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ことばは、事の端(ことのは)しか言い表せないけど、ことばを使うしかない
意識と無意識のバランスをとるということはどういうことか、それを考えるために、まず意識の方から見るために、有島武郎の「リアリスト」、森田療法の「あるがまま」、認知行動療法の「マインドフルネス」などの考え方を見てきました。これらは用いている用語は違いますが、共通して今、現在の体験を中心に置いています。こうした考え方と無意識ということがどのようにつながってくるのか(あるいは、「自ら(みずから)」と「自ずから(おのずから)」という以前の記事の区分では、自ずから(おのずから)というありかたとどうつながってくるのか)、何回かにわけて考えていこうと思います。
無意識や自ずから(おのずから)というあり方は、生きていくうえでとても大事なことなのだと思いますが、それがなんであるのか、どのようなことであるのか、ことばでとらえるのがけっこう難しいものでもあります。たとえて言うなら、都会の夜空に星を探すときのように、視野の周辺に見つけたと思って視線を向けると見えなくなってしまうのに似ています。ですから、いろいろな素材を手がかりに、複数の切り口から近づいていくことで、少しずつ近づいていけるのではないかと思います。
ことばでとらえるということ自体、同じようなもどかしさがあるということをまずは押さえておきたいと思います。仏教では、経文は月を指す指だという譬えがあります。指(経文(ことば)の比喩)は、月(悟りの比喩)を示すための手段(ツール)に過ぎないのに、月を見ようとせず、指ばっかりを見てしまうことを戒めているわけですが、その本態がよくわからないものであればあるほど、手がかりにしがみついてしまうということはわからなくもありません。
ことばということば(まどろっこしい言い方ですが)そのものの成り立ちにも、ことばは「事の端(ことのは)」に過ぎないという認識があったという説もあります。出来事の一部であるという「ことのは」が転じて「ことば」になったというわけですが、ただ、これはあとづけで語呂合わせをしただけなのかもしれません。でも、たとえば映画を見終えたあとにその感想を言おうと思うと、自分が感じていたことを言い表すぴったりとしたことばを見つけるのは、けっこう難しく感じますね。仕方ないので「すごかった」とか「感動した」とか「泣けた」とか、それっぽいことばで間に合わせたり、「ことばにできないくらい」のように、あえてことばにしないことで、その体験のすごさを間接的に言い表そうとしたりします。
ことばは、体験そのものを伝えようとするともどかしいツールですが、それでも、それについて考えるためには、ことばを使うしかありません。また、うまくことばを使うことで、ことばで言い表せないようなことを、なんとか言い表せるということがないとも限りません。話をもとに戻すと、自分の中の無意識的な側面や自ずから(おのずから)というようなあり方は体験的なものなので、意識的・反省的にとらえるのが難しく、ことばで説明しようとすると、とたんに抜け殻みたいになってしまいます(どうしてそういうことになるのか、これから少しずつ見ていこうと思います)。
というわけで、次回以降、うまくことばにできるかわかりませんが、意識と無意識のバランスということについて、とりわけ、無意識や自ずから(おのずから)というあり方について、ことばにするのが難しいことではありますが、その端っこの方からちょっとずつ、ことばにしていこうと思います。