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stay home 丹羽長秀

「丹羽長秀」

知名度や人気では勝家や秀吉に劣りますが、信長からの評価は最も高かった家臣かもしれません。

丹羽長秀は天文四年(1535年)生まれ。
織田信長のひとつ下でした。


天文十九年(1550年)頃から信長に仕え、生涯一度も背信することなく、各地を転戦し続けました。

ちなみに柴田勝家はもともと信長の弟 織田信行の家臣で信長を排除しようとしたことがありましたし、
秀吉も実は最初の主君が信長ではなかったので、それに対して長秀の誠実ぶり。

信長は彼を「友であり、兄弟」とまで評しています。
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さらに長秀の血縁と信長の血縁は2回も婚姻関係を結んでいて、わりとRealなFamilyなんです。

「My brotherとその息子は信頼できる」と思ったから2度も結婚したのでしょうね。

長秀は朝廷への使者や、畿内の行政、寺院や周辺大名への所領安堵など、さまざまな仕事をこなしております。
まさに文武両道のユーティリティプレイヤー!

信長からも絶大な信頼を与えられながらも、
決して自分を過信・過剰評価することはありませんでした。

織田家に大きな貢献をした長秀は信長より若狭をまるごと与えられることになります。
織田家の家臣の中で最初に「一国の主」になりました。

また信長が彼に官位を与えた際、
彼はこれを一度「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と断っています。

世間的な地位や名誉などいらないから、ずっと織田家のために働きたい……
という彼らしい欲のなさがわかるエピソードです。

さて、本能寺の変をきっかけに秀吉の下で仕えるようになった長秀は、
その後、織田家を排除して天下を狙う行動をとる秀吉に嫌気がさして居城にひきこもるようになります。

秀吉は何度も長秀を呼び出しましたが、最後までStayHomeで出向くことはなかったとか。

そして秀吉に対する最後の抵抗の意思を示すために、
1585年4月16日49歳で自ら命を絶ったといわれています。

不器用で忠義一筋の長秀。
最後まで織田家に忠誠を誓っていたのでしょう。

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