歴史・人物伝~エピソード編⑤:信玄vs謙信「死に様から見えたこと」
戦国武将のライバル関係として真っ先に挙げられるのが、甲斐(山梨県)の武田信玄と越後(新潟県)の上杉謙信です。5度にわたる川中島の合戦は、戦国屈指の名勝負として語り継がれています。
ともに、最終目標は上洛だったとされていますが、信玄も謙信も道半ばで命が尽きてしまいました。しかし、死に至る経過とその後の展開は好対照だったと言えます。二人の「死に様」を見てみましょう。
余命を悟った武田信玄
信玄は、織田信長との対決に向けて大軍勢を率いて西へと進みます。三方ケ原の戦いで徳川家康を撃破し、信長の勢力圏内間近にまで迫っていましたが、陣中で病状が悪化し、甲府に引き返さざるをえなくなりました。
大軍勢を進める以前から体調はあまりよくなかったとされ、信玄自身も「死期はそう遠くない」と悟っていたふしがあります。自分の息のあるうちに、信長との戦いにケリをつけたいと考えたのでしょう。
お家騒動のタネになりかねない後継者問題にも、きっちりと道筋を立てました。諏訪氏を継いでいた四男の勝頼の子、つまり信玄にとって孫となる信勝を後継当主に据え、その名代として勝頼を指名しました。
陣中で病気が悪化した信玄は、勝頼に対して「自分の死を3年間秘し、その間は力を蓄えておけ」と遺言したそうです。ライバルの上杉謙信については「頼りにすべき人物」と語ったとも伝えられています。
信玄は、己の余命を悟ることができたうえで、何をすべきかを考える時間がありました。だからこそ、自分が死んでも微動だにしない武田家を残そうと、出来る限りの手を尽くせたのだと思います。
突然死した上杉謙信
謙信は、死の前年に加賀(石川県)で織田信長軍と直接対決をし、柴田勝家率いるの軍勢を打ち破ります。冬になったのでいったん越後に軍勢を引き上げ、次の軍事行動に向けて準備を進めていました。
この軍事行動は、関東管領としての関東遠征だったのか、あるいは再び西へと向かおうとしていたのかは分かりません。なぜなら、その最中に謙信は厠で倒れ、意識不明のまま突然死してしまったからです。
謙信には実子がおらず、姉の子である景勝と北条氏の人質である景虎という二人の養子がいました。しかし、後継者の指名は行っていませんでした。まさか、この時点で自分が死ぬとは思っていなかったのでしょう。
また、信玄が「我が死を3年間秘せ」と遺言し、武田家の行くべき道を示唆したのに対し、突然死した謙信は上杉家の方向性を明確に示すことができませんでした。後継者問題と共に、当然家中は動揺してしまいます。
その結果、お互いに後継者を主張した景勝と景虎は、家中を二分する後継者争い(御館の乱)を起こしてしまいます。戦いは1年におよび、その間信長はさらに勢力を拡大し、両家の実力差がさらに開くことになるのです。
どんな死に様が理想なのか?
歴史にifはありませんが、もしも二人の死に様が逆だったら、歴史はどうなっていたでしょうか? 信玄が大軍勢を率いていた途中で突然死したら・・・、謙信が余命を悟っていたとしたら・・・
信玄はよく、「上洛を目の前にした無念の死」と評されることがあります。ですが私は、「武田家の盤石な体制を維持する」という目的を果たした点では、安堵して死を迎えられたのではないかと思います。
一方で上杉家は、謙信というカリスマ的存在を失い、後継者争いまで起きて弱体化してしまいました。謙信は、打倒信長や関東管領の使命、さらに上杉家の行く末、すべてにおいて「無念の死」となってしまったのです。
適切な表現ではないかもしれませんが、謙信は「ピンピン、コロリ」の代表格、一方の信玄は「余命宣告をされた患者」と言えます。どちらの生き様、死に様が理想なのか・・・その結論は出せません。