歴史・人物伝~新選組上洛編⑥会津藩お預かりに
幕府が組織した浪士組は清川八郎の策略にまんまとはまり、天皇の意をくんだ尊王攘夷集団に様変わりしてしまいました。これに異を唱えた芹沢鴨と近藤勇の一派だけが浪士組から離れることになったのです。
清川は攘夷決行のため、江戸に引き返す決断をします。清川に煮え湯を飲まされた幕府首脳は、芹沢、近藤一派が京に残り、将軍警護と治安維持という当初の目的を果たせるよう知恵を絞ったのです。
当時、京都で治安維持の最高責任者だったのは、会津藩の松平容保でした。幕府首脳の要請を受け、芹沢、近藤一派を「会津藩お預かり」として召し抱えたのです。芹沢らにとっては有り難い「助け舟」でした。
会津藩が彼らを受け入れた背景には、治安維持のためには志士たちの監視だけでなく、粛清という手段も選ばねばならず、そうしたダーティーな仕事を芹沢、近藤一派に担わせようとしたのではないかと推察されます。
加えて、芹沢鴨が水戸脱藩浪士で尊王攘夷の志が高かったことも、松平容保の目に留まったのではないでしょうか。むろん、この時点では近藤勇らの存在を容保が知る由もなかったわけです。
こうして、会津藩お預かりの身として京に滞在することが出来た芹沢、近藤一派は、引き続き壬生村に滞在し「壬生浪士組」となって活動を開始。これが、後の「新選組」になっていくのです。
新選組上洛編は今回で終了します。この続きは改めて書きたいと思います。
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