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鏡の向こうの自分とこっちの自分
さて、無意識あるいは自ずから(おのずから)というあり方について考えるにあたって、自己意識というところからはじめたいと思います。自己意識というのは、意識の対象が自己であるとき、つまり自分に意識が向いているときのことですね。比喩的に、鏡を見ているときのことを思い浮かべてみましょう。
鏡に自分が映っていて、それを自分が見ています。そのとき、鏡に映っている自分とそれを見ている自分がいます。鏡に向かってニコッと笑えば、鏡に映っている自分もニコッと笑います。どっちの自分が「ほんもの」なのか、そんな疑問を抱くことはめったにないと思いますが、もしもそんなふうに聞かれたとしたら、もちろん鏡を見ている自分だと答えるでしょう。
でも、たとえば、鏡に映っている自分が、けっこうやつれて年を取ったなとか、疲れているように見えるみたいなことを思うとき、「ほんもの」であるはずの鏡のこっちにいる自分は、年を取っているとか、疲れているということに気づいていないということになります。若いつもりだったのに、鏡に映った自分のやつれた顔を見たとたん、なんか老け込んだような気持ちになってくるとか、疲れている自分に気づいた、なんてことがあります。そう思うと、鏡に映った自分のほうが「ほんもの」だって、言えなくもないかもしれません。
とりわけ、若い人はいっぱんに鏡に映った自分を気にします。そこに見えている自分こそが「ほんもの」であるかのように、鏡に映る自分を整えようとします。ちなみに、動物に鏡を見せる実験がいろいろありますが、霊長類のように知能が高い動物は、それが自分であることに気づくことができます。おもしろいのは、そこに映っているのが自分だと気づくと、やがて興味を失ってしまうのだそうです。鏡に映った自分をいつまでも気にして、鏡をのぞき込むのは、人間に特有のことのようです。
鏡の比喩を使ってきましたが、鏡は他者の目でもあります。他人から見て自分がどのように見えるのか、ということを人はとても気にするということですね。しかし、人が鏡に映った自分を気にするのは、他人にどう見られるかを気にしているだけではありません。フランスの精神分析医ジャック・ラカンという人の鏡像段階という発達理論によれば、赤ちゃんは、はじめのうち自分の体や自分の存在というまとまりがつかない混沌とした状態だと考えられますが、身体機能や認知機能が成長するなかで、鏡に映った自分を発見し、これが自分であるという視覚的なイメージに先導されて自己意識が紡ぎ出されていくと考えました。鏡に映った自分を見ることで、自分がどのようであるのかを認識することができるというわけです。
鏡に映った自分は、意識的にとらえている自分です。以前の記事にも書きましたが、認識能力の高い人間だからこそ、そのように客観的に自分を眺めることができるわけです。そうすることによって、他人から見た自分がどうあるべきなのかといったことを考えながら、自分をそれに適合するように調整することも可能になりました。それによって得たものも大きいのはもちろんですが、それによって振り回されてしまう面があるということについては、今までの記事にも書いたとおりです。自分を意識するということは、同時に他者から見た自分を意識することでもあるので、体験の純度が低下します(このことは「狙わずに狙う」という記事で書きました)。逆に、自分を意識せずに、体験そのものであるとき(別の言い方をするとマインドフルな状態のとき)、自ずから(おのずから)の自分に統合されていると言えるでしょう。
ただ、概念的にそのように理解したとして、それを実践するのはけっこう難しいものです。とはいえ、理解しないまま振り回されてしまうのも不本意なことですので、引き続いて、鏡の自分に自分が乗っ取られるという問題や、鏡のこちらの自分を活かすということがどういうことなのか、いろいろな素材を使って考えていきたいと思います。