![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/108294716/rectangle_large_type_2_bb4b51a8f39078fa3023e0e107799c73.jpeg?width=1200)
夏目漱石と「自己本位」
自分がどのようであらねばらないのか、自分の外側に理想のイメージを追いかけるあまり、ほんらいの自分が後ろに置き去りにされてしまう……。このところのいくつかの記事では、そのような分裂を、鏡に映った自分(他人から見た自分)と鏡のこちらで体験している自分として比喩的にとらえ、理想のイメージを追いかける悲劇について、ジュリアン・グリーンの小説を題材に考えたり、鏡のこちら側の体験している自分に留まることの大切さについて、稲垣えみ子さんのエッセイやイチロー選手、大谷翔平選手などを手がかりに考えてきました。
今回は、自分の外側に「あるべき自分」を追い求めて道を見失い、引きこもり状態になりながらも自分自身に立ち戻り、その後、人生の後半にかけて生産的な時期を過ごした人物を取り上げたいと思います。
その人物は、多くの人がその名と作品(少なくてもその一部)を知っている作家、夏目漱石です。漱石は江戸から明治へと時代が大きく変わっていく激動期に生まれました。もともと漢文の素養のあった人ですが、西洋化・近代化のうねりの中で、兄から勧められて英語を学びます。内側の伝統的な文化と外側の外来文化の葛藤を抱えながら英語の教師をしているうちに、国から留学の話があり、国費でイギリスのロンドンに留学をすることになります。
当時(20世紀初頭)、ロンドンはもちろん海外はまだ日本人が旅行や留学で気楽に行ける場所ではなく、まるっきりアウェイな地で、漱石は体格的にも語学力においても劣等感を感じながら英文学を学びはじめます。しかし、ほどなくそれも止め、下宿に引きこもるようになってしまいます。漱石が精神的に変調を来したらしいと日本に伝わったことで、渡英後二年ほどで呼び戻され帰国した漱石は、ひとまず大学で英語を教えるようになりますが、やがて『吾輩は猫である』の最初の章を皮切りに小説を書き始め、亡くなるまでの10年ほどのあいだに朝日新聞の新聞小説として、『こころ』など後世に残る作品を残し、近代日本文学の文豪として知られるようになります。
ロンドンでの留学の経験について、漱石は後日「私の個人主義」という講演の中で語っています。それによると、もともと英語を学んだり英語の教員になったりイギリスに留学したのは、自分の意志というより流れに流されてのことで、文学を学ぶためにロンドンに来たものの、何をしたら良いのかわからず、まるで霧の中か袋の中にいるような感じだったとのことです。いくら本を読んでも文学とは何かがわかるようになる気がしません。人の意見を取り込んで自分の意見のような顔をしたとしても、借りた着物を着ているようなもので、自分の中にこれといって手ごたえがあるわけではない。ある作品を人が良いと批評するからそれが良いと言っているようではだめだということに気づき、自分の立ち位置を定めるために、自分の内側に目を向けるようになります。漱石はその転換を「自己本位」という言葉で呼んでいます。その考え方に目覚めてから、「ツルハシをがちりと鉱脈に掘り当てた」ような気がして、ようやく霧が晴れてきたように感じたと言います。外側からは精神状態の悪化によって引きこもっているように見えたわけですが、漱石の中では非常に大きな変化が生じていて、その後の著作活動につながる基礎が培われていたわけです。
漱石は、とても生真面目な人だったようですので、流れに流されながらも期待に応えようとして、一生懸命、外側にある知識を吸収するべく頑張っていたのでしょう。得た知識を笠に着て、権威的に振舞う人もたくさんいますが、漱石がそのような態度にならなかった――むしろ内的な空虚感や不安を自覚していたところをみると、誠実かつ謙虚な人でもあったのでしょう。だからこそとも言えますが、いくら外側の知識を取り入れても、自分の内側の矛盾や不安がなくなるわけではなく、それを続けていくことに希望が持てなくなり、やむにやまれずという懊悩の果てに、外側に「良い」ものを追いかけるのではなく、自分の内側の「自分自身」に立脚点を見出さなければならないという転換を遂げました。鏡のこちら側と向こう側という比喩になぞらえると、鏡の向こう側の理想的なイメージに同一化することをやめ、鏡のこちら側にいる自分自身を活かす方向に転じたということになります。漱石の留学と引きこもりはあたかもチョウがさなぎから羽化するように、内的に大きな変化を遂げるために必要なことだったと言えるかもしれません。
ついでに言うと、漱石は「現代日本の開花」という別の講演で、日本の近代化が内側の必然ではなく、外側である西洋からの借り物の近代化であることを指摘しています。漱石の個人的な経験は、ひとり漱石だけの問題ではなく、日本の文化的な問題でもあるわけです。漱石は明治維新後の急激な近代化のことを言っているわけですが、漱石の没後、日本は二度の世界大戦に足を踏み込み、敗戦後の高度経済成長の「追いつき追い越せ」のスローガンが表すように、経済的な遅れを取り戻すべく邁進していくことになります。漱石が指摘した内側の必然なるものをどれだけ取り入れてきたのか、というとはなはだ心もとない感じがしますね。そして今や時代はデジタルの時代になり、ますます外側の変化のスピードに追いつくのがたいへんになってきています。そういう時代だからこそ、完全に自分を見失ってしまう前に、内側の必然に目を向けることが大切なのではないかと思います。
漱石が小説家として執筆活動をしていたのは、わずか10年ほどの短い期間でしたが、自分の内側の鉱脈から多くの作品を生み出しました。晩年、漱石は「則天去私」という境地について語っています。「自己本位」と「則天去私」の関係、あるいはその変遷については、いずれまた別の機会にでも記事にしたいと思います。