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ひとりの心にささる言葉
最初は自己満足だった「noteで文章を書く」という私の行動にも欲が少し出てきたらしく、昨日よりいいものを書きたいとか、苦しいけれど今日も続けていたいとか、色々思うようになった。
それはいい意味で調子に乗ってきた証拠で、真っ当といえば真っ当だ。手が届きそうというところには頑張って手を伸ばしたくなる。
そんな具合に色々思うことの中に、「ひとりの心にささる言葉を綴りたい」という漠然とした思いが浮かんできた。
ひとり、心、ささる、言葉、綴る。
この言葉に込めた思いはいくつかある。
その中でも「ひとり」と「ささる」には強い思いがある。
◇
誰かの言葉が心にささった経験は、きっと誰もが多かれ少なかれもっている。
今でも原動力になっている言葉も、ずっと足枷になっている言葉も、どちらも心にささる言葉だ。
できれば足枷になっている過去の言葉は程々にしておきたいところだけれど、いずれにしても、ささった言葉は今の私を生かしている。
あの言葉があるから今の私がある
ありきたりなフレーズかもしれないけれど、余計な飾りはいらない。
◇
真偽のほどは置いておくとして、昔から自分は感性がズレているように思えて仕方ない。昨日の価値観の尊重の話によく通じている部分だ。
その場にいる全員に見過ごされたことがものすごく大事に見えたり、「楽な方を選んでいいよ」と言われて素直に選んだら「え、そっち?」と驚かれたり、ちょっとしたなんでもないことに心が大きく動いたりする。
世の中を席巻する言葉や作品が全然刺さらないこともある。
みんなが感動していることにちっとも感動しないとか。みんなが絶賛するものに「え、それはおかしくないか…」と思ってしまうとか(水を差すことはしないようにしている)。なんか悔しいって思うときもある。
そんな感じでちょっとずつ違和感を何年も溜め続けてきた結果、自分の感性に関しての特筆事項は「時々ズレている」である。
一度そう書いてしまったら、自分自身に対して先入観をもってしまう。
みんながいいというものに気軽にイエスを言えなくなった。
どんな些細な、趣味とか流行とか個人レベルまで細分化された小さな世界でも、主体性ばっかり掲げて、直感で楽しむとかなんか惹かれるとかそういうのがどんどん失われていって、大多数が肯定するものに勝手にひとりで立ち向かう気分になっていた。
それゆえに、「万人に届く言葉」に対しても受取拒否の看板を立てて追い返してしまうことが多かった。
(そういう話はまた今度することにしよう。これ以上書くと脱線する。)
結果として「私ひとりに直接ささる誰かの一言」に対する偏愛が生まれた。
「万人に届く言葉じゃなくて、ひとりにささる言葉の方が私は好きだな」とか言いたい時期もあったっけ。
結局のところ、恋愛みたいに、特別感に飢えていただけかもしれない。
それでもって、「ひとり」の心に「ささる」言葉を、私も書きたいと思うようになっていた。
◇
今では万人に届く言葉も好きだ。そういう言葉にも心を動かされてきた。
でも、自分がするならば、万人に届く言葉よりひとりの心にささる言葉を綴りたい。そう思っている。
そこにはひょっとしたら、万人に届くような言葉を書けないという自分の心の悔しさが現れた、ちょっと醜い嫉妬の影が漂っているかもしれない。そこのところは正直自分でも分からない。見えない嫉妬だってあるだろう。
ともかく、私は私というひとりの人間にささった言葉に救われたから、私の綴る言葉も同じように誰かの心にもささったらいいな、と思っている。
こればかりは策略を練って為せることではないので、気軽にいたい。