見出し画像

"社会発展と人間の幸福は比例しない"という思想の形成と発展

自分は「社会発展(経済発展)と人間の幸福は比例しない」という考えを高校生の時に持ちました。
それ以降、人生の軸として生きてきた自覚があるため自分の中で整理をしたいなと思い書きます。
頭の中の言葉そのまま書いているので、強い言葉と感じる場合はすみません。

考えに行き着いた経緯

小学生の頃から、母親に貧困地域のボランティア活動を行う人たちの講演会に行っていました。関連本も母親が買っていたので読みました。
その中で、よく耳にしたのが「貧しいけれど幸せそうだった
海外ボランティアに行く日本人もよく言いますよね。

その一方で、自分は日々息苦しさに苦しめられていました
その苦痛の原因は主に人間関係でしたが、いわゆる学歴を気にする家だったので押し込まれた生活もストレスになっていたのかもしれません。

そしてニュースで見る日本社会は、電車で死にそうになりながら毎日出勤をするサラリーマン。大量の自殺者。

何かがおかしい。そういう気持ちになりました。

いつもと変わり映えのない授業中、そういう取り留めのないことをぼーっと考えていた日。
その別々に在った情報を全て合わせてみて思い至りました。

今の世界は社会の発展度がばらばらな国が同時に存在している。
その点で、貧困地域に対して、日本は社会が発展していて豊かだと言える。

なんで何千年という経験を蓄積して、発展させてきた社会で今だに人はこんなに苦しんでるの?
あれ?人って幸せになるために発展してきたわけじゃないわけ?
そうか、”社会発展と人間の幸福は比例しないんだ”!

という感じでした。

そこに思い至ると同時に、同じ人間が作りあげた社会によって同じ人間が苦しみ続けてるなんて馬鹿の極みだなとも思いました。

余談ですが、日本人は政治意識が諸外国に比べてかなり低いことが分かっています。
ここには、「自分たちでルールを変えれない/変えてはいけない」という潜在的な意識がある気がしています。だから、どうしようも出来ないなら関心を持ったって意味が無いという無力感からくる無関心も一部あるような気がするのです。

でも、人間が作った社会とそのルールなんて自分たちで変え放題なのに、そう思う事こそがおかしいと私は感じています。
民主主義は国民主権なわけで、言ってしまえば、ゲームの世界だとルールメーカー的存在なはずなのにです。

ルールを自分たちで変える権利を持っているのに、それに気づかず、いつまでも同じ人間が作った社会によって同じ人間が苦しんでいる社会はおかしいなと思います。

興味分野の発展

このような思いに至ってから、わたしは「人が本当に幸せになるために必要なことは何なのか?」という問いを長らく考え続けていました。
※ ただ一人の若者が幸せについて考え続けただけなので、既出の考えは大いにあると思います。ただ思考ロジックがこうだったと思っていただければ幸いです。

大学生になり、その問いは人の内面の問題から、明確に外的問題である政治分野へ移ります。

わたしは、人の幸福を構成する要素として2つ存在すると考えています。それは次の2つです。

  • 内的幸福(人の内側で完結する幸福):心の問題。幸福の尺度は絶対的になりうる。

  • 外的幸福(人の外部が関わる幸福):戦争や貧困、社会の問題。幸福の尺度は相対的。

この2つは共に満たされない限り真に幸福とは言えませんが、個人の範囲で言えば内的幸福が満たされていればある意味幸せな状態と言えてしまう関係性を持ちます。

そしてここで重要なのは、つまり、外的幸福がいくら満たされていても、内的幸福が満たされない限り幸せには絶対なれないということです。

わたしは、いくら経済が発展しても、幸せになれない原因はここにあると考えます。

結局心が貧しいままなのです。

そして日本人は、この心豊かに生きるということに問題を抱える人たちが比較的多く集まっているんだろうなと思いました。

この部分を深掘ることは、別でしようと思いますが、いろいろと考え、経験し、過去の研究も行われた(行われている)ことから、人が内的な範囲で幸せを感じるための必須条件はある程度パターン化ができ、すでに多くの人がいろいろな形で言っていると分かりました。

そして、この心が貧しいという問題の要因は様々あれど、解決をしようと思った時、結局は最終的に個人の問題に帰着してしまう可能性が非常に高いと思いました。

例えば、幸せになるためには自己実現が必要だ、自分で判断して決めることが大事だ。という条件があった場合、ここまでの抽象度は皆に言えますが、これよりも一つ階層を落とせば100人で100通りの生き方が生まれてしまうということです。

そして今苦しみに留まる自分になった原因は様々あれど、そうなってしまっていることは変えようのない事実であり、その心理的問題は結局自分でどうにかするしかないのです。

100人の人の抱える苦しみを紐解き、100通りの生き方を指し示すという道もあったと思いますが、これはキリがないと思い、私がより深めるべきは外的幸福だと考えました。

この外的幸福は何によって一番影響を受けるのか。
わたしは政治だと思っています。

戦争を始めるのは政治。社会のルールを決めるのも政治。
人を貧しくするも、豊かにするも、生きやすいサポートを考えるのも全て政治です。

つまり、「外的幸福はどのような社会に生きるかに影響され、その社会は政治によって作られる」ということです。
このような経緯で、今の興味である政治にまで行き着きました。

それと、内的幸福を阻害する"わたし"が形成された要因は外的要因である場合が多いと思います。
外的幸福を保証できるような社会を作ることは、心を貧しくする根本原因を無くすという道にも副産物的に繋がるのではと思っています。

余談:なぜ文化人類学の方向ではなく政治なのか

以下の動画を見て、今回の記事を書こうと思ったため余談ですが書こうと思います。

もともとブータンの幸福度の高さとそれが崩壊した話も関心があり

こちらも内的幸福を満たす、心豊かに生きるための生き方や社会を考えるために非常に興味深い内容だと思いました。

文化人類学は関心がもちろんある分野ですし、思想が生まれた流れ的にも文化人類学がぴったりなのではと思ったこともありました。

他にも、海外ボランティアとして海外に行ってみたこともありました。

その結果分かったことは、意外にも社会発展が日本よりも遅い国や文化には関心が薄い自分がいたことでした。

人が社会発展の方向に向かっていく流れは、ほぼ100%決まっていると思います。発展はあれど、意図的な後退はないだろうと思います。
みんな電気もガスも自動車もインターネットも捨てれないので。
であれば、社会発展しない社会の方が人類が幸福に生きるためにはよい環境であるという結論が出たとしても意味が無いと考えます。

なので、発展した社会でいかに人が幸福に生きるのかという点のみを考えたいと思い、「興味分野の発展」で書いた思考ロジックから政治に行き着いたという背景でした。

なので、海外という点で言うと韓国やアメリカなど社会発展した国ですと、社会としてすごく興味はあります。

最後に

かなり端折ってポイントだけを書いたため、抜け漏れてしまった考えたちはまた書きたいなと思います。
逆に端折りすぎて何を言いたいかわからない、飛躍しすぎた文章になっている場合はすみません。

わたしは心豊かに生きることに問題を抱えた人の一人だと思っているので、当ぶろぐではその部分を中心に書いていこうとは思っていたのですが、今回のテーマを急に書きたくなり書いてみました。

内的幸福ではなく外的幸福を深めようと思ったと書きましたが、
これは正確には「内的幸福のなぞ解明は、自分だけを対象に行おう」と考えました。
わたし自身が問題を抱えすぎているので、自分で手一杯です。
なので、その文脈でこのぶろぐを始めた経緯を言い換えると、自分の内的幸福を追求する過程を書き記したいなということでした。

内的幸福から派生して。
キリスト教の人は生まれながらに罪を持つという教えは理にかなっているなと思います。人生というのは、苦しみがあるものなのかもしれません。人は、何事にも理由を求めたくなるものだと聞いたことがあります。
そして、仏教の悟りという境地も人が苦しみから逃れるためにたどり着いたものなのだろうと思います。

なので、わたしは内的幸福が満たされていない自分はある意味正常なのかなと思うこともありますが、それでも苦しみからは逃れたいので、どうしたものかなぁと思いながら生きていきました。

「幸せになりたいと考えているうちは幸せにはなれない」なんて言葉もありますが、その通りだとも思います。
高校生の頃と比べると格段に息がしやすくなった今を思うと、もうそろそろ自分を幸せだと認めることから始めてみようかなという考えになったりもします。

最後は取り留めのない思考を書く形になってしまいましたが、ここまで読んでいただいた人がいるのであれば本当にありがとうございました。
つたない文章ですみません。

いいなと思ったら応援しよう!

nago. | 日々考えの多い社会人。
サポートしたいと思ってもらえるか分からないですが…いただける事があれば、活動費として大切に使わせていただければと思います。