QHHT〜ある殿の一生 完〜
さて、この殿の一生を過去世として見た意味である。
殿はその出自故に自身の身の振り方を
出来うる限り抑制して生きた。
友もいた。
確かに愛を感じる関係もあった。
しかし、感情を抑制する余りに
自分にとって身近な存在に
どう接したら良いものかそれが分からなかった。
粛々と淡々とやるべきことは成した。
後悔も恨みも無いのである。
それでも慣れないことはなかなか出来ない。
それが彼にとっては
自分の思いを素直に伝えるということであった。
しかし自分の寿命が尽きるその時を迎えて
彼はやっとそれを解放することが出来た。
手紙という形ではあっても
かつての彼には表現しようのない言葉を
慣れなくとも不器用でも
思いつくままにしたためたのである。
そしてその思いは
伝えたい相手に正しく伝わったのである。
この過去世を見た意味。
感情を自由に表現していい
であった。
特に彼は自分の身に起こることを拒否できなかった。
よって今、嫌なものは嫌、無理なものは無理と
素直に言うこと、そう行動することは
駄目なことでも悪いことでもない。
むしろその感情を蔑ろにすればする程
様々な事に歪みが生じる。
まずは自分に素直に生きる事。
である。
自分を労わり、自分を愛でて、認めて受け止める。
良いも悪いもない。
全ては必然だからだ。
この後の出来事は個人的な事であり
外に向けて発信する内容でもないと判断した。
よって今回のQHHTの体験談というか
見た過去世についてはこれで最終回となる。
ただ全体を通して
人には本当に沢山の魂の記憶があり
守護して導いてくれる存在がいるのは確かである。
という事を実感した。
現世の価値観で良いとか悪いとか
幸せだとか不幸だとか
選別したり判断、判定=ジャッジする事は
もっと高い視座から見たら
本当に無駄な事。
より視界を狭めることになるということ。
だからと言って『ジャッジするな!』と
押し付ける事も
それは相手の自由を奪っている事になる。
何が、どの範囲がジャッジなのか
それは個々によって違うからである。
聞いていて
『それジャッジじゃん!』『それダメじゃん!』
は、あくまで自分の基準に他ならないということ。
明確に人としてしてはいけない行為でない限り
人の思考や行動を何かの枠に嵌めること
それこそがジャッジなのである。
ジャッジを戒めている側がジャッジしてるのである。
他人と自分の違いを認める事。
筆者に関しては
自分と他人の線引きを認識する事。
他人は他人、自分は自分である事を
しっかり知ること。
何故ならとっくにワンネスは理解してるから
個々であることを知る事も
ワンネスを理解する一助であるからだ。
人それぞれ知る過程が違うだけである。
しかし向かってる先は皆同じなのである。
ここまで読んで頂き感謝感激雨あられであります🫡