける景色でも見るものの能動性が全てを分けるのだ。それがなければクレイグ氏も街の中心部からは大分離れた上田のNAGASAWA COFFEEにまで足を伸ばすこともなかったろう。先頃に発売になったばかりの『はなかり本』(はなかり市実行委員会編)に収録された牧師の池田慎平のエッセイはこのように締め括られている。

〈旧約聖書のエゼキエル書には、預言者エゼキエルが預言者として人々の前で語り始める前に、神に促されて聖書を食べるという衝撃的な場面がある。

「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」(エゼキエル書第3章3節)

 そう、聖書は甘いのだ。だから、よかったら、私と一緒に聖書を読んでみよう〉

 青山景の『よいこの黙示録』は、切れ者の小学四年生の男子・伊勢崎大介が物静かなクラスメイトの女子・森ユリカを教祖に仕立て上げ、〈自前の宗教〉を作ろうとする物語で、まさに〈聖書は甘い〉ものであることを象徴するかのようなエピソードが描かれている。給食の時間に、牛乳が嫌いな男子のために森がおまじないを唱えてあげると、恐る恐るストローを口に含んだその彼は「甘い」とつぶやき、驚きはたちまちクラス中に伝播するのであった。もちろん紙の束が牛乳ほどに甘かろうはずもないのだが、信仰心が人間のメンタルに作用することを端的に示したシーンだ。エゼキエルにとっての聖書とクレイグ氏にとっての盛岡はほとんど等価であり、両者共に能動性と受動性が健康的なバランスをキープしている。もし、『よいこの黙示録』が完結していれば、おそらくはこうしたバランス感覚が失調するさまを描いて、暴走し、やがては崩壊(第一話で暗示されている)する教団の禍々しさを私たち読者に見せつけてくれたはずだ。加えて、分野を問わず、受動的な態度が過ぎると、感性の美食家に堕するのは時間の問題で、いずれはオルタナ中毒に罹患し、まともがわからなくなる。大衆蔑視の数ある遠因のうちのひとつだ。千のムジカを聞き取る耳は抵抗者のみに付いているのではない。「白って200色あんねん」とアンミカは言った。グラデーションに目を凝らすことで世界の解像度は高まり、視力は他者への想像力次第で上下する。ここ数年の大貫妙子のブームは「YOUは何しに日本へ?」という番組のコンセプトがもたらしたもので、アメリカから遥々『SUNSHOWER』のアナログ盤を求めてやって来た男性にマイクを向けさえしなければ彼も空港を埋めつくす観光客とビジネスマンの一部でしかないのだろうが、彼のなかにあるワクワクはかけがえのないもので、テレビ東京のカメラはその内面にフォーカスを合わせ、意図せずしてシティポップの魅力を逆輸入的に拡散することに成功した。アメリカのいち音楽ファンのこうした一途さの有りようは、ペンとカメラとの違いこそあれ、ニューヨーク・タイムズがアンプリファイしたクレイグ氏の盛岡愛と通じるところがあるだろう。優秀なカメラマンが撮影対象に合わせてレンズを選ぶように、大事なのは物事をどのレイヤーで捉えるかで、誰しも一人一人に備わった視点と、個人の生理を反映させたアングルを束ねることがメディアの本来の役割であり、『はなかり本』はまさにそうした複眼的なマガジンとして青森の魅力をパッキングし、ほとんど世間では無名の書き手たちの声を掬い上げている。このZINEは青森市在住の鳴門煉煉が立ち上げた「はなかり市」という古本市から派生したもので、いわゆるバラエティ・ブックの体を成しており、詩歌、随筆、紀行文、ディスクガイドの他、消しゴムはんこづくりのハウトゥを描いたマンガや、りんご、嶽きみといった青森名物のイラスト、居酒屋店主による料理エッセイなど、内容は多岐にわたり、装丁と本文デザインを手がけた池田彩乃のレイアウトのセンスが執筆者たちの個性に更なる彩りをほどこしている。加えて池田氏は寄稿もしていて、地方都市で働きながら、いち生活者として詩を書くことのマニフェストは、己れのアイデンティティの輪郭線をひと際太く、濃くしたことだろう。彼女は池田慎平氏と「牧師と詩人」というユニットを組んでおり、ZINEの末尾にはこの二人の文章が併置されている。真っ赤な本をひろげる幼い天使の、頭の上に浮かんだ金の輪と、小さなからだには不釣り合いなほどの大きな翼とを包み込むまばゆいばかりの光を描いた斎藤幸樹の装画は、青森松原教会を会場に選んだはなかり市のヴィジュアル・イメージとしてふさわしく、その祝福の念は古書らせん堂のエッセイと呼応して、店主の三浦氏が遭遇したといういくつもの小さな奇跡を象徴しているかのようだ。偶然に店を訪れた観光客の女性が反応したあるサインは、癌が見つかった妻を気遣い、心身共に疲れ果てていた三浦氏による精一杯の自分へのご褒美であった。暗闇から手を伸ばし、文化の香りに誘われた知らない誰かの手がそっと握り返してくれたとしたらこんなに嬉しいこともないだろう。はなかり本が私の暮らす寒い秋田に届けてくれたものは、日常をおろそかにしない人々のささやかな喜びの数々であったのだった。

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