見出し画像

稲田幸久『悪党』を読んだ

お疲れさまです、みやもとです。

先日、ちょっと久しぶりに新幹線に乗って遠出する機会がありました。
遠距離移動はそれほど苦ではないのですが、ちょっと気を抜くとぐっすり寝入って乗り過ごさないかという不安があります。
どうして電車の揺れというのはああも心地よく眠れるのでしょうか。

ともあれ、長距離移動のお供には相応の時間つぶしが必要です。
幸いというかなんというか、私には楠公さんファンサイト作成のために買い込んだ積読があり、その中には読むのにそれなり時間がかかりそうな小説もありました。
そこそこの分厚さで上下巻に分かれているので、往復の新幹線で読めばちょうどよさそうな感じ。
その読みはだいたい合っていて、往路で上巻、復路で下巻を読み終えて新幹線の中で大泣きするはめになりました。

ということで、今回は読破した稲田幸久著『悪党』の感想を書こうと思います。


概要

『悪党』は楠木正成公を主人公にしてその決起から湊川の戦いまでを描いた歴史小説です。
後醍醐天皇に味方した経緯や戦についてはもちろん、護良親王との交流や足利尊氏に向ける感情、赤坂の地を治める領主としての姿も描かれています。

悪党とは

私と同年代の方であれば、日本史の授業で「悪党」の単語を聞いた覚えがあると思います。
現在使われるのとは若干意味合いが異なり、反体制派の人間やその集団を指す言葉として使われます。

古代荘園制が、武士の浸食によって崩壊してゆく過程で、浸食してゆく武士を指した呼称として用いられた。

荘園制において、荘園領主(本家および領家)から現地での管理を下請けしていた荘官の職に就いていた者が、後に武士と呼ばれるようになったが、彼らが、鎌倉時代の中期から後期にかけて、時には現地の農民と連携しながら荘園領主に反抗し、幕府(六波羅探題)の介入を排除して、自らの土地の支配権を既成事実化していった。

やがて、鎌倉幕府が崩壊し、続く南北朝時代の動乱が長期化、大規模化すると、武功による恩賞を目当てに全国を転戦する武士が現れる。彼らは、本家の宗教的権威をバックに荘園を管理する荘官時代の姿から一変し、自らの武力を頼みに戦を行い、時には略奪を働き、更に派手ないで立ち(ばさら)を好んだ。この行動原理が、旧来の価値観と対比して、古代律令制以来の秩序の崩壊、社会の無秩序化を象徴するような存在とみなされて、「悪」と称されるようになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E5%85%9A

悪党はいても悪人が居ない

分厚さのわりにさくさく読み進められたこの小説、悪人がほぼ出てこないというのが個人的に驚いたところです。
全く出てこないわけではなく、冒頭の戦で敵として出てくる安田軍の兵は通り道の村を焼いて楠木軍の足止めをするなど卑劣な手を使うのですが、日本史必修レベルの人物がみんな読み手が納得できるような正義や思想を持っていました。

たとえば後醍醐天皇。権力欲の強い人物として描かれ、味方のはずだというのに警戒すべき対象という雰囲気が漂います。
正成公と護良親王が理想の政治を行う上での妨げになることを予感させ、特に実の子である護良親王への扱いには不快感すら覚えました。
それでも護良親王の死後、改めて正成公と語らう時には「もっと護良様のことは考えて欲しかった」ということを言われて素直にそれを受け止め、父の情を滲ませました。
やめてください、手遅れになってから親子の情を見せないでください。
この時点で泣きました。

足利尊氏についても同様で、倒すべき敵としての彼の描写は恐ろしさすら感じました。
得体の知れない貫禄、主人公たちが手こずった後醍醐天皇すら及ばない政治力、武士の棟梁としてのカリスマ性。
領民たちすべてに人間らしく生きてほしいと願う正成公に対して、領民は支配を望んでいると言う尊氏は一見すると傲慢な支配者に見えます。

それでも、最後の一騎打ちで互いの思う統治について言葉を交わし、今は成しがたい綺麗ごとだが最後に目指すところかもしれないと受け入れ、味方にと手を差し出す器の大きさはこれぞ上に立つ者と思わせられました。
足利尊氏と楠木正成が手を取り合うことがあったなら、一体どんな歴史になっていたでしょうね。

もちろん、主人公である楠木正成公も魅力的な人物として描かれています。
悪党を名乗り卑怯者の誹りを厭わない、むしろ悪党の誇りとして自分の信念を貫きますが、その信念は領民が人間らしく生きられるようにという「悪」の文字におよそ似つかわしくない優しいものでした。
護良親王の人柄に惹かれ、入れ込むあまりに時折冷静さを失うところも人情家の温かさに思えます。
状況判断や振る舞いの不完全さが人間らしさと見える一方で「そこが足利尊氏に敵わないところなんだな…」とも感じる、絶妙なさじ加減でした。

後醍醐天皇と護良親王の親子関係

また、先にも少し書きましたが、後醍醐天皇の父としての顔をもっと読みたいと思わされました。
建武の新政が始まってさほど経たず、護良親王は後醍醐天皇の命によって捕らわれて足利方に渡されます。
この小説の中でもそのあたりの流れは「天皇がなぜ親王勢力を警戒するようになったか」といういきさつから描写されていて大変いたましいのですが、史実ではさらに跡継ぎ問題も絡んできて、どうあがいても円満にはならない親子関係だっただろうと想像できます。
だからこそ、圧倒的な王の威厳に畏怖しつつ尊敬する護良親王と、己の権力を優先するあまりに優秀な息子を失い、手遅れになってからようやく父の顔をのぞかせた後醍醐天皇をもっと読みたいと思うのです。

「悲劇の武将」で終わらせないラスト

負け戦と決まった湊川の戦いは、始まる前の描写からどこか寂寥感が漂っていました。
それでも勝つために手を尽くす正成公はもちろん素敵なのですが、個人的に驚いたのは赤坂荘のその後を息子に語るシーンです。
赤坂荘の描写については実際にそういう資料があったのか、作者の創作部分なのかちょっと判断できなかったのですが、実際にこれより後の時代に実現した制度であり「この正成公がそこまで考えていたならすごい」と思う内容でした。

湊川の戦いで敗走後、弟・正季公と刺し違えての殉節というのが太平記における正成公の最期です。
読み進めるにつれこのお話の二人をかなり好きになっていただけに、あんまり悲惨な描写だったら立ち直れないかもしれない…。
はらはらしながら読んだ結果は、思ったよりずっと希望のある締めになっていました。

下巻を読んでいる間ずっと泣きどおしで、つまり帰りの新幹線でずっと泣きながら本を読んでいる不審者だったわけですが、すっきりと気持ちよく読み終えることができる本でした。