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優しさとは

こんにちは。僕です。

12月ってのは、師走って書くんですね。師が、走っとるんですね。冬と言えばマラソン大会ですからね。お寺の和尚さんたちも箱根に向けて走り出す季節なんでしょうね。

こんなくだらない導入(しかも本題との関連がない)をずっとやっているわけだが、早く本題行けよ!って、読者諸君は思っているやもしれんな。まあ、辞めないんだけど。

ああ、本題ね。優しさについてです。

というのも、最近とある機会がありまして、後輩諸君の「大切にしたい価値観」的なプレゼンテーションを拝聴したのである。発表したのは5人で、内容は十人十色。5人だけど。全然関係ないけどさ、この、漢数字とアラビア数字、混ぜて使うの違和感あるよね。どっちかに揃えるべきなのか…いつも迷うんだけど、共感していただけるだろうか…まあいいや。

で、十人十色(五人五色)だったんだけど、うち2人が「本当の優しさ」なるものをテーマにしていて、大変興味深かった。そんで触発されて、今この文を書いている。後追い万歳である。

さて、読者のみなさんは、何をもって「あの人は優しい」と感じるだろうか。いつもニコニコしている人?仲良くしてくれて、自分の味方をしてくれる人?それとも愛を持って叱ってくれる人だろうか。

僕なんかは、今挙げたような人はみんな優しく見えてしまう。でも、「優しい」の幅が広すぎる気がする。例えば、いつもニコニコしている人と、𠮟ってくれる人は、おそらく矛盾している。ニコニコしながら叱ってきたら恐怖である。

「優しい」というのは内面的な特徴であって、必ずしも「同じ行動」として表出するわけではない、との仮説を立てようと思う。

優しい人は、ある環境下ではいつもニコニコしているかもしれない。はたまた優しい人は、仲の良い友達がいれば、味方しようとするだろう。はたまたはたまた、その友達が道を踏み外そうとするのなら、優しい人は愛を持って叱るだろう。

根底に、というか、心の特徴として、すなわち性格として「優しい」という特徴を持っていたとして、実際の行動は環境によって変化するってことだ。

考えてみれば、僕が「優しい!」と思ってしまうような行動は、別に優しくなくてもできるのである。ニコニコだって、自分の評価を上げようと戦略的にニコニコしてるかもしれない。味方になってくれるのだって、単に利害が一致しただけなのかもしれない。叱るなんて、そこに愛がなくたって叱れるのである。人間不信になるわ。

さて、そんなこんなで、「優しさ」は心の中にあるものだという小括。

ここまでは、よく考えたら当たり前な話な気がしてきた。それでは、様々な行動として表出する「優しさ」とは、なんなのだよ。

単語的な意味は調べたら出てくるからいいとして、よく言われるのは「思いやりの心」である。要するに、相手あっての優しさなのである。相手の心情に配慮し、相手が好ましいように行動すること。それすなわち「優しさ」だろうか。

でもなんか釈然としないところがあって、例えば𠮟る例なんかは、相手にとって別に好ましいことではない。𠮟られていい気持ちの人は少数派だろう。相手の心情に配慮し、相手が好ましいように行動することは、流行りの言葉を使えば「忖度」であって、別に優しくない。

さて、「優しさ」を僕なりに表現すれば、「相手にとって好ましい結果をもたらすように行動する気持ち」と言ったところだろうか。

この「結果を思いやる」ことがたぶんとっても大事なのである。

𠮟られて、「愛のある優しさに溢れた𠮟責だなあ」と思うとき、そこに感じるのは「自分の将来を考えてくれている」とかそんなことである。または、「𠮟られたときはムカついたけど、今考えたら優しさだったんだなあ」と思うとき、きっと𠮟られたことによって何か良い結果があったに違いないのである。𠮟られて、しかも良いことがなかったら、「なんだあいつ。コノヤロー」のまんまである。

「優しさ」に起因する行動に幅があるのは、この「結果重視」の影響だと考えられるのである。つまり、そのプロセスとしての行動自体は、別に相手にとって好ましくないものでも構わないのである。結果よければすべてよし。なのである。


さてさて、だいぶ言語化できてきた。

「優しさ」とは、心の中にある「相手にとって好ましい結果をもたらすように行動する気持ち」であると。ふむふむ。

ここでまた、疑問が浮かぶ。

心の中って、どこですか?と。

何言ってんだこいつ…と思ったそこのあなた。安心してください。僕もそう思います。心は、心だよなあ。まあ聞け。いや読め。読んでください。

当たり前のように、優しさがある心ってのは、優しい人の心にあるんだな。でも、優しさからくる行動ってのは、必ずしも優しい人でなければできないってわけではないな。そうすると、客観的に「優しさ」を観測することはもはや不可能なわけだ。

んーつまり、人の心は他人が覗き見ることのできるものではないから、その人が「優しい」と、客観的に証明することはできないってことになる。

でも、僕らの身の周りには「優しい人」がたくさんいるではないか。どういうことやねん。と。

僕らがただ単に人の行動だけを見て、「あの人は優しいに違いない」と妄信しているだけ。と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。でも、それではなんだか味気ないというか、悲しいというか。

そこで、僕の「優しさエピソード」をひとつ。

僕、塾講師なんだけど(唐突)、あるとき新しい生徒の担当になった。この生徒をAさんとしよう。申し送り(授業前に目を通す生徒情報)には、こんなことが書かれていた。

「Aさんには生まれつき左腕の肘から下がありません。本人は気にしていないようですが、気を配ってあげてください。」

僕は、Aさんが不自由なく塾に通えるように、何をしてあげられるのか、考えた。自己満足みたいなところもあるけど、この時点の僕はそこそこ「優しさ」を持っていたと思う。まあでも、とりあえず授業をしてみないことにはわからん。やってみよう。

初めての授業で、僕は衝撃を受けた。Aさんの明るさたるや、太陽であった。そんなことはどうでもよくて、何よりも驚いたのが、Aさんが何の不自由もなさそうに見えたことだ。片手で、何でもこなしてしまうのである。僕の優しさは行動に移す前に散り、普っ通~に授業をこなしていったのである。

そんなある日、ひょんな会話から、僕の担当する別の生徒(Bさん)が、Aさんと同じ学校、クラスに所属しており、さらにAさんの前の座席であるという事実が発覚した。僕は、お互いの学校での様子を聞いてみることにしたのである。生徒を知ることは講師の大事な仕事なのである!

Aさんに、Bさんの学校での様子を聞くと、こんなことを話してくれた。

「Bさんとはそこまで親しくないんですけど、Bさんは優しいんです。プリントとかを前から配って後ろの席に回すとき、必ず1枚だけ、ずらして渡してくれるんです。すごく助かってます。」

おいおいおいおい!なんていうイケメンなんだB!!

もう僕はお手上げであった。Aさんは自分で何でもできるわ。と安心した自分を大いに恥じた。これを「優しさ」と言わずしてなんというのか。

Aさんはあまり親しくないために謝意の表明が少し恥ずかしいらしく、僕からBさんに伝言することとなった。そんで、Bさんと話すときにこう尋ねた。

「Bさんめっちゃ優しいやん。イケメンやん。どうしたらそんなイケメンな気遣いができんねん。」

Bさんは照れ隠しか、こう答えた。

「いや、ふと気になって、自分もわざと片手でいろいろ試してみたんすよ。そしたらプリント配るのすげー大変で。それでやってみただけっす。優しさなんてないっすよ。思い付きっす。」

照れ隠しでこう言っただけで、Bさんは実はAさんをこれでもかと気遣っているのかもしれない。だとしたらめちゃくちゃ優しい。優しいマン。

でも、Bさんがその発言どおり、思いやりとかでなく、ただの思い付きでやってたとして、それは優しくないのだろうか…

否。断じて否である。

Bさんに「優しさ」がなかったとて、Aさんは助かり、感謝している。これを僕は、「優しい」と言いたくて仕方がないのだ。Aさんもきっとそうだし、今これを読んだ諸君もそう思ったことと決めつける。

さて、この場合の「優しさ」とは、どこにあるのだろう。

Bさんの心の中には、どうやら「優しさ」は無かったらしい。しかし、僕らの心の中には、「Bさんの優しさ」が実感されているのである。

確かに「優しさ」は心の中にあるが、どこの心の中なのかは意外と不明確な気がする。

本人が「俺の心の中には優しさがあるぜ」と思っていたところで、本当に優しいのか、誰が判断できるだろう。そしてさっきのエピソードのように、本人は「俺なんか優しくないぜぇ」と思っていたとしても、彼の行動を受け取った人の心の中には「優しさ」が生まれているのかもしれない。


さあ、僕の悪い癖で話がごちゃごちゃしてきたぞ。締めよう。

とにかく、「優しさ」の認知は不明確で、ふわふわしている。

ある人を「優しい人」と断じることは不可能である。これにはさっきの、証明できないってのも理由としてあるけれども。本質はもっともっと深い別のところにあるように感じている。言ってしまえば、人間の持つ多面性なんだろうけど、この話は追々、書こうと思っている。


結局、何が言いたいかというと

Bさん、めっちゃイケメンやん?やばない?

です。優しくなりてえなあ。またね。


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