古代九州~朝鮮半島の経済圏(物流圏)と邪馬台国~古墳時代の銅鏡の関係

古代日本・九州から朝鮮半島にかけて(想像)の補足ノート

 九州~朝鮮半島の物流・経済圏と一言で言っても、当然その内情は一定だったはずもない。
そしてその変化の様子の把握は、ヤマト王権が銅鏡を利用してその影響力を拡大するようになる直前の時代を考察するのに大切な要素の一つだと思っている。
 ちょっと脱線するが、特に7世紀以前の「ヤマト王権」については、自分はあまり一般的ではないかもしれないイメージ(後の世の特定氏族ではなく、血縁関係を持ったいくつかの氏族の集合体の可能性)を頭に描いている。ただ、それがどうあれ、大きな流れに影響はないだろう。

 このノートで書きたい結論的なことは
・後のヤマト王権はある時期(おそらく3世紀末、早くて後半)、北九州の銅鏡を意図的に採り入れ始めた
・2世紀までは北九州に限定されていた銅鏡の副葬慣習の、3世紀以降の畿内への伝播には、おそらく帯方郡~伊都国・奴国経済圏・文化圏と多少毛色が違う、宇佐・北九州地域の遠隔物流の担い手が関係しているように思う。


1.銅鏡の北九州から畿内への伝播

 辻田淳一郎「鏡の古代史」が参考になるが、破鏡(副葬)分布図が掲載されている。

破鏡(副葬)分布図 「鏡の古代史」より

 この図だけだと、「弥生時代後期~終末期」としか書かれてないので、年代が分かりにくいが、この動画解説を見ると、その経緯は理解しやすいと思う。
 動画全体は、北九州弥生時代の甕棺墓、青銅器などの分布推移の解説になっているが、13:00頃から、1~2世紀頃にかけての破鏡の分布推移の様子が分かる。
 内容は、「紀元0年前後には玄界灘沿岸地域で限定的に、完形漢鏡が副葬されるが、その後その一帯ではその風習は見られなくなり、代わって1~2世紀には佐賀平野で漢鏡の破鏡の副葬が始まり、2世紀には西北九州だけでなく、中・東九州にも破鏡副葬が拡散する。」というもの。
 そして3世紀には、破鏡副葬は西日本に拡散する。

西日本の破鏡副葬の例

 出土量の多さから、とかく三角縁神獣鏡に注目が集まりがちな気がするが、九州からの破鏡風習の畿内への流入は重視すべきではないだろうか。
 詳細は省くが、前出「鏡の古代史」では、威信財としての三角縁神獣鏡の位置づけは漢鏡のランク(格式、大きさなど)と別系列で扱うべきだとしている。(関連はある)
 銅鏡(特に破鏡)の九州から西日本への拡散に関連して気になるのが、九州東部と北西部のカラーの違いだ。

2.東部九州の銅鏡拡散への関与

 古代日本・九州から朝鮮半島にかけて(想像)に書いたが、紀元前の朝鮮半島から九州西部・中部にかけての支石墓分布は、九州東部には及んでないように見える。

朝鮮半島と九州の支石墓分布

 そして前出の動画(13:00頃から)を見ると、紀元前後まで上記支石墓分布領域(特に玄界灘沿岸)に限定されていた漢鏡の副葬が、1~2世紀の破鏡副葬の時代になると、東海岸でも見られるようになり、それがきっかけにでもなったかのように、西日本に拡散する。
 (日向)、宇佐、北九州(特に遠賀川東岸)などから連想するのは、後の宗像氏の存在だ。宗像氏に限定したくはないが、この時代に遠隔物流を担った部族がいたであろうことは間違いないだろうし、それが玄界灘沿岸と毛色の違う部族であってもおかしくない。更に宇佐から北九州にかけての、後の時代の宗像信仰の領域も考え合わせれば、その起源になるような勢力がこの一帯にいて、畿内を含む西日本に銅鏡をもたらしたであろうというのは、納得できる話だと思う。
 また、後の物部氏につながる勢力は、博多平野~佐賀平野にかけて分布していたようだが、彼らも関係していたかもしれない。(参考サイト

北九州の物部氏(上記参考サイトより)

 自分としては、銅鏡の対価が何だったのかが気になるのだが、推測する以外にはないのだろうな。

 三角縁神獣鏡をはじめ、ヤマト王権の銅鏡の利用に関しては、上記のような前段階を認識した上で語るべきだと思っている。
 舶載三角縁神獣鏡の同笵関係とその伝播について、前述の動画サイトの方が解説しているので興味深いが、それは別ノートに纏めたい。

魏志倭人伝の解釈について(リンク)

九州説について(リンク)

畿内説の根拠について(リンク)


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