偽善も善なのだよ
「なのだよ」は概念になったんじゃなかったのか!というツッコミはさておき。「屁理屈だ!」と言われたら「屁でも理屈だ。」なんてムカつく切り返しをしてしまう僕です。ご機嫌麗しゅう。
今回、僕のひねくれにひねくれてもはやひねり揚げな一面が全面的に出ております。嫌いにならないでください。お願いします。
どんな風の吹き回しか、最近業界は空前のSDGsブームである。経済界では今に始まったことではないみたいだけれど、メディアが大々的に取り上げているのがここ最近だ。まあ、うーん。良いことである。
なんとも歯切れが悪いのは、僕個人がSDGsに対して、あまり良い印象を持っていないからに他ならない。こう、なんというか、良いことなんだけど、なんだかなあ…という感情である。伝われ。
ビッグウェーブであるがゆえに、本質を見失っている感があるのである。僕の貧相な語彙では的確に言い換えるのが難しいが、強いて言うなら、「偽善的」なのである。
先日、アルバイト先の塾で何人かの講師が集められた。何事かと思ったら、「我々の事業はSDGsのどの項目に貢献できるか」を考える会であった。連想ゲームみたいに、塾での授業が生徒の能力を向上させ、優秀な人材を多く生み出せたら社会の様々な問題の解決に繋がって…というようにSDGsに結びつけていった。この会自体は有意義なものだったと思う。自分たちの仕事がどのように社会に役立つことができるのか、改めて考えることでモチベーションにもなった。また、日々の行動を見直すことにも繋がった。
ただ少し引っかかったのは、「なぜSDGsなのか」だ。
個人的には、企業がSDGsに取り組むのは、イメージ向上を狙ってのこと以外に考えられない。わざわざSDGsに結びつけなくたって、社会のために、地球のためにできることはたくさんあるからである。それをあえてSDGsとするのは、もう「うちの企業、ちゃんと地球の未来考えてまっせ。国際社会に協力してまっせ。」とアピールしたいからに違いない。
世の中の企業には、価値がある。というか、価値がない企業に存在意義はない。企業の価値とは、社会価値である。その企業、社会にとって必要?ということである。そもそも商売とは、誰かの役に立たなければ立ち行かない。うまく経営できている企業は、必ず誰かにとって必要で、社会に何らかの価値を提供しているはずなのである。
うちの塾だって、営利目的ではあるが教育機関として人材を育成しているのであって、そんなこと今更無理やりSDGsに繋げなくたって、十分に社会に価値を提供できているはずである。だから社会に存在し続けられているのである。
ではなぜ、SDGsアピールに走ってしまうのか。そこには「ESG投資」なるものが影響していると思う。これはしばし前に投資家の間で流行ったもの(たぶん)で、とても簡単に言えば、「業績だけじゃなくて、その会社が社会に良いことしているかを見て投資しようぜ」みたいな運動である。これはこれで良い活動なのだが、投資家たちは「社会に良いことしている企業は株価が上がるから儲かる」という思考で投資するようになる。この運動によって、企業側が株価を上げるためには、何らかの「社会に良いこと」を対外的にアピールしなければならなくなった。
最近のSDGsの興隆を見ていると、どうもそんな「戦略ありき」の取り組みが多いような気がする。ここに身を置く人たちは、本当に心から持続可能な社会の実現を願っているだろうか。そこにあるのは偽善ではないのか…そんなモヤモヤした感情が、SDGsを叫ぶ人々を見ると、浮かぶのである。
でも、だからといってSDGsに取り組む人々が悪であると糾弾するのはお門違いな話である。たとえ心から持続可能な社会を願っていなくとも、やっていることは確かに社会にとって良いことだからだ。
動機が不純でもやっていることは正義。そんな感じである。言うだけで何もしない、なんていうより、よっぽど良いのである。だから、なんとなくモヤモヤしながらも、まあ、良いことだよね。と。そう言うしかないのである。
いつか、SDGsなんて言葉がなくなって、ESG投資なんて言葉もなくなって、みんなが普通に生きていれば持続可能だなんて、そんな世界が実現してほしいものです。
それまではきっと、やらない善よりやる偽善。偽善も善。なのだよ。
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