Free Child(自由な子ども)
せっかく書いた記事を投稿しようとしたら、バグってしまった。まあ、大したことを書いたわけじゃないけれど、消えた・・・(涙)
ちょっと切り口を変えて、再トライ!
年末だ。年末と言えば除夜の鐘。大晦日に鐘をついて108の煩悩を粉砕する。最近は色々とうるさいことを言われるから、打つのをやめたお寺も多いのかもしれない。
7月からNoteを書き始めて、これが106記事め。一つ一つが煩悩。自己紹介にも書いているけれど、自分の頭の中を整理するために書いている。そりゃ煩悩だろう。年末までに、あと二つ書けるだろうか。
色々と書き殴ってきたおかげで、頭の中はずいぶんと整然とした。整理されたということは、「書き殴りのネタ」がなくなってきたということでもある。そろそろ路線を変更する時期かもしれない。
それはそれとして、106個目の煩悩は、私自身の変化について書いてみる。Noteに引っ越しする前に、ブログを書いていた。もう、消してしまったけれど、6月ごろに書いた記事がある。それをバージョンアップしてみる。
私が液体を打たない理由はいくつかあるけれど、一つは自分の身体が借り物だと思っているからだ。人生ゲームのコマのような車。これはレンタルされたもので、かなりの高性能。無償で貸してくださったのは神様。身体のメンテをするのは与えられたミッションをちゃんと遂行できるようにするためであって、自分の所有物だからするのではない。
だから、変なものを、しかも、口や皮膚といった正規ルートではなく、血管に直接ぶち込むという非正規ルートで注入するという暴力を、貸主の許可もなく受け入れるわけにはいかないというわけだ。
また、この車には二人の人物が乗っている。一人はわがままでどうしようもない子ども。この子が車を運転している。もう一人は、この子どもをなだめすかして良い方向に向わせるオカン。
この発想は交流分析の構造分析がもとになっている。
「どうしようもない子ども」というのが、自由な子供(FC:FreeChild)で、「オカン」は養育的な親(NP:NurturingParent)部分も持つけれど、どちらかと言えば大人(A:Adult)部分が大きい。ちなみに、「オトン」は批判的な親(CP:CriticalParent)で、「おりこうさん」の従順な子ども(AC:AdaptedChild)を連れてどこかに行った。
めいこさんも動画で似たようなことをおっしゃっていたけれど、その動画をみつけられなかった。消されたのかもしれない。確か、三つの自我があって、その一つが「虐待的自我」で、ここで言う「オトン」のようなものだと思った。それを排除して自由に生きられるようになった、そんな話だったと思う。
6月にブログに書いたころは、「自由な子ども」が「やりたくない!」「そっちはいやだ!」「あれがほしい!」「動きたくない」とか、好き勝手を言うと、オカンが「他人様の迷惑になるでしょ?」「あとで困るよ」「がんばってやり終えたらいいことあるよ」などなど、なだめすかしていた。
ふと気づけば、オカンがいない!「自由な子ども」がオカンと一体化したのか?それとも大人になったのか?
いや、「自由な子ども」はどこまで行ってもわがままでどうしようもない子どもだ。
このごろ、よく空を見上げる。こんなに青空がきれいだと思ったことがないほど。それも、一日や二日ではない。
助手席にオカンがいなくても、空を見上げればどうすればいいのかが分かるようになったのかもしれない。オカンは役目が終わったから去っていったのだろう。
”Free Child(自由な子ども)”はどこまで行っても自分勝手でわがままだ。それが命じるままに動く人ばかりになれば、世の中がおかしくなるのは当たり前。そして返って不自由になる。不自由になったところに邪悪なものが忍び込む。
煽られてきたからね~
昨日の記事の『日暮硯』の恩田木工。改革の特徴の一つは、信仰を大事にしたということだ。”Free Child(自由な子ども)”の論理ではない、人智を越えたものに従うほうが、だまされることもなく、世の中も上手くいき、生きやすいということを、木工は知っていたのだと思った。
そろそろ、私たちも気づかないとね。そういう人が増えたら、邪悪なものも身動き取れなくなると思う。
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