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世襲は不公平か

あ、どーもどーも。僕です。
今日11月11日はポッキーの日!!!!
毎年この日になると、誕生日が11月11日というだけであだ名がポッキーになった同級生を思い出します。なんなら、彼の本名を思い出すのに3時間かかった。3年間ずっとポッキーとしか呼んでませんでした。ごめんポッキー。

でもなんか、誕生日が覚えやすいってのは羨ましいよな。さっきのポッキーも、誕生日には机の上がポッキーだらけになっていた。机に溢れるプレゼントなんてもらったことないですよ。僕。まあ誕生日の覚えやすさが全てではないんだろうけど。

あーあ。人生不公平だぜ。ホント。


さてさて、平等、公平、あるいは均等というようなものを考えるとき、それが「機会」に対してなのか、あるいは「結果」に対してなのかを混同してはいけない。

日本含め資本主義社会においては、基本的には「機会」の平等、公平、あるいは均等を重要視している。雇用にしても、選挙にしても、教育にしても。門戸は広く開けている。あとは努力した者が報われるように。というスタンスを、あらゆるところで感じる。それが本当に実現しているのかはまた別の話なんだけども。

一方で「結果」を重視するのが社会主義、または共産主義みたいなものだろう。これはたぶん、政府が仕事を平等に振り分け、給与も平等。徹底的に「結果」を平等にしていくような考え方だと思う。詳しくないけど。

とまあテキトーなことをダラダラ書いてきたけれど、今回の話の本筋はそこではない。

今回は、どちらの平等、公平、あるいは均等の考え方からも嫌われている(と思われる)、「世襲」について。稚拙ながら僕のお気持ちを表明する所存。

世襲ってのは、親の家業を子または親族が継ぐこと。世の中、思ってる以上に世襲でできている。

芸能人や政治家の世襲はかなり有名だし、親の七光りだ!なんて非難されているのもよく目にする。経済界に目を向けても、経営者を世襲している同族企業が、上場企業の53%を占めていたりする。上場していない中小企業まで合わせれば、もっと多いはずだ。同族企業のアレコレはリンクを貼っておくので是非。↓


で、世襲については、やっぱり世間的には風当たりが強いように思う。政治家や芸能人、経営者になりたい人々からすれば、これはもう機会も結果も不平等極まりないからだ。

ただ、僕個人としては、不平等、不公平、または不均等だからといって世襲を攻撃するのは、それもちょっと違うような気がする。そこにはある種の諦めのような感情があるかもしれない。

世界のみんなが平等を目指して邁進する中、水を指すようなことを書いてしまうが、人間は元来、不平等である。機会とか結果とか関係なく、不平等だし、不公平だし、不均等なのである。これはもう、人為によってどうにかできるものではない。

親は選べないし、生まれつき何かしらの疾患を持つこともある(その特性を疾患と呼ぶか否かはまた議論が必要だとして)。性差は生物学的に存在するし、社会にうまく溶け込める性格を持てるか、なんてもはや運である。

ここで僕が一番大きいと思うのが、親が選べないこと。親というのは、否応なく、人間の一番大事な成長に際して最も深く、長く関わる人間だ。子は親を見て育つ。この、如何ともし難い不均等が、世襲の有用性に繋がっている。ある人には不本意かもしれないが、世襲は至って有用な、優れたシステムだ。

ここで僕の身の上話を1つ。僕の親は、自営業を営んでいる。つまりは、経営者である。とはいっても、従業員5人に満たない超零細企業であるが。。

僕はその親を見て育った。家業を手伝い、お客さんと関わることも多い。その中で、「お店は継ぐの?継ぎなよお。」と言われることのなんと多いことか。今日現在、僕に家業を継ぐ気は一欠片もない。ごめん両親。そして、そのことを「継げ」と言うお客さんに話すと、ほぼ決まってこう言う。「えーもったいない。お店続けてほしいのに…」と。そんで僕が意地悪くも、「〇〇さんが継いでくれてもいいんですよ」なんて返すと、「いやぁ、継ぐのは家族じゃなきゃ」とかわされるのである。

なぜ、継ぐのは家族じゃなきゃいけないのか。これは多分、古い固定概念に縛られている、なんていうことではない。合理的に、それが妥当だからである。

僕は幼少から両親の働く姿を見続け、そして手伝うことで習得した。いわば、新卒にして即戦力。齢20そこらにして、修行歴20年弱なのである。そりゃそうである。継ぐのは家族であるべき、なんてのは、実務面で見れば火を見るより明らかなのである。

で、きっとこのことは他業種でも言えるわけで。政治家の子どもが政治家になる、芸能人の子どもが芸能人になる、経営者の子どもが経営者になる、それぞれのハードルが相対的に、圧倒的に低いのはもう、どうにもならない事実である。

これを不平等、不公平、あるいは不均等であるとして非難することの是非については、まあなんとも言えないなあ。でも、不平等だったとして、いかに是正するのかという議論はもはや答えを持たないような気がする。そもそも是「正」なのかも怪しい。それは、人間の生物的な特性を一部否定するような行為になりかねないからだ。

例えば3歳に満たない子どもに将来の職業を選ばせ、親を交換することは、ある種の平等をもたらすかもしれない。でもそれは、人間が加齢とともに知識や判断力を習熟させるという前提を無視している。3歳の子どもが、彼の長い人生を的確に、後悔なく判断し得るのだろうか。何より、肉親たちは我が子を3歳にして旅立たせることに何も感じないはずがない。

もちろん、子どもに職業選択の自由は保証されるべきである。両親は、家業を継ぐことを僕に強要しなかった。僕はこれをありがたいと思うと同時に、それが当然であるとの感情も併せ持っている。

しかし子どもが望んだ場合、世襲が相対的に有利であるのは変えようのない事実だと思う。例えそれが不平等で、不公平で、不均等であっても。

世襲といえば、天皇制なんて、その最たるものだ。血統をこれでもかと重んじている。言うなれば、「国民の象徴」という家業を世襲しているのである。

ただ、天皇制に関しては今までダラダラ書いてきた世襲とは全く違う特性を持っている。民族的な、神聖な扱いでもって、世襲が貫かれている面が強い。法的にはもう神聖じゃないはずなんだけど、多くの国民にはそんな感情がほんの少しあるんじゃないかと思う。

天皇制がどうあるべきか論は、僕の知識ではどうこう言える立場にないのでノーコメント。でも、僕たちは、平等を願い、叫びながら、一方で不平等の極みである世襲を容認し、なんなら神聖視する一面も併せ持っている。

僕には、不平等、不公平、あるいは不均等というものが、人間の元来持つ多様性の中に、既に組み込まれているように思えてならない。

まあ、だからどうってわけでもないんだけどね。

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